宇治歴史観光1 藤原道長と紫式部、源氏物語ゆかりの町、宇治を垣間見る

「わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ山と 人はいうなり」

喜撰法師が歌った様に宇治は京都の東南に位置している町。

都に近く風光明媚な土地であったため、華やかな平安貴族の別業(別荘)が立ち並ぶ高級別荘地であった

その一方で俗世間から離れ憂いを帯びた雰囲気もあり、人の世の儚さや恋愛の悲しみなどをテーマにした源氏物語の最終章「宇治十帖」の舞台にもなっている。

今回は藤原道長と源氏物語をテーマに宇治の歴史スポットを巡って行く。

宇治で垣間見る、藤原道長と源氏物語。3つのポイント

  • 極楽浄土の世界を表現、藤原氏栄華の象徴、平等院鳳凰堂
  • 藤原道長が築いた高級別荘地の町割り、碁盤目状街区
  • 宇治川が生み出す陰と陽の対比。源氏物語「宇治十帖」の世界
目次

JR宇治駅

JR宇治駅

宇治へは京都駅から奈良線のみやこ路快速で僅か15分とかなり近い。

宇治駅の写真を撮っていて気付いたが、JR宇治駅の駅舎は左右対称になっている。これは平等院をイメージしているらしい。衝撃の事実やわ。

しかし最近はキャッシュレス化で10円玉にご無沙汰しており、平等院の形を思い出せない。

では早速、確かめに平等院へ行ってみよう。

平等院

平等院 入口

駅から平等院まで休日の観光客で溢れた人混みの参道を通り、平等院入口に到着。

平等院は光源氏のモデルとなったと言われている源融(みなもとのとおる)の別荘だったもので、そこから変遷を経て、藤原道長の別荘となった。

その息子の頼道の時に寺院に改められた。

平等院 表門

平等院の北門にあたる表門。いつ建てられたか分からないが、比較的シンプルな造り。

道長の時代は今より広くて、西側は縣通りまであった様。寺院に改修してからは多くの伽藍があったらしい。

しかし壮麗な伽藍群は南北朝時代に足利尊氏と楠木正成の戦いに巻き込まれ、唯一、鳳凰堂を残して全てが焼失してしまった

戦争と言うものはいつの時代でも貴重な文化財を犠牲にしてしまう。

平等院鳳凰堂 右から

境内に入り少し進むと、いきなりこの世のモノとも思えない美しい風景が現れる。

池の中心に鳳凰堂を据えたこの景色は、極楽浄土とはこんなに美しいところやろうなと、イメージして作り上げた空間なのである

平安時代後期は仏教の末法思想や政治の乱れ、治安の悪化により貴族社会に厭世感が高まっていた。

末法思想とは、お釈迦様が亡くなってから2000年後は、仏法が廃れて世の中が荒廃すると考えられており、平等院を寺院に改修した1052年(永承7年)が丁度、その年と言われていた。

そこであの世にある極楽浄土に行けば救われるという考え方が広まり、極楽浄土に行くための舞台装置が平等院鳳凰堂(阿弥陀堂)なのである。

平等院鳳凰堂 前から

極楽浄土は西方にあると信じられていたので、鳳凰堂は西に向かって建てられている。写真が向いている方向が西向き。

今は外から平等院が見えない様に周りに木々が植わっているが、真後ろには宇治川が流れている。

これは筆者の想像だが、宇治川を三途の川に見立てて、対岸から見ると川の向こうに浄土が見えるという配置にしているのではないだろうか。

極楽浄土に来た様な美しい景色を前にして野暮なことを言うようだが、JR宇治駅と比較してみなければ。

中堂が駅舎、左右の翼廊が階段、あと中堂には後ろに尾廊があって、それが駅舎奥の跨線橋にリンクしていて確かに建物全体の形は似ている。

ただ当たり前のことだが、JR宇治駅と平等院鳳凰堂が根本的に違っていることがある。平等院鳳凰堂は非実用性の極みなのである。

平等院鳳凰堂 左から

面白いことにこの鳳凰堂、極楽浄土のイメージを優先させているため、かなり見た目重視になっているのだ

例えば中堂の扉の上の回廊はただの飾りで、お堂の内部には階段がなく上に登ることが出来ない。左右の翼廊の屋根がある建物も上に登る階段がどこにもない。

寺院としても非現実的な建物であり、平安時代の現実逃避的な末法思想を表していると思う。

よくみると中堂に人だかりがあり、堂内も見学出来る様になっていて、右側の橋から入れる。

平等院鳳凰堂 堂内への入口

堂内に入る時は人数制限があり、ここに並んで順番に入る。

平等院鳳凰堂の後ろ側

後ろ側には高低差があり、浄土院などが立ち並んでいる。この高低差は位置的に宇治川の河岸段丘だと思う。

間近で見ると配色がほぼ赤と白と屋根の灰色のみで、それがシンプルな美しさになっている気がする。

写真はここまでで中は写真撮影禁止であった。

お堂の内部は本当に凄く国宝のオンパレードで、圧倒的な仏教芸術の世界であった。堂内の壁や扉には九品来迎図が描かれていて、極楽浄土へ行くためのイメージトレーニングの空間って感じであった。 

ただかなり損傷が激しくて、全く極楽浄土がイメージ出来ない。そこで境内にある博物館の鳳翔館に最新技術を用いて当時の堂内の様子を見ることが出来るようになっている。

それにしても人間の想像力って凄いと思う。仏教にしろキリスト教しろ、行ったこともない極楽や天国を建物や絵画で描き出すって。

鳳凰堂から見た景色。平安時代の平等院は宇治川に面していたが、今は木々が境内を囲っていて、宇治川は見れなくなっている。

USJの様に、中と外を完全に隔絶した空間にして、別世界に来たような感覚を入山者に与えている。

鳳翔館

ここが九品来迎図など当時の堂内を再現展示されている鳳翔館

他にも鳳凰堂の屋根に据え付けられている真の鳳凰が展示されている。大気汚染などで劣化が激しくなってきたため、館内で大切に保管されている。

今の鳳凰堂にある鳳凰は新しく制作した2代目なのである。

この鳳翔館、パッと見は平屋の一階建てに見えるが、この段差は鳳凰堂の後方にあった宇治川の河岸段丘になっていて、建物の大半が段丘の中に隠されているのだ

写真の場所は出口で、入り口は段丘をくり抜いた様な場所にある。何故こんな不思議な構造にしているかと言うと、景観に調和する様に配慮しているとのこと。

境内で現代的な建物は鳳翔館のみで、目に付く場所にあると極楽浄土感が薄れてしまう。

平等院って全体的に朱色が基調の為、あまりお寺って感じしないと思っていたが、梵鐘を見ると寺であると納得。

平等院の梵鐘はかなりのレアもので、天下の三名鐘の一つに数えられている

音の三井寺、銘の神護寺、姿形の平等院と言われており、平等院の鐘は姿の美しさで三名鐘に選ばれている

ただ梵鐘も鳳凰と同じく大気汚染による劣化を防ぐため、鳳翔館に保存されている。この鐘は2代目。

鐘には龍や鳳凰、獅子、天女等が描かれ、隅々まで文様がある絵画的な梵鐘になっている。確かに姿形の平等院ってのも分かる気がする。音や銘と違い、梵鐘に詳しくない筆者でも良さが分かりやすい。

平等院鳳凰堂 後ろから

後方の段丘上から見た、鳳凰堂。この位置からだと金色に輝く鳳凰が良く見える。

他にも境内には源頼政のお墓など見どころが満載だが、今回のテーマとは少し違うので、次の場所へ向かう。

平等院の外にも平等院を感じれるところがあるのだ。

その場所は入ってきた表門ではなく、鳳翔館の横にある南門からが近い。

縣神社

縣神社

南門を出たところの本町通りを西へ200mほど行くと、神社が見えてくる。

平安時代、平等院の敷地はこの縣神社付近まであったと言われおり、平等院の総鎮守社となっていた

相当に古い神社で、縣(県)というのは大化の改新以前の朝廷の直轄地という意味。

と言うことは、その時代からあったのかもしれない。調べたが古すぎてよく分からないみたい。

本殿

本殿にはたくさんの地元企業の奉納提灯が飾られている。お茶の綾鷹で有名な上林や祇園にある抹茶スイーツで有名な辻利の名前が見える。さすが宇治茶の本場!

今は宇治の守り神として親しまれていて、平等院の総鎮守ではなくなっている。

では今の縣神社からは平等院や藤原氏の痕跡を感じることは出来ないのかというと、そんなことはない。

藤原氏ゆかりのお祭りが今も行われているのだ。それが6月に行われる大幣神事である

元は藤原氏が宇治の平穏と五穀豊穣を願った道餐祭(みちあえのまつり)が始まり

900年間、伝承されてきた平安時代を感じることが出来る貴重なお祭り。

残念ながらこの時は10月だったので時季外れ。

縣神社のシンボル的存在、樹齢500年以上の椋の木。

戦国や江戸時代と違って、平安時代の藤原氏の歴史スポットとなると古すぎて、その名残はあまり残っていない。

しかし宇治の町中に、平安時代の名残を感じるスポットがあるのだ。

1 2 3

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

この記事が気に入ったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

コメント

コメントする

目次