大山崎は京都府乙訓郡大山崎町と大阪府島本町山崎にまたがる地域。
京都と大阪の移動時に必ず通るため地名だけは知っていても、実際に行ったことがあると言う人は少ないと思う。
大山崎で特に有名な出来事といえば、羽柴秀吉と明智光秀が戦った天下分け目の山崎の戦い(天王山の戦い)。
実は大山崎は地理的に非常に重要な場所で、この戦いに匹敵する日本の歴史の転換点になった出来事が何度もあった。
今回は大山崎が成した偉業を町を巡りながら紹介しようと思う。
大山崎、3つの地理的有利ポイント
- 歴史ある重要都市、京都、大阪、奈良を繋ぐ水運の中間地点
- 数多くの鉄道と道が集結した日本屈指の交通の要衝
- 京都西山一帯から湧き出る山崎の名水
大山崎の場所
まずは大山崎の位置から見て頂きたい。というのも大山崎は非常に面白いところ位置しており、重要なポイントになっているからだ。
大山崎がある位置は京都盆地の入り口にあたる。
京都側から流れてきた桂川や宇治川、木津川は全て大山崎に吸い寄せられる様に集まっている。
3本の川は淀川となって巨大な扇状地である大阪平野を作り出して、大阪湾に注いでいく。
京都と大阪が砂時計の上と下だとすると、大山崎は細くくびれているところになる。
もちろん、大山崎に集結するのは川だけではない。
道も鉄道も全て大山崎付近で一堂に会している。
道は左から①名神高速道路、②西国街道、③171号線、④京街道。
鉄道は⑤JR東海道線、⑥阪急京都線、⑦東海道新幹線、⑧京阪本線と通っている重要幹線の数がハンバではない。
この多さはおそらく日本一だと思う。
そんな鉄オタも大興奮の大山崎に、阪急京都線で向かうことにした。
阪急大山崎駅
京都在住の筆者は、阪急河原町駅から大山崎へ向かった。
悲しいことに大山崎は特急は停車しないため、長岡天神で普通に乗り換える。
大山崎みたいな日本の歴史上超重要な町をスルーするとは…。
河原町から20分ほどで大山崎に到着した。
ここで降りたことはほとんどなかったが、大山崎付近は山が迫ってきてJRや新幹線との並走が見られる鉄オタ大興奮の区間である。
駅のお手洗いがやたら風情がある雰囲気にしつらえてあった。
大山崎の山々は竹林が茂っているところが多いため、そのイメージだと思うが、何故お手洗いに?
取り敢えず竹林のお手洗いで身も心もすっきりしてから、まずは昔の大山崎の町の入り口に行ってみた。
東黒門跡
西国街道の宿場町であった大山崎は、街道沿い(今の府道67号線)に町が細く長く続く町並みだった。
大山崎では治安の維持も住民で行っており、町の安全の為に東西の入り口に門を設けていた。
道が拡幅されているので跡形も無くなっているが、東黒門跡には道を屈曲させた鍵の手があった。
鍵の手も敵の侵入に備えての防御施設で、住民が自ら町を守っていた。
じつは大山崎は博多や堺と並ぶ室町時代からの自治都市で、なんと江戸時代も住民による自治が認められていた。
博多や堺が自治都市になれたのは港町として発展したからだが、何故大山崎は自治都市になれたのか?
それは大山崎が日本の歴史を変えたあるものを発明したためである。後でそのスポットを訪れるのでお楽しみに。
山崎津跡
大山崎は3本の川が合流する地点で、水運にとって非常に便の良い場所であった。
山崎津は784年(延暦3年)、奈良の平城京から長岡京遷都(今の長岡京市)の時に造営されたものと言われている。
その後、すぐに京都の平安京に遷都するが、山崎津の重要性は変わらず難波津と平安京の中継地点として賑わいが増していった。
周りは住宅地で何の面影も残っていないが、道の突き当りには運河のような川が流れていて、そこから想像の糸を手繰り寄せると港の風景が蘇ってくる気がする。
大山崎は平安京造営時には瓦の生産地であり、山崎津から平安京に運ばれた。
その瓦の窯跡が史跡公園になっているので見に行ってみる。
大山崎瓦窯跡
瓦は百済から仏教と一緒に伝わってきた当時の最新技術で、寺院のみに用いられていた。
平安時代になると宮殿や官舎にも使われるようになり、平安京の近辺で瓦の生産地が発見されている。
瓦は非常に重たいため、生産地は水運に便利な場所であることが重要であった。
窯跡は山の斜面上に配置されている。
近くに阪急京都線にJR東海道本線が走っていて、その向こうには石清水八幡宮がある男山が見える。
当時の地形や港の風景を描いた案内板があった。
左上の絵図からすると、山崎津は川の本流から外れた低湿地にあったみたいだ。
しかし土砂が流れ込んで徐々に水深が浅くなり、右の図では沼になってしまっている。
室町、江戸時代には川の沿岸に荷揚げ場があったようで、流通の重要な拠点であった。
特に鎌倉、室町時代の大山崎はあるものを発明し空前の発展を遂げていった。それはえごま油である。
油祖 離宮八幡宮
離宮八幡宮は町のほぼ真ん中に位置し、中世の大山崎の中心的存在であった。
この神社が大山崎から日本の歴史を変えたスポットの一つなのである。
突然の話だが、蛍光灯はおろか白熱電球も無い時代の灯りといえば、油による灯火であった。
より明るく、より長時間、灯りを維持できる油が開発され、中でもえごま油の有用性が高かった。
平安時代、灯火は特に仏事や神事に必要とされ、多くの寺社は自ら油の製造を行っていた。
そんな中で離宮八幡宮が他の寺社の油製造を凌駕するものを発明した。
えごま油を絞り出す搾油器「長木」を発明し、えごま油の大量生産を可能にしたのである。
離宮八幡宮で製造されたえごま油は多くの寺社仏閣がある京都で販売され大繁盛した。
この方法は他の地域にも伝わり、離宮八幡宮は朝廷から日本の油製造の歴史を変えた功績を讃えられ「油祖」の称号を授けられた。
更に離宮八幡宮は朝廷から油の販売独占権を獲得し、大山崎油座(同業者による組合の様なもの)が形成された。
他の油商人は離宮八幡宮の許可なしに油を扱うことが出来なくなり、大山崎油座は中世日本最大の油座となったのである。
まるで1970代、石油の生産や販売を独占したセブンシスターズみたいだ。
ただ戦国時代になると織田信長による楽市楽座の政策により、座が廃止され自由に商売が出来るようになった。楽市楽座とは現代の独占禁止法に当てはまる。
更に江戸時代になると、えごま油より有用性が高い菜種油に取って代わられ、油製造における大山崎の優位性は次第に無くなっていった。
面白いことが書いてある石碑があった。
左が「八幡宮御神領守護不入之所」、右が「八幡宮御神領大山崎総荘」とある。
守護というのは鎌倉、室町時代の封建領主のことで、戦国や江戸時代の大名の様なものである。
それが不入之地ということは、大山崎は守護が治める土地ではなく、離宮八幡宮の神領として自治権が認められていたということである。
大山崎が自治都市であったことの証で、当時はこの石碑がそれぞれ町の両端に設置されていたとのこと。
人の好さそうなお爺さんの油祖像があった。
油製造の始めの頃、油を皮袋に入れて八幡神に奉納していた姿を表しているらしい。
左の弓矢の的の様な円盤も当時の油製造に関係あるのかと思っていたがそうではなかった。
これは離宮八幡宮が遷座されて1100年を記念して1957年に選定された、全国油脂販売業者共通の店頭標識と案内に書いてあった。
ちなみこれをデザインしたのは甲子園在住の方らしいのだが、黄色地に黒丸ってとある球団を彷彿させる気が。
えごま油で大儲けした以前の離宮八幡宮は、今よりかなり巨大な敷地と壮麗な社殿を構えていた。
しかし幕末の動乱で、戦に巻き込まれ境内の殆どが焼失してしまった。
神社の北側にはJR東海道本線が通っているが、元々はそこも離宮八幡宮の敷地で、開通時に縮小させられた。
今の社殿は1879年(明治12年)に再建され、1929年(昭和4年)に現在の形に改築されたもの。
かつての栄華の名残の一つとして、拝殿の奥には石が整然と並んでいるところがある。
江戸時代にはここに多宝塔が建っていたらしく、これらの石は多宝塔の礎石だった。
離宮八幡宮の栄枯盛衰を見たところで、次は天下を争った二人の男の運命の分かれ目となった天王山に向かった。
コメント