龍野公園 聚遠亭(しゅうえんてい)
龍野城から坂を下り、風情のある住宅地を抜けてまた坂を上ったところに春は桜、秋には紅葉が美しい龍野公園がある。
元々は龍野藩主脇坂家の上屋敷(御涼所)であり大名庭園となっていた。庭園からは龍野の城下町を一望出来、晴れた日には瀬戸内海まで見渡せる眺望絶佳を讃えて「聚遠の門」と呼ばれ、いつの頃からか聚遠亭と名付けられた。
写真の茶室「浮堂」は9代目藩主脇坂安宅が京都御所復旧事業の功績により孝明天皇から拝領し移築したもので、龍野市有形文化財となっている。
筆者が訪れた桜まつり開催時は茶室で和楽器による生演奏がされており、音楽を聴きながら風に舞い池に漂う桜を見るのは、息を吞む程、美しかった。
こちらが上屋敷(御涼所)。御涼所とは今で言う避暑の為の別荘の様なもの。江戸中期頃に建てられた。
また浮堂と上屋敷の間には1983年(明治16年)ヒガシマル醤油株式会社の寄贈により建てられた茶室「楽庵」があり、土日(1月、8月を除く)にはお茶席が設けられる。
違う時代に建てられた建物が点在しているが、各建物の周囲には池や庭園、芝生エリアがあり、それらが有機的に繋がりあって時代の隔たりを感じさせず渾然一体となっている。
他にも庭園内には井原西鶴が龍野の俳友を訪れた際、詠んだ句碑や、三木露風の詩碑がある。
龍野神社
聚遠亭から少し北へ行ったところに龍野神社がある。1862年、9代目藩主脇坂安宅が藩邸敷地内に藩祖である脇坂安治を祀り創建された。江戸後期〜明治初期は封建社会の終焉に際し、藩士が別れを偲び藩祖を御祭神とする神社を創建する例が全国的に数多くあり、ここもその流れの一つと思われる。
初代藩主脇坂安治について
近江の出身で羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣のなり、武勇に優れ賤ヶ岳七本槍の一人に数えられた武将。
秀吉の死後の関ヶ原の戦いでは石田三成(西軍)に付いた。安治は内通の疑いがある小早川秀秋軍の近くに配置され、動向を見守っていた。開戦から数時間後、小早川は東軍に寝返り、西軍の大谷吉継勢に攻撃を仕掛けてきた。それに反応し安治も寝返り大谷勢を壊滅させた。
この時、近くにいた赤座、朽木、小川の三大名も同じく寝返ったが、戦後に改易又は減封処分を受けてしまう。しかし脇坂家は事前の根回しが功を奏し本領安堵(この時は洲本藩3万3000石)、後に伊予大洲藩5万3500石に加増転封された。龍野へは3代目脇坂安政の時に入封された。
荒れ放題となっていた龍野を再建し現在に残るたつの市の原型を作り上げたのがこの脇坂安政である。薄口醤油の生産を奨励するなど龍野の発展に尽くした名君と慕われている。江戸初期は元豊臣系の大名は改易又は減封処分にあっており、かつての同僚である賤ヶ岳七本槍のうち大名として明治まで存続したのはここ脇坂家のみであった。
龍野城下町
引用元:たつの市ホームページ
城と神社で脇坂安治へのご挨拶が終わったら、次は城下町へ下りてみよう。「播磨の小京都」と呼ばれている龍野には当時の城下町の風情が残っている。
ここは上川原地区で町の北部の揖保川河川敷に作られたことが由来となっている。南北の通りは揖保川に沿って緩やかにカーブをしており、江戸時代は様々な店が連なった商家町だった。
現在は昔の町屋を利用してお店を営業されている店が数多くあり、その感じは京都と似ていて、そぞろ歩くだけでも江戸時代の気分が味わえる。
引用元:兵庫県公式観光サイト
こちらは大手地区で龍野城の大手門付近であることから由来している。この地区には昔のヒガシマル醬油醸造所があり、また4軒の寺が集中している為、醸造所や寺の白壁が印象的な端正で落ち着いた雰囲気を作り出している。
如来寺
1533年に建立された浄土宗の寺院。龍野の殿様・脇坂家や赤とんぼの三木露風の三木家の菩提寺になっている。
ここから見えるバックに鶏籠山、手前に寺と水路、白壁、鐘楼堂が一望できる風景は龍野の代表的な風景の一つとなっている。
本堂は1666年(寛文6年)に再建されたもの。本堂には御本尊の「阿弥陀如来像」が安置されている。
鐘楼堂はかなり新しく、1990年(平成2年)に再建されたとのこと。上の風景に鐘楼堂が無ければちょっと物足りない様な気がするので、再建されて良かった。
如来寺は三木家の菩提寺であるだけでなく、三木露風個人と強い繋がりがあった関係から、露風の愛用の筆10本がこの石碑の傍らに埋めてあるとのこと。
説明版には三木露風が先祖の墓参りの為、ここを訪れたときに詠んだ和歌が綴られている。
「松風の 清きみ山に ひびきけり
心澄むらん 月明らけく」
うすくち龍野醤油資料館
引用元:兵庫県たつの市観光サイト
龍野は薄口醤油発祥の地であり、その歴史は450年に及ぶ。播州平野では薄口醤油に必要な大豆、小麦、塩、米、酒が生産されており、南北に流れる揖保川は鉄分が少なく薄口醤油に欠かせない。またその揖保川は瀬戸内海に通じ京都、大阪、神戸へ水運での輸送を容易にさせた。
醤油造りの適地である龍野が育んだヒガシマル醤油は400年以上の歴史を誇る、現在薄口醤油最大手メーカーである。うすくち龍野醤油資料館は日本初の醤油資料館として1979年11月に開館した。
薄口醤油は一般的な濃口醤油より色が薄い、塩分が濃い、発酵臭が控えめなことが特徴となっている。塩分が濃いので少量で味をつけることが出来、素材の色や味を活かす事が可能。関西では用途によって使い分けられており、料理は薄口、卓上の調味料は濃口となっている。
レンガ造りの麹室。蒸した大豆と炒って引き割った小麦を混ぜ合わせる。それに種麹を植え付けてこの麹室に並べ、醤油麹を作り出す。
今は機械化されており、温度と湿度のバランスをオートメーション装置で調整することでヒガシマル醬油独自の香り、味わい、色合いを醸し出す醤油麹が作り出されている。
作り出された醤油麹は左の大きな木桶で塩水と混ぜ合わせられる。ひたすらかき混ぜて発酵を促し、熟成させる。
そこにヒガシマルの薄口醬油の特徴である甘酒を加えて、右上にある木の棒の奥にある圧搾機で熟成したもろみを搾り出す。棒の手前にはロープがついており、昔はてこの原理を利用して搾り出していた。
そうして搾り出された液体が醤油である。最後に殺菌の為、火入れしフィルターでろ過すれば完成となる。
あと館内には醤油研究室の展示まであり日夜、より美味しい醤油作りの為に研究が行われている様子が分かった。漫画「もやしもん」の世界観そのものって感じがした。
入館してすぐのところには薄口醤油の製造と歴史に関するビデオがあった。
解説によると、龍野で醤油製造が始まったのは1580年代。当初は一般的な濃口醤油だったが、1650年ごろに色の薄い薄口醤油が開発された。龍野藩の奨励事業となり、素材の色や味を引き出すことを重視している関西で薄口醤油は大ヒットした。
現在においても関西の食文化に欠かせないものとなっている。
濃口醤油と製造工程が違っていたり、濃口醤油では使わない米と甘酒が使われていたりと、いかにすれば色の薄い醤油を作ることが出来るか先人の創意工夫に驚かされた。
龍野 全体マップ
最後に今回、紹介しました歴史スポットの全体マップを載せておきます。左上の旅猫の左の→をクリックしますと、番号に対応した歴史スポットが表示されます。
龍野へのアクセス
鉄道🚃
・JR姫路駅・山陽姫路駅から姫新線で約20分、本竜野駅下車。
車🚙
・山陽自動車道、龍野ICから北へ約3㎞。約10分。
長文でしたが最後までお読みいただきありがとうございました!
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