室津民俗館
室津民俗館は江戸時代の商人「魚屋」の屋敷で、姫路藩の御用商人であり苗字帯刀を許された豊野家の遺構となっている。
こちらでは室津の文化に関する展示がされている。
偶然ながら筆者が訪れた9月1日には、ちょっと時季外れな行事が行われていた。
江戸時代の室津の絵図があった。室津内の町筋はほとんど変わっていないが、湊の外に繋がる道がほとんど無い。
下の写真は年代が見当たらないが、多分明治から昭和のいずれかだと思う。
船が室津港に群れる様に集まっている。これだけの帆船が集まっている様子は、もう見ることはない。
鉄道や車が発明される前の交通手段と言えば船であったので、海や川が近くにある土地が繁栄していた。
以前、同じくたつの市の旧龍野城下町を訪れた。
龍野と言えば龍野醤油やそうめんの揖保乃糸が有名だが、その時は室津のことを忘れていて、龍野の発展にまさか北前船が関係しているとは思わなかった。
春の陽気に相応しく、豪華な雛人形が飾られていた。いや待った、今日って9月1日のはずやったな。半年も時季外れやん。
解説によると室津では八朔の雛祭りと言って、旧暦の8月1日の「八朔の日」に雛祭りを行うのが伝統となっているとのこと。この日は丁度、最終日であった。
この雛祭りには、秀吉の軍師で有名な黒田官兵衛が関係していた。
黒田官兵衛には妹がおり、政略結婚で室津の室山城主・浦上清宗の元へ嫁いでいった。
しかしその婚礼の日、浦上家と敵対している龍野城主・赤松政秀はこの政略結婚を阻止するため、室山城へ攻め寄せてきた。
花嫁も奮戦したが、追い詰められ夫婦共々討ち死にしてしまった。
大河ドラマ「軍師官兵衛」では妹ではなく、官兵衛の初恋の人、おたつが黒田家の養女となり浦上家に嫁ぐと言う流れになっていた。妹にせよ初恋相手にせよ、官兵衛にとって青春時代の悲しい別れだっただろう。
この日は1564(永禄7)年1月11日で、室津の人は悲劇の花嫁を悼み、3月3日の雛祭りを旧暦の8月1日まで延期したと伝わっている。
一見、華やかだが悲劇的な出来事からきており、室津の人の優しさが伝わってくるようである。
後で、悲劇の現場となった室山城にも行ってみる。
ひな壇が飾ってある部屋は、室津海駅館と同じように天井が窓に向かって下がっている。
向こうと違ってカーブではなく、斜め一直線に下がっている。
カーブしている方が、柔らかい印象をうける。
珍しく当時、使われていた駕籠が残されている。
豊野家は苗字帯刀を許されており、駕籠で姫路城に登城する権利も与えられていた。
でも駕籠ってかなり乗り心地が悪かったと聞くので、権利を与えられても嬉しくなかったのでは…。
微妙に生活感を感じる裏庭。
2つの資料館で室津の歴史について色々知ったところで、次はリアルな室津と触れ合いに町歩きをしてみる。
室津の町並み
室津民俗資料館付近。かなりいい感じに江戸時代の町並みが残されている。
右の室津診療所がマジで素晴らしい。
海と山に挟まれた土地に出来た町なので、建物は密集し狭い路地が非常に多い。
それが歴史ある湊町って感じがして、独特の風情を出している。
室津海駅館の裏側には、海が見えないくらいの漁船が停泊している。
船は北前船から漁船に変わったが、その多さは今も変わっていない。
向こうの岸には江戸時代の土蔵が立ち並んでいる様に見えるが、実際は現代家屋も交じっている。
上が白く、下が板塀?っぽいので統一されているので、瀬戸内海有数の湊町であった室津港の繁華が今も続いている様。
湾を囲む様に船がビッシリと停泊している。
司馬遼太郎の「街道をゆく、播州揖保川・室津みち」から今の室津は物寂びた雰囲気かと思っていたが、そんなことは無いよう。
個人的には昔の風情を残しつつ、今に合わせて発展している町が好きである。
室津も新しい魅力が生み出している。それが、
室津牡蠣
道の駅で食べた室津牡蠣である。
室津は牡蠣の養殖が非常に盛んで、周りの山々や近くを流れる千種川、揖保川から豊富な栄養分が流れ込んだ海で育った牡蠣は丸々と大きく太り栄養満点で甘みたっぷりとのこと。
実は室津での牡蠣の養殖の歴史は意外に浅く、1998年(平成10年)に始まった。
養殖開始当初は生産者はたった4軒だったが、今は15軒に増えており、正に宿場町に変わる室津の新しい産業である。
この写真に写る建物の全てが牡蠣の直売所。しかし9月はシーズンオフのようで店がほとんどやっていなかった😢
カキフライドッグだけではやはり物足りない。美味しいものがあるとリピートしたくなるので、名物って重要やと思う。
下記のサイトで室津牡蠣の水産会社の紹介がされている。
姫路みたいホームページへ
直売所の近くには国道に戻る道があり、そこから室津湾を一望できる。
「街道をゆく」で平清盛と共に室津を訪れた藤原道親が記した「高倉院厳島御幸記」に室津が登場いるとあった。
「湾は山をめぐらせて、その中の水面が池の様である、と述べているあたり、私が崖の中腹の宿のアルミ窓枠のガラスごしに見ている感想と、八百年の歳月をへだてながら、少しも変わらない」。
それから約50年、筆者が見ている感想も変わらない。
姫路藩御茶屋跡
室津民俗資料館の近くには、朝鮮通信使の接待に使われた姫路藩御茶屋の石碑があった。
石碑には当時の屏風絵が描かれていて、室津は日韓外交の一翼を担っていたという誇りが、石に刻み付けられているかの様である。
石碑のある場所は、みなと茶屋という喫茶店になっている。
前日まで台風が来ていたため、この日は臨時休業していた。
ネットで調べたとろ、地元の方のボランティアで営業されているみたいで、地元の人の憩いの場にもなっているとのこと。
朝鮮通信使の接待という大仕事を終えて、今は地元密着の店として静かな余生を過ごしている。
本陣跡
町巡りをしていると本陣跡を幾つか見つけることが出来た。
司馬遼太郎の「街道をゆく」では本陣屋敷の様子を
「城楼の蔵を備えた堂々たる破風造りの二階建ながら、壁は落ち、大屋根は波打ち、なんともすさまじい落ち崩れようながらも、歴史の残映を平然と白昼の路上に取り残させているあたり、室津という町の凄みといっていい」と描いている。
もはやその凄みは失われてしまったようである。
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