宮津歴史観光 細川藤孝・忠興親子が築いた丹後一の港町・宮津を巡る 

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山王宮日吉神社

山王宮日吉神社

如願寺の近くには、宮津の歴史にとって超重要な神社があります。

如願寺のすぐ北にありますが、正式に正面から入りたいので、一旦山を下り踏切を渡り、住宅地を迂回して神社の鳥居の前にやってきました。

神社の参道を鉄道が横切っています。宮津の様な土地が狭いところでは、市街地に鉄道を通すスペースがなく広い神社や寺の境内を通すことが多かったみたいです。

山王宮日吉神社

山王宮日吉神社も如願寺と同じ滝上山の山腹に鎮座しているので、拝殿まで長い階段が続きます。

明治の神仏分離令の以前は、如願寺と同じ境内となっていました。

山王宮日吉神社

階段を登っていると、朱色の玉垣に囲まれた巨木がゆっくり姿を現しました。

山王宮日吉神社の御神木である椎の木は、樹齢800年~1000年と言われています。

この神社の歴史の長さを物語っている様です。

山王宮日吉神社 拝殿

山王宮日吉神社は、平安時代後期に滋賀県の坂本にある日吉大社から勧請し、創建されたとのこと。

江戸時代には宮津の総氏神、藩の守護神となり、歴代の藩主が様々な寄進しました。

今の拝殿は、拝殿は1835(天保6)年に、藩主・本庄宗発によって建てられました。建設に携わったのは、如願寺の本堂と同じく冨田大工でした。

山王宮日吉神社 拝殿

左右の可愛い丸い石灯籠は、幕末の藩主・本庄宗秀の寄進。

社殿は、特に古く1688(貞享5)年に藩主・阿部正盛によるもの。他にも廊下は、1716(享保元)年に藩主・奥平昌春、幣殿は1749(寛延2)年に藩主・青山幸道により建立。歴代の藩主が様々な建物を寄進しています。

藩主の家が変わっても、宮津藩の守護神という立ち位置は変っていないのが面白い。おそらく、藩を行政組織の様に考え、治める人が変わっても、その地域に根差した仕組みを大幅に変えることが難しかったのでしょう。

しかし、それ故に組織として硬直化が起こり、多くの藩で財政が逼迫することになっても、大きな改革を行い刷新することが難しい状態に陥ってしまいました。

山王宮の建物の多くは、江戸時代に建てられたものですが、実は、山王宮より重要な神社がありました。

山王宮日吉神社 杉末神社

山王宮の本殿の右横にある摂社「杉末神社」です。

杉末神社は山王宮より歴史が古い神社で、山王宮は元々あった杉末神社の境内に後から祀られました。摂社になったのは江戸時代に山王宮が藩の守護神になった時からです。

杉末神社の方が古くからある宮津の産土神でした。

宮津とは、宮(神社)のある津(港)という意味で、その神社は杉末神社を指していたと言われています。

この辺りの住所は京都府宮津市宮町で、今でも宮の地名が与えられています。正に宮津を具現化したような神社だったのです。

山王宮日吉神社 山茶花

境内の広いところに周りとは違う一本の木がありました。山茶花です。

ここには昔、漱玉亭という藩主の庭園があり、山茶花はその名残。今も毎年11月頃には、満開となり正月頃まで咲き続ける名木とのこと。

庭園は1647(正保4)年、藩主・京極高広が作庭。その次の藩主・永井尚長も気に入り、木の近くの石組に「漱玉」と刻みました。今も残っているそうですが、どこに書いてあるのかよく分からなった。

文字よりも庭園が残っていたら、宮津を代表する名所になったかもしれないのに残念。

山王宮日吉神社 含紅桜

境内からは、わずかながら宮津湾と対岸の栗田半島の景色を見ることが出来ました。その手前には添え木で支えられたかなり年季の入った老木があります。

樹齢約400年といわれている含紅桜です。藩主・永井尚長によって命名され、含紅桜は誰が言うまでも無く日本一の桜だと言い切っています。

尚長さんは漱玉の名を石に入れたり、詩も作ったりして、山王宮が大のお気に入りだったそうです。

その藩主の想いを受け継いでいくため、何度も樹木医による蘇生が行われており、今も春になれば満開の桜を見せてくれるとのこと。

運悪く訪れたのは6月上旬。桜も山茶花も時季外れの時に来てしまった。しかも小雨が降ってきたし。丁度、お昼なので昼ご飯を食べに行きました。

COFFEE&SNACK 絵梨奈

COFFEE&SNACK 絵梨奈

筆者が写真を撮る時はのぼりが常に逆になりますが(笑)、宮津のご当地グルメと言えば、宮津カレー焼きそばが有名です。

戦後、宮津に移り住んだ台湾人の王さんが開業した中華料理店・平和軒。そこの看板メニューが、他では見ないカレー味の焼きそばでした。焼きそばにしては珍しく、カレースープに麺が浸かっているタイプだったらしいです。

元祖の店は閉店してしまいましたが、カレー焼きそばはただの一店舗の変わり種メニューとして終わらず、宮津の多く飲食店に広がりました。今も10店舗以上の店で提供されているとのこと。

カレー焼きそば

宮津のカレー焼きそばは、大きくウェットタイプ(汁気あり)かドライタイプ(汁気なし)に分かれています。

この店ではどっちも提供されていました。前に別の店でドライタイプを食べたので、今回はウェットタイプを注文。

カレーはとろみなく完全にスープ状で、カレーラーメンあるいはカレーちゃんぽんって感じ。

カレーはかなりスパイスが効いていて本格派。麺は中太ストレートでコシがあります。ドライタイプよりもあっさりしていました。

ウェットタイプではご飯の注文を推奨されていました。スープをご飯にかけて食べると麺とは違う楽しみ方が出来ます。ドライタイプとの最大の違いですね。

ちょっと炭水化物過多になってしまいますが、ご飯の誘惑には抗えません。

満腹になったところで、次は宮津に残る伝統建築を巡っていきます。

文人墨客の宿 清輝楼

清輝楼

宮津カトリック教会から東堀川通りを北へしばらく歩きます。住宅地や商店が並ぶ景色から一転、インパクト大の木造三階建ての建物がそこに鎮座していました。

清輝楼は元禄年間(1688年~1704年)に創業し、300年の歴史を持つ老舗旅館。創業時は少し南へいったところの本町にあり、1901(明治34)年にこの場所に移転してきました。

明治以降は、増加した天橋立への観光客に対応するため、増築を繰り返して今の高くて大きな木造建物に変貌していきました。全国的にはかなり珍しく登録有形文化財に指定されました。

木造建築には鉄筋コンクリートのビルにはない独特の迫力がありますね。

清輝楼

こっちがフロント入口です。写真を撮ろうとしていたら、宿の方が入口にあった車を移動させ、説明までして下さりました。宿泊客でもない筆者にまで、気を使っていただけるホスピタリティ。

江戸時代から多くの絵師が宿泊しており、明治以降には野口雨情、菊池寛、吉川英治など名だたる作家や詩人が滞在したそうです。館内には多くの文人墨客の作品が展示されていて、「小さなちいさな美術館」と名付け見て回れるようです。

当時は建物のすぐ横が海岸になっていて、部屋から宮津湾が一望出来たとのこと。

しかし、それは昭和の埋め立てで景色が変わってしまいました。ただ、海浜公園になっているので、そこまで風情が失われたわけではないと思います。

色んな意味でいつか泊まってみたい。宮津は交通の要衝で、丹後エリア観光の拠点にしやすいので。その時に泊まってみよう。

茶六本館

茶六本館

もう一軒、宮津を代表する老舗旅館がありました。

茶六本館は享保年間(1716〜1736年)の創業。こっちは絵師や文人というより、商人や船客がメインの客層でした。

西堀川通

江戸時代この付近には、縦横無尽に水路が流れていました。水路は港に繋がっていて、直接、船で行き来が出来ました。

特にこの西堀川通には、水路が道の中心を流れている好立地で、茶六本館も明治時代以降は旅館業だけでなく船での荷物運搬業も行っていたそうです。

宮津の文化面を代表する旅館が「清輝楼」とすると、茶六本館は宮津の商業水運を代表する旅館でした。

特に丹後地方と言えば、丹後ちりめんが有名で多く商人の取り扱っていました。

茶六本館 入口

丹後ちりめんとは、以前訪れた与謝野町などで生産されている絹織物です。特有の撚糸技術を用いた糸が最大の特徴。今でも日本一の絹織物のシェアを持っています。

ちりめんを出荷する最大の港が宮津港でした。栄えた港には必ず花街がありました。宮津の花街は京都の祇園と並ぶほど。

民謡の宮津節には宮津の賑わいが歌われています。

二度と行くまい丹後の宮津 縞の財布が空になる
(丹後の宮津でピンと出した)
天橋立日本一よ 文殊菩薩に智慧の餅

(丹後の宮津でピンと出した)
丹後ちりめん加賀の絹 仙台平らには南部縞 陸奥の米沢 江戸 小倉

(丹後の宮津でピンと出した)

自身の金銭管理能力の無さを宮津のせいにするとんだ放蕩野郎です(笑)

次は丹後ちりめんを扱っていた商人の当時の建物がいくつか残っているので、見に行きましょう。

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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