京都北部の丹後エリアには、日本三景の一つ「天橋立」や世界遺産の「伊根の舟屋」、旧海軍の鎮守府「舞鶴港」など古都京都のイメージとは違った魅力があります。
その丹後エリアのほぼ中心に位置するのが天橋立がある宮津市です。宮津は天橋立のすぐ隣にある港町で、天橋立に行く途中の町という薄い印象しかありませんでした。
戦国の武将、細川藤孝・忠興親子が築いた宮津は、江戸時代になると北前船の寄港地として丹後随一の港町となるまで栄えました。その繁栄は京都随一の花街、祇園と並び称され「南の祇園、北の宮津」と言われたほどでした。
今回は、宮津の町を巡りかつての繁栄の面影を探してみました。
宮津巡り 3つのポイント
- 細川氏と一色氏の因縁の城、宮津城
- 神社、寺、教会、3つの宗教施設が混在する町並み
- 丹後ちりめんと北前船。丹後随一の港町の面影
宮津城跡

町の中心を流れる大手川。大手川が作り出した扇状地に宮津の町並みが広がっています。
大手川沿いには、石垣と白壁がかなりの距離に渡って続いています。かつて川沿いにあった宮津城の城壁です。
宮津城は織田信長に丹後を与えられた細川藤孝・忠興父子によって1580(天正8)年に築かれました。

その一角に、いかにも城門って感じの古風な瓦屋根の木造門がありました。
この門がかつて宮津城の城門で、太鼓櫓の近くにあったものを明治の時に現在地に移築されました。今は宮津小学校の校門として利用されています。
宮津城は廃藩置県の時に完全に廃城となり周りの堀や石垣も、道と鉄道の開通のため跡形もなく失われてしまいました。実は関ヶ原の戦いの際も、細川藤孝自身で城を焼いており、それも合わせると、2回も自らの手で破棄されていました。
か細いながら江戸時代からの歴史の繋がりとして、この場所は藩校「禮譲館」があったところで、明治期には宮津校、高等小学校、宮津女子尋常小学校と続いており、江戸時代から一貫して宮津の子供達の学問を担う場所でありました。

城の横に流れる大手川は、宮津城の西堀として利用されていました。
発掘調査で石垣が見つかり、その上には白壁が復元され、町から見た宮津城の情景が再現されました。
白壁と石垣は約240mに渡って復元されています。
ただ気になるのが、石垣が低すぎひん? 最低でも橋の高さくらいまではあるのが自然やと思う。

川沿いに北へ移動すると、大手橋という橋がありました。その名の通り宮津城の大手門に通じる橋でした。
江戸時代は木造の橋で、1886(明治19)年に石造りの橋となり、1984(昭和59)年に今の橋に架け替えられました。元々は、今より少し南側に架かっていましたが、昭和の時に今の場所に移設されました。
では大手橋を渡って、宮津城内へ。

大手橋を渡って海側の方へ行ったところにある宮津竹田病院前に大きな石と解説版がありました。
それによると、この辺りは二ノ丸で、南へ80mほどのところにあった本丸入口のくろがね門の袖石垣の一つ。
今、この辺りを見渡しても海は全く見えませんが、宮津城は海に面する水城となっていました。

近くの宮津歴史の館に江戸時代の城の縄張り図に今の道路網を合わせた案内図がありました。
城は完全に市街地化され、鉄道も城内を貫通しています。それよりも一番の驚きが、北側は海になっていて堀は海と繋がっています。
宮津城の築城には信長から「明智光秀と相談して堅固な城を築くように」と指示があったと言われています。というのも、明智光秀は琵琶湖に面した坂本城や大溝城の築城経験があり水軍を所有していたことから、水城に関して一日の長がありました。
明智光秀の水城は、それまでにあった単に海の近くに作られた城とはちがい、石垣を備え城内には海水堀が張り巡らされた城でした。船で直接、城内に出入り出来る様になっており、海運や水軍の拠点にもなっていました。
宮津城は近世水城の先駆けとも言える城で、港を抑えるだけの城から、城下町と港町を合わせ持った海上城郭都市へ移り変わる過渡期の城だったのです。
一色稲荷神社

大手橋を渡って次の角のところに、境内を覆いつくすほどの桜の巨木の緑が印象的な神社がありました。
一色稲荷神社は室町時代、丹後守護を務めた一色氏を祀った神社。一色氏は足利氏の一門で、室町幕府の侍所(軍事や警察)を任じられた家柄。侍所を任じられた四職(一色氏、山名氏、京極氏、赤松氏)の筆頭でした。
そんな名家も戦国時代には没落して、凡百の守護家のようにただ消えて行くのかと思いきや、最後の輝きがありました。
「最後の一色」。のぼうの城や村上海賊の娘を書いた和田竜氏の小説です。長岡忠興(細川忠興のこと)と一色五郎義定(一色家当主)のダブル主人公で、同い年の二人が丹後を巡って戦う物語です。
と言っても、まだ未読であらすじを読んだだけ。でも、それだけで物語に引き込まれ、つい思い余って先に聖地に来てしまいました。

織田信長に丹後侵攻を命じられた細川藤孝と明智光秀。対する一色義定は天橋立近くの弓木城に籠城し、攻撃に耐え抜きます。
攻めあぐねた細川藤孝は、娘を一色義定の嫁にする条件で和議を結び、丹後を細川と一色で分割統治することとなります。
しばらくは平穏な日々が続きますが、織田信長が本能寺の変で倒れると、両家の運命は一変します。
細川は明智光秀と袂をわかち、一色は光秀の味方をします。敗者となった光秀につき謀反の疑いをもたれた一色義定は、宮津城内で細川忠興によって謀殺されます。
これはただの歴史的事実ですが、これをどのように小説で描いているのかが楽しみです。

境内には一色義清の自刃の碑がありました。一色義清は義定の叔父。
義定が宮津城で殺されたことを知ると、家督を継ぎ復讐を果たすべく、細川忠興と戦いました。
激戦の後、義清は細川軍の本陣に突撃をしかけ、下宮津の海岸で戦死しました。これにより丹後守護一色家は滅亡となりました😢。
神社は、後ろめたいやり方で滅亡させた一色氏の怨霊に対するおそれから、鎮魂の為に建立されたと言われています。
日本では怨霊信仰が根強く、菅原道真や平将門、崇徳上皇の様に非業の死と遂げた人は怨霊となるという考え方があります。神社は怨霊を鎮める封印機能があるとされています。

