天王山
天王山は標高270mの山で、大山崎の町の真横に横たわっている。
天王山の登り口は幾つかあるが、JR山崎駅近くの踏切を渡ったところの登り口から登ってみる。
案内によると、ここが初心者向きで見どころが多くなっているとあった。
宝積寺
しばらく登ると、さっそく見どころ歴史スポットが。
宝積寺は奈良時代の724年(神亀元年)に行基によって建立された寺。
右の木の葉で隠れてしまった石碑には聖武天皇勅願所と書かれている。
宝積寺も東大寺を建立したことで有名な聖武天皇の勅願で創建され、奈良時代から大山崎は重要な場所だった。
宝積寺は山崎の戦いで羽柴秀吉が本陣を置いた場所と言われている。
小さくて申し訳ないが、左の方に出世石と書かれた立札があり、その横に木枠に囲まれた石がある。
この石は山崎の戦いの際に秀吉がこの石に座って采配を振るっていたとされている。
本当だとすると、この石は日本の歴史を変えた石と言えるかもしれない。
次のところへ行く前に、心和む石像を見つけた。大層な話の歴史スポットが続いたので、丁度いい中休み。
しかしまた壮麗で派手な歴史が詰まったものがあった。
この重要文化財になっている三重塔は、秀吉が一夜で建てた一夜の塔と呼ばれている。
秀吉が一晩でやってくれました。
秀吉の道
秀吉の話ばかりで申し訳ないが、大山崎町が天王山で秀吉を猛プッシュしているから仕方がない。
天王山ハイキングコースは秀吉の道と名付けられ、コースには秀吉の天下取りへの物語を解説した案内板が設置されている。
解説は小説家で有名な堺屋太一氏が書かれている。
文字通りここが勝負の分かれ目天王山で、登るだけで日本の歴史が変わった瞬間を感じることが出来る山なのだ。
山崎合戦之碑があるが、次の秀吉の道で説明されている様に、実際は天王山で戦いがあったわけではなかった。
石碑の近く次の秀吉の道があった。山崎の戦いで両軍が対峙している様子が描かれている。
両軍は小泉川を挟んで対峙している。右側が秀吉軍、左側が明智軍。
当時の大山崎の地形がよく分かって面白い。
右上の山が男山でその山上にあるのが石清水八幡宮。その麓を流れるのが淀川。
真ん中あたりには池があり、これが奈良、平安時代の山崎津だったと思う。戦国時代には沼になっていた。
左上には淀城、左下の城は勝龍寺城がある。
勝敗が決した様子で、秀吉軍が押せ押せモードになっている。
次々と兵士が右の大山崎の町から出てきて、明智軍に攻めかかろうとしている。
その出口にある木戸が始めに紹介した東黒門跡だと思われる。
ここで明智光秀の敗因を考えてみると、一番に挙げられるのが圧倒的な兵力差。
戦国時代に下剋上はよくあるが、そのやり方は傀儡主君を擁立するパターンが多い。
主君殺しというのは味方の支持を得られづらいため、他でも成功例が思い浮かばない。
他の敗因で筆者的に強く挙げたいのが、大山崎の禁制である。
禁制とは大名や武将が町村や寺社などに略奪・破壊などから保護することを約束した誓約書のことで、町村や寺社が大名に代価を支払って発行してもらう。
大山崎は本能寺の変の数日後に、明智光秀に禁制を求めており、また中国大返しで畿内に引き返してきた秀吉にも素早く禁制を求めた。
情報感度が異常なまでに高く、複数の禁制を得るための財力も持ち合わせていた。
上二枚の案内板の近くには展望台があった。丁度、山崎の主戦場が眼下に見える。
禁制ため、大山崎の町を戦場にすることが出来かった光秀は、眼下の東西に走っている京都縦貫自動車道の辺りで待ち受けた。
左側に見えるIC付近が主戦場で、比較的広い場所の為、大軍を擁している秀吉が有利となり勝利したのである。
大山崎の町が二人の運命を決定づけたと言える。
明智軍が敗走し光秀が居城の坂本城へ行く途中、村人に落ち武者狩りにあうシーン。
村人は竹槍を携えているが、戦国時代は兵農分離していないので、本物の槍だった可能性もあると言われている。
明智光秀を古い時代の常識人とし、内容も光秀に対して評価が厳しめな感じ。
堺屋氏は古い時代の改革者として信長や秀吉を高く評価しているので、光秀は改革に対する批判者とし、評価が低くなっているかもしれない。
個人的には明智光秀が古い常識にこだわる人間とは思えない。その理由は鉄砲の有用性に早くから気付いていることや、信長と足利義昭の対立時に信長を選んだことである。
信長程ではなくても光秀も伝統や格式よりも、合理的に物事を判断する考え方の人間がだったと思う。
本能寺の変を起こした理由は、個人的にはブラック企業織田家での仕事のストレスではないかと思っている。
遂に天王山の山頂に到着し、秀吉の道も最後の1枚となった。
信長の仇である明智光秀を山崎の戦いで倒したことで秀吉の天下人へ繋がる第一歩になった。
案内は秀吉をかなりべた褒めしていて、堺屋氏は信長以上に秀吉を評価しているみたい。
ただ柴田勝家を秀吉の天下取りを拒もうとした邪魔者みたいに書いてあるのはちょっと納得がいかない。
この点だけは主家である織田家を蔑ろにする秀吉の方に問題があると思う。
山崎城跡
山頂のもう一つ見どころ、山崎城跡。
山崎城の築城者は不明だが室町時代前半には存在していたと言われている。
室町幕府にとっても、大山崎は重要な地点だったので山名や細川が城主となっていた。
さっきから秀吉と光秀の山崎の戦いばかりピックアップされているが、大山崎では細川晴元と細川高国が管領の座を争った桂川原の戦いがあった。誰も知らんわ(笑)
この戦いでは、実際に天王山も戦場となって山崎城が落城している。
戦いは晴元が勝ち、ライバル高国を追い落し、管領への道を駆け上って行った。
ここは秀吉の道だけでなく晴元の道でもあったのだ。
ここが山崎城の天守台で、秀吉時代には高層の天守閣があった。
山崎の戦いの後、秀吉は清須会議で長浜城を柴田家に渡したので、山崎城を大坂城に移るまでの仮の本拠地としていた。
その期間は非常に短く、1584(天正12年)に廃城となった。
井戸跡が発掘されていた。
山の上で地下水が出るものなのかと思っていたが、雨水を溜めて利用していたと思われると書いてあった。
そう言えば、他の山城では飲み水の確保ってどうしていたのだろうか?
次は山を下りて、駅近にも重要な歴史スポットがあったので見に行く。
妙喜庵
JR山崎駅の目の前に妙喜庵という寺がある。
元々は室町時代に建立された東福寺系の寺院。
実はここにも大山崎が変えた日本の歴史があるのだ。
ここには千利休が設えた日本最古の茶室「待庵」が現存している。千利休が携わった茶室で現存しているのはここ待庵のみとなっている。
中を見物するためには希望の1ヶ月前に往復はがきで申し込む必要があるので、今回は見ることは出来なかった。
古くはこの辺りを水生野(みなせの)と呼ばれ、名水の地として知られていた。今も水無瀬(みなせ)という名で残っている。
千利休も山崎の水を気に入り、この場所に茶室を建てたと言われている。
千利休といえば、禅宗のミニマリズム的思想と茶文化のおもてなしの精神を結び付け、侘び茶という新しい美の世界を想像した茶人。
待庵は千利休が理想とした茶室の原型となっており、たった二畳の部屋には細やかな工夫がされているとのこと。
茶道のミニマリズムは小さくて可愛いものを好む今の日本人の感性にも繋がっていると思う。
つまりこの待庵こそが日本人の美意識の方向性を決定づけた場所なのである。
次はいよいよ大阪府に突入する。
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