今庄まちなみ情報館
今庄駅に戻って来た。
先ほどスルーした今庄まちなみ情報館に行ってみる。
実は今庄宿繁栄の謎の答えがここで説明されている。
この年は大河ドラマの「光る君へ」が放送されており、紫式部も父・藤原為時に伴って今庄宿を通って越前へ赴いた。
オレンジの山中峠を通るのが奈良時代の北陸道。赤が江戸時代の北陸道。青が今庄宿で分かれて敦賀を通らず直接、近江(滋賀県)に向かう北国街道。
赤の北陸道をよく見ると、妙な鉄道路線が通っている。
今のハピラインは南今庄駅を出ると新幹線以外で最長の北陸トンネルで一気に山をぶち抜いて敦賀に到達している。
この北陸トンネルは1962年(昭和37年)に開通したもので、それ以前は旧街道に沿って、山をえっちらおっちら登っていた。
以前のルートはかなりハードな区間だったみたいで、25‰の急勾配に12個のトンネル、4箇所のスイッチバックと山越えフルコースとなっていた。
この急勾配は当時のディーゼル機関車では登ることが出来なかったため、蒸気機関車を連結して登っていた。
機関車を連結するために今庄駅には蒸気機関車用の転車台に給水塔が備え付けてある。
当時は機関車の連結のため、全ての列車が今庄に5、6分は停車しなければならなかった。
そこでその時間を利用して始まったのが「立ち売り」。お弁当や新聞雑誌、先ほど紹介した甘露梅肉と紅梅液などが立ち売りされいた。
この列車増結のおかげで今庄宿は昭和なっても繁栄が失われなかった。
転車台は撤去されているが給水塔が残っている。
今庄は前述した今庄そばが昔からの名物で、駅のホームで食べられる立ち食い蕎麦屋が出来た。
ホームは待ち時間にそばを食べるお客でいっぱいになっていた。
しかし北陸トンネルが開通し、今庄駅での連結作業の必要がなくなると、優等列車は今庄を通過するようになり、今庄宿の繁栄は失われていった。
最後に近くの城跡に宿場全体を見渡せるビュースポットがあるので、そこに行って今回のブログの締めにしたいと思う。
燧ケ城跡(絶景ビュースポット)
燧ケ城跡はかなり古く、平安時代の木曾義仲と平家の戦いで初登場した城。
その後も南北朝の動乱で北朝の今庄浄慶と南朝の新田義貞の戦い、戦国時代では一向一揆勢と織田信長軍との戦いの舞台となった。
江戸時代以降は廃城となり、今は石垣や堀切が残っている。
様々な時代で戦いの舞台となったのも、やはり今庄が交通の要衝であったため。
ここは何があったかよく分からなかった。西側虎口と堀切のすぐ隣なので、物見櫓跡だろうか。
本丸跡がある本曲輪の両側の虎口には堀切と土橋があり、敵の侵入を防いでいる。
本曲輪と西側曲輪を隔てる堀切跡。
本曲輪には現在も今庄に攻め込んでくる敵を物見するための、眺望の良い場所がある。
本曲輪からは今庄宿全体を見渡すことが出来るようになっている。荷駄隊が長い貨物を運んでいる様子が手に取る様に分かる。
かつて栄えた今庄宿も鉄道の時代になり、北陸トンネルが開通するとただの通り道になってしまった。
それが今や北陸新幹線の開通で、今庄には姿さえ出さずに通り過ぎて行ってしまう。
今庄宿は交通の歴史と寄り添った宿場町であった。
今庄宿 全体マップ
今庄宿へのアクセス
電車🚃
ハピラインふくい今庄駅下車。
車🚗
北陸自動車道今庄ICから車で10分
長文でしたが最後までお読みいただきありがとうございました!
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