南町編からの続き。今回は北町を巡っていく。
郡上八幡3つの魅力
- 山の遠景と水路や水舟、伝統建築が織りなす風景
- 13もの寺、伝統工芸品、間口の狭い町屋が残る美濃の小京都
- 作家、司馬遼太郎が悲しくなるほど美しいと讃えた、郡上八幡城
郡上八幡博覧館
北町では最初に郡上八幡博覧館を訪れるのがおススメ。郡上八幡の町の文化や歴史のことが解説されているので、町のことを知ってから町歩きをした方がより楽しくなる。
建物は擬洋風建築で1920年(大正9年)に税務署として建てられた。
ここで特に面白かったのが、郡上踊りの実演。これだけでもここに入る価値があると思う。
左側にあるお土産屋の前に水舟を発見。これで2つ見つけた。(水舟は南町編で解説)
郡上八幡最大の特徴はやはり水。
用水路が網の目の様に張り巡らされていたり、水舟や湧水の利用システムも無駄が全くない。
既に郡上八幡ではSDGsが達成されているやん!
江戸時代の郡上八幡は領主の入れ替わりが何度もあったが、戦国時代以前は東(とう)一族が約350年間治めていた。
東一族は代々歌道に優れていて、古今和歌集や百人一首の学説や解釈等を受け継ぐ家系であった。
9代目の東常縁(とうつねより)の時、応仁の乱で荒れ果てた京都から宗祇(西行法師、松尾芭蕉と並ぶ旅の三大詩人)が常縁に和歌の教えを受けに郡上を訪れた。
東常縁は宗祇に古今集の学説等を講義し、その形式を確立したことで古今伝授の祖と言われている。
京都で失われた文化が郡上八幡にあったとは、美濃の小京都はもはや本家を超えている!
常縁と宗祇の別れの場所は、江戸時代の藩主によって綺麗に保存され、今も代表的な観光スポットになっている。
もちろん後で行ってみる。
郡上八幡は平地が少ない代わりに、豊かな山と川に囲まれいるため、独自の伝統工芸品を生み出した職人の町でもある。
その一つが郡上紬。
鎌倉時代から続く伝統工芸品だったが、明治以降なると和服の需要低下により衰退してしまった。
しかし戦後に地元の産業として復活させ、さらに研究を重ねて新しい技法を編み出して、現在の郡上紬を創ったのが写真の人間国宝となった宗廣力三(むねひろりきぞう)。
こちらには鮮やかな鯉のぼりが飾られていた。この鯉のぼりはもう一つの代表的な伝統工芸、郡上本染で染められている。
染物に関してはド素人なのでよく分からないが、鯉のぼりの絵柄に染色する時、色を付けない部分に糊をつけることで、白く残るようにするらしい。
最後に糊を落とすため、毎年一月に冷たく澄み切った吉田川で鯉のぼりを一晩さらす「寒ざらし」が行われ、郡上八幡の冬の風物詩となっているとのこと。
染物店は大正時代には郡上八幡に17軒ほどあったらしいが、現在はたった1軒しか残っていない。その店が南町にあったらしいのだ。この時は気付かなかった😢
引用元:郡上本染 渡辺染物店 ホームページより
郡上八幡で唯一残る染物店、渡辺染物店は1580年(天正8年)に郡上八幡で創業、440年以上の歴史を持つ。
入店するのにかなり勇気がいる雰囲気。歴史の重さにひるんでしまいそう。
ホームページで商品のラインナップを見たところ、伝統的な着物だけでなく、ペンケースやコースターなど時代に合わせたものも作られている。
突然、飲食店があるなと思いきやそうではなくて、食品サンプルが並べてあるだけであった。
何故、こんなところに食品サンプルが展示されているのか?それは郡上八幡は食品サンプル生産量が日本一なのだ。
今から80年以上前、郡上八幡出身の岩崎瀧三氏が日本で初めて食品サンプルの事業を成功させた。
郡上八幡の職人魂は意外なものに繋がっている。
引用元:郡上八幡博覧館ホームページより
郡上踊りの実演コーナーは人が多く、写真を撮るのが難しかったため、郡上八幡博覧館ホームページより引用させて頂いた。
郡上踊りとはいわゆる夏の盆踊りなのだが、開催期間が異常に長くて、なんと毎年7月中旬~9月上旬の32日間という長期に渡って開催されている。
更に衝撃的なのが8月13日~16日は徹夜踊りといって、この4日間は毎晩20時~翌5時までぶっ通しで踊り続けるという狂気じみた祭りなのだ!(もちろん疲れたら輪から外れて休憩することは出来る)
踊りは十曲十種類あって、スタッフの方が実演されそのうちの幾つかを教えてもらえた。
郡上八幡の風土や歴史が表現されていて、町を愛する気持ちが伝わってくる感じ。
場所的に立って踊ることは出来ないので上半身だけの踊りだったが、自分で踊って体験するってやっぱ大切やなと思った。
次は博覧館を出て、展示にあった東常縁と宗祇の別れの場所に行ってみる。
宗祇水
東常縁と宗祇の別れの場所は、宗祇が郡上八幡に滞在中に暮らしていたところでもあり、宗祇水と名付けられている。
旅の三大詩人で西行法師と松尾芭蕉は知っているが、宗祇はあまり知らない。室町時代の連歌師ということくらい。
そんな知名度低めと思っていた詩人の名が、提灯にこれでもかと名前が連発されていると、宗祇の様な偉人は知っていて当然やんな?と言われている気がする。
無知を反省し、改めて宗祇について知識を深める機会を与えてもらったことを感謝しないといけない。
ここが博覧館で解説されていた東常縁と宗祇の別れの場所、宗祇水。
別れの時、二人は短歌を贈りあった。
もみぢ葉の ながるる竜田 白雲の
花のみよし野 思い忘るな 東常縁
三年ごし 心をつくす 思い川
春立つ沢に 湧き出づるかな 宗祇
別れを惜しむ気持ちが湧水に託されていて、今も湧水のほとりで二人が別れの語らいをしている気がする。
近くにある案内板には1846年(弘化3年)頃の宗祇水の風景画があった。
今は川の対岸には家々が建っているが、宗祇水の周りは今も全く変わっていない。
二人の思い出の場所は代々の藩主や住民によって現代へ伝えられてきた。
ただ単に風情のある場所というだけでなく、人の想いとそれを受け継いできた人々の努力によって維持されてきた場所だと知ると、より感慨が深くなる。
小駄良川(こだらがわ)
宗祇水の水は、すぐ近くを流れる小駄良川に注ぎ込む。観光客か地元の子供かは分からないが、川遊びで賑わっていた。
川で水遊びをしている風景って都会はもちろん、田舎でもあまり見かけない気がする。
郡上八幡では川で遊ぶ子供を「川ガキ」「河童」と呼び、夏の風物詩となっている。
小駄良川は浅いので小さな子供向きで、成長して泳げるようになると吉田川に架かる宮ヶ瀬橋や新橋付近へレベルアップする。
水の町、郡上八幡は川で遊ぶことが生活文化として根付いている。
昼ご飯を食べた新橋亭から見える新橋は、高さが12mあって飛び込みの名所になっている。
これをクリアすれば一人前の川ガキになれるらしい。
鍛冶屋町、職人町
北町は重要伝統的建築物群保存地区に指定されており、ほぼ全ての家に袖壁があることが特徴。
袖壁とは家の2階の両端に取り付けられている壁のこと。
火事の時、2階の窓から炎が噴き出してきた場合、隣家への延焼を防ぐ効果があると言われている。
道の両端には水が流れている。道に側溝なんてよくあると思うかもしれないが、これは排水の為の側溝ではなくて用水路なのである。
昔は飲み水や食料品の洗い場といった、生活用水として利用されていたとのこと。今も利用されているのを何度も見かけた。
家の前に流れている水が飲めるって信じられない。京都の路地の側溝なんか下水が流れているだけやし。水の町の称号は伊達ではない。
この辺りは大手町といって、道の先に城の大手門が建っていたと案内板にあった。
この道は鍛冶屋町、職人町の町人地と大手門があった武家町を繋ぐ道となっていた。
道の先に見える山の上には、小さくとも優美な郡上八幡城が建っている。
武家町
この付近に八幡城の大手門があり、道の突き当たりの高くなっているところに三ノ丸があったらしい。
現在の三ノ丸跡地には明治時代に移転してきた安養寺が建っている。
かつての武家町を貫く、郡上八幡のメインストリート殿町通り。
お土産物屋や飲食店などが多数並んでいる。
旧武家町、柳町。現在は柳町で統一されているが、昔の町名である上柳町が掲げられている。
北町は伝統的建築物群保存地区に指定されているため、南町よりも多くの古い建物が残っている様に見えるのだが、ほとんどが大正から昭和に建てられたものばかりである。
実は1919年(大正8年)に北町のほとんどを焼き尽くす郡上八幡史上最大の大火災があったのだ。
ただ、不幸中の幸いで600棟が焼失した火災でありながら死者は一人も出なかったらしい。ひょっとすると袖うだつが延焼を遅れせて逃げる時間を与えていたのかも。
「北町は滅びぬ、何度でも蘇るさ」と誰かが言ったかどうかは分からないが、町並みは昔からの建築様式と防災機能をパワーアップして蘇った。
皮肉な事に大火がなかった南町の方が江戸や明治の建物が残っているのも関わらず、重要伝統的建築物群保存地区には指定されていない。
その理由はよく分からないが、全て立て直しているせいか統一感は北町の方がある気がする。
あと北町は脇の水路に蓋がしていない箇所が多く、それが郡上八幡ならではの雰囲気を出している。
その代わり登録有形文化財は南町の方が圧倒的に多い。
ここは明治に創業した郡上八幡で最も歴史のある旅館「備前屋」。
火災範囲は丁度この備前屋付近までで、ここも再建されたものだと思う。
元は江戸時代の藩校「潜龍館」が建っていて、幕末には西洋医学の講義が行われていたらしい。
備前屋のすぐ隣には城山があり、少し進んだ山の南側にも武家町が続いていた。
この付近は重要伝統的建築物群保存地区の範囲外だが、袖うだつの家屋が並んでいる。
桜町は大正の大火災の範囲外であったため、当時の武家屋敷が2軒のみだが残っている。
玄関は現代風になっているが、家の周りには石垣と土塀を巡らし、町人とは違っている。
右側には小さいながらも庭を持っているので、それなりに格式の高い武士のお宅だった気がする。
次は小駄良川の方へ戻り、町の西側を探索してみる。
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