敦賀ムゼウム

かなり不思議な様式の建物です。西洋的の様なそうでない様な不思議な感じ。
1899(明治32)年に新たな開港場に指定された敦賀港は、1907(明治42)年に国際港に相応しい大規模な港に生まれ変わりました。
これら建物群は大正~昭和初期に建てられた港湾施設を復元したもの(厳密には復元ではなく、かなりアレンジが加えられているらしい)。

現役当時の敦賀港駅です。アレンジ加えすぎやん(笑)。オリジナリティより完コピして欲しい。
建物は順番に、1⃣「敦賀税関旅具検査所」、2⃣「敦賀港駅」、3⃣「大和田回漕部」、4⃣「旧露国義勇艦隊事務所」。
4⃣の露国とはロシアのことで、敦賀とロシアのウラジオストクの間には定期船が運航されていたのです。
しかし、ウラジオストクからどうやってヨーロッパに行くのでしょうか?
1904(明治37)年、ウラジオストクからロシアを横断しヨーロッパと結ぶシベリア鉄道が開通しました。それにより1912(明治45)年、東京からヨーロッパまで切符1枚で行ける欧亜国際連絡列車の運行が開始されました。
それまで日本からヨーロッパの所要時間は、横浜港や神戸港から船でインド洋周りで1ヶ月以上かかっていました。それが東京から敦賀、シベリア鉄道経由だと約半分の17日で行けるようになったのです。敦賀がヨーロッパの玄関口と呼ばれるのも納得です。
では筆者も、当時のルートを辿っていざウラジオストクへ。といきたいところですが、今の敦賀港からはウラジオストク行きの船は、第二次世界大戦を最後に無くなってしまいました。
まあ、例え運航してても、今のご時世、ウクライナをどうやって越えるんやって話やわ。
そんな危険を冒さすとも、敦賀にはヨーロッパを感じれる場所がたくさんあります。

復元された港湾施設は敦賀ムゼウムという資料館になっています。敦賀ムゼウムとは聞きなれない言葉ですが、ポーランド語でミュージアムという意味。
何故、ポーランド?
18世紀後半、ポーランドはロシア、プロイセン、オーストリアの3国によって分割されました。世にいうポーランド分割です。ポーランドはロシアに対して独立運動を何度も起こしましたが、その度に政治犯としてシベリア送りにされ、過酷な労働を強いられました。
極東シベリアは冬には氷点下70℃まで下がる極寒の地。15万人から20万人のポーランド人が流刑され暮らしていました。
1917(大正6)年、ロシア革命が勃発。赤軍(革命派、共産主義)と白軍(王党派、資本主義)の戦いはシベリアまで吹き荒れ、多くのポーランド人が戦争に巻き込まれました。難民となったポーランド人はシベリアの永久凍土を彷徨い歩き、何人もの人が餓死、凍死、病死していきました。
この状況を見かねた、ウラジオストク在住のポーランド人、アンナ・ビェルケヴィチが「ポーランド救済委員会」を設立します。委員会は欧米諸国に、せめて孤児たちだけでも窮状を救ってくれるように嘆願をしますが、どこからも断られてしまいます。
万策尽き、ダメ元でポーランドと国交を樹立したばかりの日本に救援依頼をします。外務省は日本赤十字社に要請し、日本赤十字社はただちに孤児救済を決定しました。委員会の会長アンナ・ビェルケヴィチが来日してからわすか17日目のことです。
救援決定から2週間後、孤児たちの救出作戦が開始され、日本陸軍の輸送船「筑前丸」がウラジオストクにやってきました。約60名のポーランド孤児たちを乗せ日本を目指し出港。その行き先がここ敦賀港だったのです。
船が敦賀港に入港すると、港にはポーランドの旗、日本の旗、赤十字社の旗を持った人で溢れていたそうです。
輸送船は数回にわたりウラジオストクと敦賀を往復し、計765人のポーランド孤児たちが救出されました。敦賀の人達は孤児たちの船が到着するたびに、町をあげて歓迎したそうです。
アンナ・ビェルケヴィチと共にポーランド救済委員会を設立したユゼフ・ヤクブケヴィチは、次の言葉を残しました。
「ポーランド国民は日本に対し、最も深き尊敬、最も深き感恩、最も温かき友情、愛情を持っていることを告げたい。我らはいつまでも、日本の恩を忘れない」
今でもポーランドはヨーロッパ随一の親日国らしいですが、そのきっかけはこのポーランド孤児救出劇にあったんですね。知らんかったわー。教科書に載ってたっけ?

館内は基本的に撮影禁止でしたが、一部撮影可能でした。これはポーランドの民族衣装。まさか、敦賀にポーランドとの繋がりがあるとは思ってもみなかった。

何か意味深に机が置いてありました。これはおそらくもう一つのメイン展示に関するオブジェでしょう。
ユダヤ難民の救出です。こっちのほうは映画にもなっていて有名ですね。
1940(昭和15)年、ナチスドイツとソ連に占領されたリトアニアから亡命するため、多くのユダヤ人が各国の領事館にビザを求めて集まりました。多くの国に断られる中、オランダ領事館がカリブ海のオランダ領キュラソーへのビザを発給しました。これにて一件落着です。
ってそんなわけはありません。問題はどうやっていくかです。
西回りルートはナチスドイツの占領下なので問題外です。そうなると東回りルートしかありません。シベリア鉄道でソ連を越えるためには日本の通過ビザが必要不可欠でした。
1940年7月18日の早朝、多くのユダヤ人が日本領事館に詰めかけてきました。当時のリトアニア日本領事館の領事代理であった杉原千畝は、ビザの発給の許可を得るため外務省本部に打電します。しかし、外務省は「ビザの発給は行先国の入国許可があり、旅費や日本での滞在費がある者のみ」という状況的にほぼ満たせない条件を付け、遠回しに発給を禁止しました(ハッキリ言わへんところがいやらしい)。
しかし、杉原は悩み苦しんだ上、外務省の回答を尻目にビザの発給を決断しました。
今の様にパソコンなんてものは存在しないので、ビザは全て手書きです。一日中ビザを書き続け、腕が動かなくなると夫人がマッサージをしていたそうです。スタンプが完成してからは負担が軽くなり、約一ヶ月で2140枚のビザを発給しました。有名な「命のビザ」ですね。
ポーランド難民の時と同じく、ウラジオストクから敦賀港に入港しました。逃避行の様子がアニメーションで紹介されていて、過酷な旅路の末に敦賀の港が見えてきた時は涙が出そうになりました。ユダヤ難民が港に降り立つと「敦賀が天国(ヘブン)に見えた」と語っていました。
敦賀上陸後のエピソードも数多く紹介されていて、敦賀ならでは展示だと思いました。面白かったのがお風呂屋さんに連日、大勢のユダヤ人が押し寄せたエピソード。
亡命の旅の中、ゆっくり体を洗うことが出来なかったため、久しぶりの入浴でお風呂が垢まみれなってしまい掃除が大変だったとのこと。当時のお風呂屋さんからすればシャレにならんやろうけど、なんとも微笑ましいエピソードに感じてしまった。
敦賀はあくまで船の上陸地なので、滞在期間はそこまで長くはありませんが、この町で暮らしていた記憶が残されていました。そう思うと敦賀の印象が違って見える気がします。
そろそろお昼なので昼食を食べにいきます。ポーランドやユダヤ難民の展示を見た後なので、やっぱ洋食が食べたい気分。そこでヨーロッパに行きましょう。
といってウラジオストクに行ってシベリア鉄道に乗るわけではありません、敦賀の町中にヨーロッパがあるのです。
ヨーロッパ軒

ここが敦賀のヨーロッパ、その名も「ヨーロッパ軒」。そのままやん。
結構、有名なので知っている方も多いかもしれませんが、敦賀はソースカツ丼が名物です。普通の卵とじのカツ丼と違い、特製のウスターソースのかかったカツ丼です。
明治後半、ドイツで料理を学んだ初代店主の高畠増太郎がシュニッツェルにウスターソースをかけたソースカツ丼を考案。1913(大正2)年、東京の早稲田大学の近くでヨーロッパ軒を開業した。
その後、関東大震災に被災し郷里である福井に戻って、今の本店である福井ヨーロッパ軒が誕生。敦賀はその暖簾分けのお店です。

ソースカツ丼が名物と紹介したくせに、ソースカツ丼は頼みませんでした(笑)。
筆者はヨーロッパ軒に何回も来ているので、ソースカツ丼以外のメニューを食べたくなりました。
前から気になっていた「スカロップ」とかいうヨーロッパ感漂う料理を注文しました。多分、語源はフランス語の「escalope」(薄く切った牛肉、鶏肉や魚のこと)のことかな。
トンカツにデミグラスソースがかかっていて、根室のエスカロップや岡山のデミカツ丼っぽい感じ。トンカツは切り分けられていないので、自分でカットします。デミグラスソースは見た目は濃い感じですが、意外に薄味であっさりしていました。
ご飯を大にしましたが思ったより多くて、最後の方はご飯が余ってくるようになってしまいました。ソースも余っていたので、トンカツがいなくなったソースの海にご飯をダイブさせ、最後まで無駄なく美味しく食べることが出来ました。

これまでのメディア紹介の事績が飾られていました。
秘密のケンミンショーは見た覚えがあります。この時は「パリ丼」を紹介していたみたいですね。
パリ丼はメンチカツが乗ったソースカツ丼です。外はパリッと中はジューシーでめっちゃ美味かったです。トンカツも捨てがたいので、両方のったミックス丼を頼むことが多いです。
胃袋にもヨーロッパを注入したところで、次は復元された旧敦賀港駅に行ってみます。
