宇治の碁盤目街区
縣神社の西側を通る縣通り。この道は平安時代からある道で、右側が縣神社を含めて平等院の敷地だった。
平等院沿いに真っ直ぐ伸びる道となっていた。
平等院南門から縣神社の南を通って西へ真っすぐ伸びる、本町通り。
ここも平安時代からある道で、県通りとは直角に交差する。この付近は路地も含めて、殆どの道が直角に交差している。
宇治は京都と同じく碁盤の目の町割りになっていたのである。直線の町割りの元祖は藤原氏にあるといっていいかもしれない。
ちょっと待て、碁盤目状の町なんかいくらでもあるやろ!と多くの方は思われるかもしれない。
安心してほしい、ちょっと碁盤目状になっているだけで、平安時代の名残なんて単純なことを言うつもりはない。
ここは縣神社から対角線上にある路地の交差点。ここはちょっと不思議な事になっている。
左側と右側からの道は直角に交差しているが、筆者が立っている道はその交差点に向かって斜め45度で突入しており、整った碁盤の目が崩れてしまっているのだ。
何故こうなっているのか?それがよく分かる場所が本町通りを西に進んだところにある。
なんということでしょう。直角どころか新幹線のヘッドノーズのように流線型の交差点になってしまっている。
右の道が本町通りで、縣神社からほぼ一直線で碁盤の目を維持してくれている。
それに対してふざけた事に左の道が斜めに合流してきているのだ。これは宇治橋通りいい、鎌倉か室町に造られた道なのである。
何故、せっかくの碁盤目状街区に斜めの道を造ったのだろうか。
その答えは斜めの宇治橋通りを行った先にヒントがあった。
宇治橋通りを進むと、通り名の通り宇治橋に繋がっている。
宇治橋の歴史はめちゃくちゃ古く、646年(大化2年)に架けられたといわれている。
大津にある瀬田の唐橋と、大山崎にあった山崎橋と共に日本三大古橋の一つに数えられている。
当時の宇治は奈良から京都や大津へ行く時は必ず通る交通の要衝で、宇治橋はとても重要な橋であった。
しかし架橋当時はこの場所ではなく、本町通りをまっすぐ宇治川へ行ったところにあったと言われている。
その後、洪水や地震で何度も流されその度に架け直され、徐々に下流に移動し、平安末期くらいには今の場所になったていたとのこと。
平安時代以降、藤原氏の力が衰え宇治は戦火に晒され、荒廃した。
その後、宇治の町民の力によって復興し、宇治橋から奈良方面への最短ルートを通る、碁盤の目を斜めにショートカットする道が出来たのである。
今の宇治市街の直角三角形の町割りはこの時に完成したのであった。
そんな斜めの宇治橋通りに上書きされても、平安時代の名残を現代に伝えている道があった。
先ほどの縣神社の対角線上の交差点に戻って来た。
筆者が立っている通り・伍町通りは平安時代の碁盤目状の道だが、マンションに阻まれてこれ以上は真っすぐは行けない。
しかしマンション手前の地面をよく見ると、色違いになっていて、まるで一直線に続いている様に見える。
ひょっとしたら、マンションの向こう側に続いているのでは?
続いていたー!。ごく短い道だが斜めの道に対して、マンションからの直線を貫き通している。
しかし、すぐに宇治橋通りに並行に走っているJR奈良線と宇治駅に阻まれてしまう。
だが僅かな希望を込めて駅の裏側へ行ってみると、
もはや感動すら覚える。道が斜めなのではなく、駅が斜めになっているのだ。
こんなに健気な道を見たことがない。平安時代の宇治は碁盤目状の町割りだったと必死で伝えようとしている。
平安時代の道と中・近世の道が色分けされていて、碁盤目状の町割りを斜めの道が上書きする様に重なっている。
今見て来た伍町通りは、ブツ切り状態になってしまっている。
平安時代の宇治は、望月の様に欠けたることもない碁盤目状の美しい街区であったことを偲ばせる。
しかし道の整備が進んでいた宇治川西岸に対して、東岸はあさぎり通りしかない。当時の宇治川東岸は人家がちらほらある程度の寂しいところであった。
宇治川が華やかな極楽浄土の様な西岸と、喜撰法師が歌った様な寂しく憂いを帯びた宇治山の東岸とを分けている。
その宇治の雰囲気を紫式部は巧みに用いて源氏物語の最終章・宇治十帖を書き上げている。
次は宇治十帖の舞台となった宇治川東岸を巡ってみる。
宇治橋
宇治橋のたもとにある紫式部像。今まで宇治に来るたび、何度も目にしてきたけど平安時代は苦手で、紫式部と宇治に何の関係が?っていう程度だった。
2024年の大河ドラマ「光る君へ」を見て、紫式部の人生や文学者としての考え方に触れることが出来た。
紫式部のセリフ「人には光もあれば影もあります。人とはそういう生き物なのです。そして複雑であればあるほど魅力があるのです」は源氏物語の魅力を一言で言い表していると思う。
月の美しさも望月だけでなく、欠けていく月もまた別の魅力があるみたいな感じだろうか。
宇治川は結構流れが早い川で、平安時代から宇治の早瀬は短歌や俳句に詠まれてきた。
宇治十帖の登場人物・浮舟
「身を投げし 涙の川の 早き瀬を しがらみかけて 誰かとどめし」
源氏物語最終章の宇治十帖は45帖「橋姫」~54帖「夢浮橋」で、橋で始まって橋で終わる構成になっている。
当時の人々は橋をこの世とあの世の境目と考えていた。
「光る君へ」では、うつ病のようになった道長に紫式部は宇治川のほとりで、「この川でふたり流されてみません?」と心中をほのめかし、それに対して道長は「お前は…俺より先に死んではならぬ、死ぬな」と答え、紫式部も「ならば…道長様も生きてくださいませ。道長様が生きておられれば、私も生きられます」と返す。
心中する様な流れから、お互いの為に生きると言う、死から生への転換場面で使われていた。
宇治十帖の浮舟は、二人の男(薫と匂宮)から言い寄られ板挟みになったことを思い悩み、宇治川の前で死を決意した。しかし、死にきれず行き倒れているところを横川の僧都に助けられる。
横川の僧都にはモデルがいたと言われており、ゆかりのお寺があるらしいので行ってみる。
恵心院
宇治橋を渡り、宇治川沿いのあさぎり通りを南に行くと、朝霧橋という橋が見えてくる。その近くのお茶屋・福寿園の横の道を上がったところに恵心院がある。
空海によって822年(弘仁2年)に建立され、唐の青龍寺に似ていたので龍泉寺と名付けられた。
その後、平安中期ごろの比叡山の僧・恵心僧都(源信)によって再興され、その名前から恵心院となった。
この恵心僧都(源信)が横川の僧都のモデルと言われている。
横川とは比叡山延暦寺がある区域の一つで、源信は横川にある恵心院の僧都であったため、恵心僧都と呼ばれている。
横川の僧都に助けられた浮舟は不幸の連鎖を断ち切るため出家し尼となった。
これまで浮舟は常に誰かの身代わりの様に扱われており、周りの人間に翻弄され続けてきた人生であった。
宇治に来てからも、薫は亡くなった大君(浮舟の一番上の異母姉)の代わりに、匂宮は中の君(浮舟の二番目の異母姉)がいるのにも関わらず薫へのライバル心で浮舟に言い寄っただけと、二人の最低男に弄ばれる。
源氏物語最後のヒロインは薄幸の最弱ヒロイン過ぎる~。
恵心院は花の寺としての見どころもあって、境内の花畑の庭では住職が様々な花々を育てている。
近くにある宇治神社や福寿園はかなり賑わっているが、この寺を訪れる人は少なく、観光客の多さに疲れた時などちょうどいい気分転換になる。
浮舟姉妹の父親である八の宮は光源氏の異母弟。この父親も都での政争に敗れ、妻を亡くし、屋敷は焼失するという娘に劣らない悲劇の人物である。
そんな八の宮にとって宇治は世を捨てて暮らすのに最適な場所であった。
次は八の宮にゆかりがある2つの神社、宇治神社と宇治上神社に行ってみる。
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