外堀跡

城の北口を出て少し進むと、運河の様な川が流れていました。長浜城の外堀です。
当時は何筋もの堀が城内を流れていたようですが、今残っているのはこの外堀のみとなってしまいました。

堀を辿ってみると、当時と同じく琵琶湖に繋がっていました。
逆側はどこまで残っているのか気になります。辿ってみましょう。

堀は何回か方向を変えJRの線路を潜り抜け、長浜のメインストリートの一つ、外堀くすのき通りの横を流れています。
この辺りが有名な黒壁スクエア。伝統的な建物が残っている風情のあるエリアです。
堀沿いにある白壁の建物は、1926(大正15)年、北国街道の宿場町木之本で創業したの和菓子屋「禄兵衛」。来年で創業100年の老舗です。

ここにきて長浜城外堀跡の石碑がありました。ここまで辿ってきて違っていたら泣きたくなるところでしたが、間違いなく外堀跡が続いていました。

左の狭いのが外堀で、右から流れてくる米川(よねかわ)に合流しています。
米川は姉川の戦いで有名な姉川を水源する川で、幾重の用水路に分かれ長浜の農地を満たしながら、琵琶湖に注いでいます。

橋のたもとに立つ立派な常夜燈。江戸時代は米川が川港になっており、船が入ってこられる限界地点がこの辺りでした。常夜燈はその目印として機能していました。
正面には金毘羅大権現と書かれています。近くにあった金毘羅大権現の常夜燈でもありました。神社はビル「えきまちテラス長浜」の屋上に移設されたとのこと。

川沿いに白漆喰の蔵が並び、その手前には川に降りる石段が。江戸時代、川港であった名残ですね。
今は長浜の新名所となった長濱浪漫ビールが古い米蔵を活用し店を構えています。1995年設立のビールとウイスキーの醸造所です。
ここのアハマガンっていうハイボールが美味しい上にリーズナブルで、リカマンやコンビニで見かけたらよく買っています。まさか醸造所がこんな町の中にあるとは思いませんでした。

更に米川沿いを進むと、琵琶湖に注いでいました。河口付近には船のドッグがあり、小型の船が停泊していて、今も川港として使われています。
今も外堀は長浜城の外周を完全に囲っていて、城跡は陸地と切り離された島のようになっていたのです。
大手門跡

さっき通った外堀くすのき通りに戻ってきました。
小さくて見にくいですが、交差点の角に「長浜城大手門跡」とある石碑が立っています。
この道は長浜城から町の中心部に伸びる大手筋で、外堀沿いに大手門がありました。大手門は今も現存していて、大通寺という寺の門に転用されています。大通寺は長浜の歴史でも重要な寺なので、後ほど行ってみます。
今は、城の方に向かって真っすぐに道が伸びていますが、守りの要である城の入口がそんなシンプルなわけはありません。当時の様子が分かるヒントが隠されていました。交差点を渡った先の駐車場です。

奇妙な事にこの駐車場は斜めに作られています。怪しさ全開です。
当時、大手門をくぐると道は斜めになっていて、駐車場の一番奥にあたりに次の門があったと言われています。長浜城推定復元図には、その先に桝形虎口が描かれています。
城の入口の痕跡が、変な形の駐車場として今に現れているのが面白いですね。
豊国神社

現在、復元図の桝形虎口付近には豊臣秀吉を祀った豊国神社があります。建立は1600(慶長5)年、1598(慶長3)年に亡くなった秀吉を偲び、長浜の人によって創建されました。
何故か、豊国神社の他に長濱恵比須宮という2つの社名碑が立っています。秀吉を祀った神社とちゃうんかい。
これには秀吉に対する長浜の人の熱い想いが隠されていました。

1615(慶長15)年、大阪の陣で豊臣家が滅亡すると、江戸幕府の敵であった豊臣秀吉を祀ることは禁じられました。特に豊臣家の権威の象徴である京都の豊国神社は家康の命によって廃絶され、豊国大明神の神号も剥奪されました。
秀吉ほど身分変化の激しい人も珍しい。百姓から武士、大名、天下人、死後は神となり剥奪後は普通に仏となりました。ちなみに明治維新後は再び神となっています。
もちろん、長浜の豊国神社も例外ではなく、社殿は取り壊されてしまいました。しかし、長浜の町人が豊国大明神を逃がし、代表者十人衆が持ち回りでこっそり祀っていました。

1793(寛政5)年、やっぱり社殿に祀りたいと思った長浜の人は作戦を練りました。まずは彦根藩に恵比須宮を建立を願い出てることにしました(長浜は彦根藩の領地でした)。
許可が下り、社殿を建立し恵比須神を祀りました。その奥にこっそりと豊国大明神を置いて秀吉も祀っている形にしました。まさか彦根藩も長浜の人がそこまで秀吉を慕い続けているとは思わなかったでしょう。作戦は成功し、そのまま明治維新を迎え大正時代になって、遂に元の豊国神社を名乗ることが出来たのでした。
神社名が2つあるのは、町を造り善政を施した秀吉への感謝の想いを貫いてきた証だったのです。

さっき加藤清正の銅像があったと思ったら、飛び出し坊やにもなっていました。神社の入口には福島正則と平野長康がおり、境内には全賤ヶ岳七本槍が勢ぞろいしてました。
町の方でも長浜ゆかりの武将が至る所で飛び出しまくっています。

豊国神社にも長浜城の名残が残っていました。
長浜城の庭園のために、加藤清正が運んできた庭石です。秀吉のお気に入りだったそうです。

個人的に七本槍で推しの脇坂安治公です。孫の脇坂安政の時、龍野藩に転封となり、七本槍で唯一大名として明治維新まで続きました。龍野醤油やそうめんの生産を奨励し、龍野の発展に力を尽くした名君と慕われています。
片桐且元も結構好きな武将。七本槍の一人に数えられていますが、どちらかというと行政官タイプの人物。秀吉の死後も豊臣家を支え続け、徳川政権下で生き残る道を模索していましたが、豊臣方の強硬派から徳川との内通を疑われ、大坂城を退去しました。大坂の陣では、かつての主家と戦うことになり、戦後は加増を受けましたが、すぐに病没しました。
真面目なコツコツ型の且元が、豊臣と徳川の間を取り持とうと奮闘する姿になんか同情してしまう。死因は人間関係によるストレスやったんとちゃうかな。考えるだけで胃がキリキリしてくる(笑)。

本殿正面の入口に加藤嘉明と糟屋武則がいました。これで七人揃いました。いや待った、これはおかしいぞ。
石川兵助と桜井佐吉の2人がどこにもいません。誰やねんとおもった方、賤ヶ岳七本槍には幻のメンバーがいました。
賤ヶ岳の戦いで活躍し感状と大きな禄を得たのは、七本槍に石川と桜井を加えた9人だったのです。しかし、この2人は早くに亡くなったため、七本槍が定着した様です。
次は城下に出て、秀吉が作り上げた町並みを巡ってみましょう。
