滋賀県の湖北地方、琵琶湖の東岸に位置する長浜。
始まりは羽柴秀吉が築いた城下町で、江戸や明治の伝統建築が建ち並ぶ黒壁スクエアが人気の観光都市です。
しかし、長浜の魅力はそれだけではありません。長浜城の城下町、北国街道の宿場町、大通寺の門前町、琵琶湖水運の港町という4つの顔を持ち、今もそれら全てが残っている稀有な街なのです。
何故、長浜は4つの顔をもつ町になったのでしょうか?
その謎を町を巡って探ってみました。今回は後編で、門前町と港町を掘り下げていきます。
まずは、黒壁スクエアから大通寺へ向かいます。

大手門通り商店街

長浜城大手門跡から伸びる大手門通り。
秀吉時代から続く商業地域で、戦後になってからアーケードが付けられたりして商店街化されました。
アーケード商店街の中に江戸、明治の伝統建築が残っていて、色んな時代が融合されたような商店街になっています。

右側には歴史を感じさせる金物店があり、その隣や向かいにも古そうな建物が残っています。
お店のラインナップはどちらかというと観光に特化させた感じで、地元の人はあまりいないかも。
観光客的には散策が非常に楽しい商店街です。

前編では鯖そうめんの店に行きましたが、長浜には他にも名物があります。とろりとした餡が特徴の「のっぺいうどん」です。
茂美志屋さんは10年以上前、初めて一人で長浜を訪れた時に入った店でした。

ビワマス丼とのっぺいうどんのセットを注文。京都のたぬきうどん(あんかけうどん)よりも餡のとろみが強く、うどんを引き上げるのに重さを感じるほどでした。大きな椎茸も特徴で、かぶりつくと椎茸の出汁が染み出し、スープと混ざり合ってめっちゃ美味かったです。
発祥は明治時代、大阪のあんかけうどんや京都のしっぽくうどん、郷土料理ののっぺい汁を参考に編み出されたとのこと。
ビワマスは初めて食べました。ビワマスは琵琶湖にのみ生息する超レアな淡水魚です。
鮭の仲間で、パッと見は鮭の刺身みたいな感じですが、食べてみてもほんとに鮭みたいな感じでした。脂がのっていてかつクセがなくて美味しかったです。鮭との違いは…、分かりませんでした。芸能人格付けチェックとかで出されたら、絶対に分からへんと思うわ。
一つはっきりした違いがありました。その値段です。ビワマスの方が圧倒的に高く、滋賀県でもあまり食べられていないようです。じゃあ鮭でええやんってなるけど、そこは観光に来たので地元のモノが食べたいってとこですね~。
では、大通寺に向かいましょう。

途中で橋が架かっていました。商店街内に川が横切っているって結構珍しい。
左側のうさぎも気になりますが、右側の橋のたもとにある木造建築が凄い作りになっています。

1階と2階がずれてるやん。1階は川にはみ出してるのに、2階は道にはみ出してる。どういうことやねん。
地下部分は川の水を引き込んでいて、ひょっとしたら川舟の格納庫だったかもしれません。
隣にある玉八商店が管理してきた家だそうです。玉八商店は1668(寛文8)年、創業の手すき和紙の店です。

一見、何屋さんなのかよくわからないお店「文泉堂」。
創業は1877(明治10)年。100年を越す老舗書店で、新聞や文具、教科書も扱っているとのこと。今はそれに加えてカフェやギャラリーもオープン。
本屋とカフェの組み合わせって最近よくあるな。本を買ってそこのカフェで読むってなんか心地が良くて、いい組み合わせやわ。
店内には勝海舟が書いた「心如金石」の扁額が飾ってあるとのこと。しまったー。知ってたら入ったのに…。
大通寺参道

大手門通り商店街の突き当りの道は大通寺の参道となっています。
商店街の雰囲気とはガラリと変わった感じ。店のラインナップがより観光特化して、観光寺院の参道って感じがします。
もちろん建物は歴史のあるものばかりです。

日中は観光客で賑わっていた参道も、夕暮れ時には店も閉まりほとんど見かけなくなった。
人がいなくなった参道は先の方まで見通すことが出来、突き当りには大通寺の山門が。

超巨大な山門。1808(文化5)年に着工し33年の年月を経て完成しました。
この時は、大河ドラマ「豊臣兄弟」が放送中で、ゆかりの地である長浜には「大河ドラマ館」がオープンしていました。

山門内部にも細かい装飾がされています。
総ケヤキ造りで、全体的に重厚かつ格式高い雰囲気。長浜の経済力の高さが繁栄されてますね。

大通寺は湖北地域を代表する真宗大谷派の寺院。
近江(滋賀県)は浄土真宗中興の祖「蓮如上人」の布教の中心地で、その中でも湖北地域は真宗王国と言われるまで教えが広まっていました。長浜の町の中に道場ができ、長浜城の廃城に伴い城跡に移り長浜御坊と呼ばれていました。
1602(慶長7)年に京都に東本願寺が建立されると、長浜御坊は東本願寺の末寺となり大通寺となり、湖北地域における浄土真宗の寺院の拠点となりました。
1606(慶長11)年、長浜藩が成立したことで城から現在地に移転し、参道沿いには多くの商店が立ち並びました。
宿場町+門前町の相乗効果により、多くの参拝客が訪れる様になり大きな経済効果をもたらしました。

拝観料を払って本堂内へ。堂内は撮影禁止でしたので、是非ご自身で訪れて見て下さい。マジで必見の価値アリです。
そこで問題です。秀吉が初めて大名となった城は長浜城ですが、最後を迎えたのはどこの城でしょう?
答えは京都にある伏見城です。その遺構は当地には残っておらず様々な場所へ移設されました。いまの城は近鉄が建てたもの。しかも耐震性の問題から入城不可になっています。
その伏見城の遺構の一つが大通寺の本堂に。
徳川家康が伏見城の殿舎を東本願寺に寄進し、その後、大通寺に移築されたとのこと。

今の本堂と大広間が伏見城の遺構と伝わっています。襖絵などが残っていて豪華絢爛な桃山文化の雰囲気を感じることが出来ました。
天下人秀吉が居並ぶ諸侯に対面していた部屋だと思うと、感慨深いです。
あと、徳川家康と鳥居元忠が別れの盃を酌み交したのも、この大広間だったかもしれません。鳥居元忠ファンの筆者からすると目頭が熱くなってきます😢

一番奥に入ったところにある蘭亭から見える蘭亭庭園。ここは撮影可でした。部屋には円山応挙作の蘭亭曲水宴図が描かれており、そこから名付けられた。
当初は池泉庭園だった様ですが水が枯れています。奥に滝石組が右側に太鼓橋があり水がない分、石の豪快さが感じられる庭園になっています。

19世紀前半に建立された太鼓楼。城の望楼型天守の様です。
この時は、あの有名な黄金の茶室が復元され太鼓楼内で公開されていました。

大通寺にはもう一つ門がありました。庫裡の正面にあることから台所門と呼ばれています。大河ドラマ館はここが入館口となっていました。
この門が長浜城大手門と言われています。大通寺が長浜城跡から現在地に移った際、門も一緒に移されたとのこと。
1913(大正2)年に門を修理した際、扉金具から天正16年(1588)8月16日の刻銘が見つかったことから、山内一豊時代の大手門と言われています。
ガイドさんの解説によると、門の横の柱に幾つかの小さな穴があって、当時の弾痕跡だそうです。長浜城が戦場になったのは、本能寺の変後、明智や柴田とゴタゴタしてた時だけだったので、多分その時のものでしょう。その後、城主となった山内一豊が修築しているので、話の辻褄が合いますね。

