聖ヨハネ天主堂と細川ガラシャ

宮津城跡から大手川を挟んだ対岸の柳縄手地区には、中下級武士の武家屋敷が並んでいました。
この長屋門は、江戸時代、藩医の小谷仙庵の邸宅で、明治以降は旧藩士の大村政智という人が住んでいました。
残念なことに家の方は火事で焼失してしまい、奇跡的に長屋門だけが残りました。
家が焼失し空き地になった土地は、大手川ふれあい広場として開放されています。

広場には対岸の宮津城跡を見つめる女性の美しい銅像が。悲劇のヒロインとして有名な「細川ガラシャ」です。
ガラシャはキリスト教の洗礼名で本名は「たま(玉)」といい、明智光秀の三女として生まれます。16歳の時に細川忠興に嫁ぎ、細川家に丹後が与えられた時、忠興と共に宮津に移り住みました。
宮津での日々はガラシャとって最も幸せな期間でした。忠興夫妻は父の光秀を宮津に招き、細川親子と明智親子と共に天橋立を愛でながら茶会を開いたこともあったようです。
しかし、父の明智光秀が本能寺の変を起こした時、運命が一変します。細川藤孝・忠興親子は光秀の味方をしないことに決め、疑いをもたれないためにガラシャを別居させることにしました。
こういう場合は、完全に離婚するか、もしくは殺害することもあり得ます。そうせずに忠興は、ガラシャを誰にも見つからない丹後半島の山奥「味土野」に隔離します。
山崎の戦いで負けた光秀は亡くなり、残された一族郎党の多くは殺されましたが、隔離されたガラシャは生き残ります。
2年後には、忠興と復縁し正妻に戻ります。しかし、謀反人の娘という烙印や実家を失った悲しみは、ガラシャの心を深い沈鬱に落としていきました。そんな時、心の救いになったのがキリスト教で、信仰を心の支えとし、洗礼名「ガラシャ」を授かります。
細川ガラシャを特に有名にしているのが、その壮絶な最後です。
豊臣秀吉の死後、徳川家康による上杉討伐が始まると、細川忠興はそれに加わり会津に出陣します。この時、ガラシャは他の大名と同じく大坂城の大名屋敷を居としていました。
打倒家康を目標とする石田三成ら西軍は、出陣した大名の家族を人質にとる作戦を実行し、その最初のターゲットとなったのが細川屋敷でした。だれ一人として人質には出さないと返答した細川屋敷を石田方の軍勢が取り囲みます。
人質になるより死を選んだガラシャは、キリスト教は自害をすることを禁じているため、家臣に自分の胸を長刀を突かせて亡くなりました。享年38歳でした。
散りぬべき 時知りてこそ 世の中の
花も花なれ 人も人なれ
死の直前に詠まれた辞世の句で、細川ガラシャの覚悟と美意識が伝わってくるようです。

細川ガラシャ像のバックにある洋風の建物は、カトリック宮津教会の聖ヨハネ天主堂です。
木造建築、瓦屋根で和洋折衷な感じの教会は、古くからある雰囲気を漂わせています。まるで、ここでガラシャが礼拝をしていたかの様。
もちろんそんなことはなく、仮に戦国時代の宮津に教会があったとしても、江戸時代の禁教令で取り壊されているでしょう。
ここは1896(明治29)年、フランスから日本に派遣されたルイ・ルラーブ神父の設計によって建てられました。現在もミサが行われている教会では、日本で一番古い建物で重要文化財に指定されています。
中も見たかったのですが、運悪く修理中で、入ることが出来ませんでした。
それにしても、細川ガラシャゆかりの地に日本一古い教会があるって、よほどキリスト教に縁があった気がします。
次は宗教繋がりと言うことで、宮津の歴史に重要な神社や寺を巡っていきます。
和貴宮神社(わきのみやじんじゃ)

カトリック宮津教会から目と鼻の先にある和貴宮神社。
道の先に修理中の教会が見えます。正面からがカッコよくて、かなり写真映えするのに残念。
教会と神社が道を挟んで並んでるって、宗教に寛容な日本ならではの景色って感じがします。

創建は不明ですが、神社の説明によると1421(応永28)年には、社殿があったそうです。
江戸時代には、宮津城下町の町人の守り神として祀られていました。北前船の豪商からも信仰が篤く、周りの玉垣には寄進した人の名が刻まれています。
宮津の人だけでなく、北陸から山陰、山陽を経て大阪に至るまで、丁度、北前船のルート上の広範囲の人からの参詣がありました。

神社の歴史で、細川家との面白いエピソードを見つけました。
またしても関ヶ原の戦いの直前です。細川忠興が家康に従軍し会津に向かった際、宮津に残った細川軍は、西軍からの攻撃に備えて舞鶴の田辺城に移りました。その際、宮津の漁師が細川家の人達や物資を船で田辺城に送り届けました。
その功績によって、細川家から宮津の漁師に宮津湾で自由に漁が出来る特権が与えられました。
漁師の一人である勘左衛門には、自宅から浜辺まで櫂や櫓を楽に運べる一直線の道を作ることが許されました。
神社の裏から港に向かって伸びる一本の細い道がそれで、勘左衛門小路と呼ばれています。

境内には、水越岩という巨石が祀られていました。神社の原型である自然崇拝は、山や岩を神様が宿る依り代として祈りを捧げていました。
この水越岩はかつて海中にあったらしく、この辺りも海だった可能性が高いと思います。
遥か昔の宮津は、海が谷にまで入り込んでいて、大手川によって扇状地が形成され徐々に平地が出来ていきました。それを更に人間が埋め立てて現在の宮津の町と港となりました。
宮津寺町エリア

次は町の西側の金屋谷・小川町エリアに移動してきました。
いままで多くの城下町を訪れてきましたが、どの城下町にも寺だけを集めた寺町エリアがありました。宮津にも寺町があり、町の南西部の金屋谷・小川町エリアに形成されています。
10以上の寺が山麓の斜面上に建てられていて、風情のある景観が広がっていました。

寺町には、城下町で重要なポイントが隠されています。城下町とは軍事都市ということです。
戦国の世が終わり、江戸時代になると戦はなくなり平和な世の中になりました。とはいえ、何の備えもしないなんてことは武士にとってあるまじきことでした。
敵が攻めてきた時、石垣と塀があり広い境内を持つ寺は、臨時基地として想定されていました。それを集めて町の外縁部に配置することで、城下町を守る城壁の役割を持たせました。
これが全国の城下町に寺町がある最大の理由です。

では、その寺町をどこに配置するかです。もちろん、敵が攻めてくる可能性が高いところです。
町の北側は宮津湾があり、船で攻めてきた場合は、船の性能が全てなので寺町を配置する意味はありません。
東側は山地が広がっていて、その向こうは細川領の田辺(舞鶴)なので問題ありません。西側も同じく山地が広がっています。
問題は南です。大手川が作り出した谷底平野が細く長く南へ伸びています。江戸時代には宮津と福知山を繋ぐ宮津街道(今普甲道)が通る重要地点でした。今も京都丹後鉄道や国道9号、京都縦貫道が通っている宮津の陸路での出入口です。
そのため、京街道(宮津街道)の近くの金屋谷・小川町エリアに寺町が作られたのだと思います。
如願寺

あまりに多くの寺があり、全部お参りしていてはキリがないので、良さげなお寺を一つだけ選んでみました。
金屋谷・小川町エリアから山麓沿いに少し北へいき、京都丹後鉄道の踏切を渡って、滝上山の坂を少し上ったところにある如願寺があります。
1024年(万寿元年)の創建で、宮津城下町で最も歴史のある古刹です。
戦国時代は広大な境内をもち30以上のお堂がありましたが、戦火で焼失。その後、細川忠興によって再興が始まり、江戸時代の藩主にも受け継がれました。

創建は比叡山延暦寺の僧「皇慶」が、行基菩薩が作った薬師如来像をこの地に祀り、お堂を建てたのが始まりとのこと。延暦寺のお坊さんが建てたのに何故か、宗派は高野山真言宗。
今も薬師如来像が秘仏として、本堂に納められています。本堂は1672(寛文12)年、宮津で宮大工として有名であった冨田大工の建築。
軒下のところには、虎の龍の彫刻があります。龍の方はカッコイイ感じですが、虎は猫みたいで可愛い感じ。

伝統的な木造建築で作られた鐘楼。江戸時代のままでしょうか。

特に解説がありませんでしたが、寺を開いた皇慶上人でしょうか。

寺は山麓の斜面上に建てられており、本堂の区画と西側の区画は段差が生じています。

屋根の赤いお堂が歓喜天堂。右の茶室風が芭蕉堂。
松尾芭蕉は宮津を訪れたことはないはずなのに、何故か芭蕉堂。
江戸時代、宮津の俳人たちは寺院で句会を開いていたらしく、大人気俳人の松尾芭蕉を慕って肖像画や木彫りの像を飾っていたそうです。おそらく、ここもその一環で建てたものだと思います。

今、如願寺が建っているのは川の北側だけですが、かつては南側にも塔頭が建ち並んでいたそうです。石仏っぽいものや、何か建っていたっぽい空き地があったりして、その名残を感じさせます。
ちなみに如願寺前の道は、宮津と加悦地方を結ぶ古い峠道でした。寺はその宮津側の出入口に位置しています。
如願寺もしっかりと交通の要衝を押さえていました。
