天橋立歴史観光1 かつて丹後地方の中心地だった天橋立。絶景に隠された歴史を巡る(文殊編)

智恩寺

智恩寺 三門

府道2号線から真っ直ぐ伸びる参道の突き当りに、松に彩られた立派な三門「黄金閣」が参拝者を出迎えています。

創建ははっきりと分かっていない様で、904(延喜4)年に醍醐天皇から天橋立智恩寺の寺号を賜ったのを始まりとしています。

三門「黄金閣」は、1767(明和4)年に建てられました。

多宝塔

三門をくぐるとすぐ、左手に多宝塔がありました。1501(明応10)年、丹後守護代の延永晴信(のぶながはるのぶ)によって建立されました。面白い名前やな(笑)

丹後守護と言えば、室町幕府の四職筆頭の一色氏。この時代の守護代あるあるで、延永氏は主家を圧倒する権力を持つようになっていました。多宝塔を建立出来るくらいの財力があり、寄進は地元の寺とのコネクション作りとして重要でした。

しかし、残念ながら下剋上は失敗に終わりました。内乱の鎮圧に幕府や隣国の大名の助けを借りた一色氏は、パッとしない大名として織田信長の丹後侵攻までグダグダ続きます。

もう一ヶ所、一色氏関連の史跡がありました。

稲富一夢の墓

延永の野望、もとい信長の野望プレイヤーにとって一色家の存在価値と言えば、丹後の鉄砲マスター「稲富祐秀、祐直」です。祐直は後に入道して、稲富一夢とも知られています。

稲富祐直のお墓がありました。

説明によると、若い頃の祐直は、天橋立で射撃練習をしていたそうで、25歳の時には、智恩寺の文殊堂で願掛けをし、暗闇の中でも目標に命中させられる様になったとのこと。

最後は徳川幕府に仕え、1611年(慶長16)年に亡くなりました。台石には

伊州太守奉誉栄門(稲富伊賀守祐直のこと)
施主者 羽柴丹後守高知(初代宮津藩主、京極高知のこと)
慶長十六年辛亥二月六日(1611年2月6日)

とあります。意外なところで稲富祐直の墓参りが出来ました。

鉄湯舟

やたらとデカい手水鉢。それもそのはずで、元々はお風呂だったそうです。1290(正応3)年に河内国(今の大阪)で製作されたもの。

鎌倉時代の風呂が今も残っているって凄いな。

智恩寺では手水鉢ですら歴史があり、ちょっとしたものでも見過ごす訳にはいきません。

おみくじ

またまた、意味ありげなものを見つけてしまいました。松の木に小さい扇子が括り付けてあります。

よく見ると、扇子はおみくじになっています。

これは智恩寺の名物「すえひろ扇子おみくじ」で、末広がりに広がる扇子のように人生が明るく開けるという願いがこめられたおみくじです。

松の木に結びつけることで、幸運を引き寄せる意味があるそうです。見た目も松に花が咲いた様で、松林に囲まれた智恩寺ならではって感じがします。

筆者は引いた後、持って帰りました。そのあとは行方知れずです。何が書いてあったかも忘れました(笑)

文殊堂

本堂の文殊堂です。本尊は三人寄れば文殊の知恵でお馴染みの文殊菩薩。

奈良の安倍文殊院、山形の亀岡文殊(大聖寺)と並ぶ日本三大文殊のひとつになっています。

お堂内には、江戸時代の絵馬が残されていて、中には俳句や和歌、絵画、算額(数学の問題が書かれた額)など様々な知識技能の向上が願われていました。

筆者が寺や神社を参拝した時は、訪れた土地の歴史や地理について詳しくなれるようにと願うことにしています。

暁雲閣

文殊堂の横には、見慣れない形の鐘楼門「暁雲閣」がありました。竜宮門という形式で江戸時代の建立とのこと。

門は閉じられていて、中には入れませんでしたが、多分、お寺の人の仕事場である庫裡や寺務所になっていると思います。

鐘楼

暁雲閣のすぐ近くには鐘楼がありました。門と合体したのが鐘楼門。鐘のみのは鐘楼といいます。

こっちの鐘楼は明治時代の建立です。今はこちらの方で鐘が撞かれている様です。

鎌倉時代から明治時代まで、色んな時代のものが残されているのが面白いですね。

知恵の輪燈籠

境内の東側はすぐ海になっていて、対岸に天橋立がみえます。そこに変な輪っかのモニュメントが立っていました。

これは江戸時代に作られた輪っかの形をした燈籠で、輪の中に明かりが灯され、文殊水道を行く船の灯台の役割を果たしていたそうです。

この智慧の輪を3回くぐると、文殊様の智慧を授かるご利益があると言われている様ですが、どうやってくぐんの? 誰もやってる人もいないし。

くぐると智慧が授かるらしいですが、くぐるための智慧が出てこない。本末転倒やん(笑) ほんまにくぐろうとしたら、それこそ頭のおかしい人に見られてしまうし。

家に帰ってから調べたところ、頭だけを出し入れするか、周りを回るだけで良かったみたいです。

智恩寺公式ホームページへ

四軒茶屋

智恩寺 三門

三門の黄金閣に戻ってきました。

入る時は気付かなかったですが、境内側から提灯を見ると「門前四軒茶屋」と書いてありました。

今でこそ智恩寺の参道には多くのお店で賑わっていますが、戦国時代以前は店も家も一軒もありませんでした。

江戸時代になり智恩寺と天橋立への観光客が増え始めると、智恩寺は門前で店をやる許可を寺で仕えていた4人の奉公人に出しました。1690(元禄3)年のことでした。

その4人が出した店をまとめて四軒茶屋と言いました。

吉野庄兵衛の吉野茶屋、松波庄三郎の彦兵衛茶屋、幾瀬平兵衛の勘七茶屋、山崎庄八のちとせ茶屋。

吉野庄兵衛の吉野茶屋、松波庄三郎の彦兵衛茶屋

素晴らしいことに四軒とも今も元気に営業されておられます。この時は閉店時間が過ぎてしまいましたが…。だって昼間だと、人が多過ぎて写真が撮れなかったのです。

名物は智慧の餅。お餅の上にたっぷりのあんこがのっています。

智恩寺の三門に近い順に、吉野庄兵衛の吉野茶屋、松波庄三郎の彦兵衛茶屋。続きは下へ

幾瀬平兵衛の勘七茶屋、山崎庄八のちとせ茶屋

幾瀬平兵衛の勘七茶屋、山崎庄八のちとせ茶屋が並んでおり、この並びは智恩寺に残る証書の署名の順番と全く同じらしいのです。

ちょっとしたことですが、330年経っても変わらないことがあると、今に伝えてくれています。

幾瀬平兵衛の勘七茶屋さんで購入しました。箱にぎっちりとお餅とあんこが詰め込まれていて、値段の割にお得感がありました。あんこがあっさりしてて、たくさん食べてももたれない感じが上質なあんこって感じです。

それぞれに違いがある様なので、次に行ったときは別の店に行く楽しみがありますね。多分、前のことは覚えていないやろうけど(笑)

1 2 3 4

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

この記事が気に入ったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

目次