室津は兵庫県たつの市にある港町。今は小さな漁村に過ぎないが、かつては室津千軒と呼ばれるほど栄えていた。
特に江戸時代の参勤交代では、ほとんどの西国大名が室津で宿泊するようになり、瀬戸内一の宿場町であった。
また室津はオランダや朝鮮通信使、琉球使節が江戸に参府する時の中継地でもあり国際外交の一端を担っていた。
今回は室津の町を巡り、瀬戸内一の宿場町の名残を探ってみた。
室津、3つの魅力
- 1300年の歴史を持つ港町に残る風情や伝統建築
- 室津を訪れたシーボルトを驚嘆させた絶景
- 山からの水が溢れる穏やかな室津湾で育つ室津牡蠣
山陽電鉄 姫路駅~網干駅
かつては多くの大名や旅人で賑わっていた室津だが、今はかなり行きづらい場所となっている。
まずはJRで姫路駅へ行き、そこから山陽電鉄に乗り換え網干駅へ向かう。
室津へはJRの竜野駅か山陽電鉄の網干駅が一番近く、江戸時代は竜野から室津まで伸びる室津街道が多くの大名で賑わっていた。
しかしこのルートは山越えが待ち受けているため、筆者は比較的平坦で海岸沿いに行ける網干駅から行くことにした。
網干は姫路市にある町で、関西の西の端っこと言うイメージがあり、神戸と姫路を結ぶ山陽電鉄の最西端の駅となっている。
はりまシーサイドロード
山陽網干駅からは国道250号をひたすら西へ向かい、海岸沿いのはりまシーサイドロードを進むと、開けた半島がある。そこが室津港。
地図上で見ると狭くてかなり不便な場所にあり到底、瀬戸内一の宿場町とは全く思えない。
山陽網干駅からはいつもの通り折り畳み自転車で目的地へ向かった。
国道250号線を山に向かってひたすら走っていくと平野が尽き、山と海の隙間を縫うように道は続いていく。
丁度、疲れてきたなと思ったところに、道の駅があった。ここで暫し小休止。
室津も含めて、ここはたつの市になるので、お土産物屋には室津の産物だけでなく、龍野醤油やそうめんも売られていた。
レストランの方は、新鮮な魚介を使ったメニューがメインで、特に播磨灘の名産である穴子やシラスが海鮮BBQまであった。
引用元:道の駅みつホームページ
一人旅の筆者はぼっちBBQは悲しいし贅沢過ぎるので、屋台にあったカキフライドッグを購入した。牡蠣は室津の名物である。
牡蠣は英語の綴りでRが含まれる月が旬だと聞いたことがある。この日はRのつく月になった初日だったのでちょっと時季外れ。
牡蠣とパンの組み合わせって初めて食べた気がするが、相性ピッタリ。時季外れでも十分美味しかった。
食べることに夢中で写真を撮り忘れてしまったので、「道の駅みつ」から引用させて頂いた。
施設の裏側には播磨灘が広がっていて、砂浜まである。
この辺りの海岸線は切り立った断崖になっており、ここだけ砂浜があるって不自然な気がする。
ひょっとすると人工的に作ったものかもしれない。
室津までもう少しである。
七曲りと呼ばれる連続カーブを過ぎると、室津の町が見えてくる。
波打ってる様な石碑には室津の街並みとあり、町巡りが始まる気分を盛り上げている。
町は山と海に囲まれた地形にあるので、町の入り口は坂になっている。
室津 観光案内マップ
町も港も山と海の間の限られた土地に、所狭しと寄り添いあっている。
司馬遼太郎は「街道をゆく」で「湾は意外に小さい。湾の小ささが室津の風情をいっそう濃くしている」と感想を漏らしている。
まずは町や港を見て回る前に、町の成り立ちを学びに資料館に行ってみる。
室津海駅館
室津には江戸時代の廻船問屋の雰囲気を感じられる家屋が保存されており、室津を代表していた2軒の豪商屋敷が資料館として観覧出来るようになっている。
室津海駅館は江戸から明治に北前船交易で財を成した豪商「嶋屋」の商家兼脇本陣で、江戸後期の当主・三木半四郎の時に建てられた。
江戸時代の町屋は二階を禁止されているところが多かったが、室津の町屋のほとんどが二階建てになっていた。
しかしよく見ると、二階が一階に比べてかなり低くなっており、背が高い人だと頭が当たりそうである。あとで2階に上がったが、かなり面白い構造になっていた。
室津は奈良時代からの海上交通の要地で、中世には室津の人も海運による輸送業に乗り出し盛んになっていった。
江戸時代になると航路と商品経済の発達により、北海道まで活動の範囲が広がった。特に太平洋に比べて夏の間は穏やかな日本海側の北前船交易が非常に盛んになっていた。
しかし廻船業は沈没も多くかなりのハイリスクだった。ただリターンもデカかったため、北前船の寄港地には財をなした豪商屋敷が残っている。
屋敷の奥は港に面している。漁船が停泊しており、まるでそこに北前船がある気がする。
東海道五十三次で有名な浮世絵師・安藤広重が室津の風景を描いていた。
室津は右下の山に囲まれた入り江の部分で、多くの船が室津に立ち寄る様子が描かれている。
三方を山に囲まれており波も穏やかで、「室の如く静かな津」と呼ばれていたのが地名の由来であった。
帆船は風の影響をモロに受けるので、風や波を防ぐ室津は理想的な港で、風待ちのため多くの船が立ち寄っていた。
北前船交易の主力製品と言えば、ニシン。ニシンは食用以上に、農作物の強力な肥料として有用で各地で飛ぶように売れたといわれる。
ニシン漁は大正くらいまで桁違いの漁獲量があり、一攫千金の夢が詰まっていた。この嶋屋もニシンで巨万の富を築いた。
しかし乱獲と温暖化による海水温上昇で北海道沿岸にニシンが来なくなり、次第に衰退していった。
京都のにしん蕎麦とかアホみたいに高くなってしまっている。
これは関札と言って本陣(参勤交代の時に身分の高い武士が泊まる高級ホテル)に宿泊する大名の名前が書かれた立札。
今もホテルの入り口に見かける「~様御一行」と書かれた看板の様なもの。
この関札があった肥後屋は肥後熊本藩細川家の定宿だったようで、細川家の有名武将3人が揃い踏み。
細川兵部大輔は細川藤孝、細川越中守はその息子・細川忠興で細川ガラシャの夫で熊本藩初代藩主。
左の細川右京大夫は明応の政変で戦国時代を創出し魔法使いになろうとした男、細川政元。
これで一番左がその子孫である細川護熙元首相の関札やったらめっちゃ面白かったな。
本陣の一つ、薩摩屋で提供されていた大名の献立。
御上と御次の献立と書いてあるので、左が特上で右が上といったところだろうか。違いがほとんど分からない。
本陣は基本的に一つの宿場町に1、2軒となっていたが、室津はなんと6軒もあり、全国でもトップクラスの軒数だった。
西日本の大名は参勤交代で江戸と国元を往復するとき、瀬戸内海は船で移動していたが、室津から先の明石海峡は潮流が速く航海の難所と言われているため、室津からは陸路で江戸に向かっていた。
そのため室津は宿泊する大名で大混雑し、本陣が多くなっていたのである。
嶋屋の様に脇本陣を兼ねた豪商屋敷も多く旅籠屋の数も桁違いで、「室津千軒」と呼ばれていた。
今でいうとアトランタやドバイ、仁川空港などのハブ空港の様な感じだろうか。
そんな国際的なハブ空港に例えるのは言い過ぎと思われるかもしれないが、室津に立ち寄るのは日本人だけではないのだ。
朝鮮通信使という言葉だけでも聞いたことがある人は多いと思う。
一言で言えば、朝鮮から日本へ派遣された外交使節団のことである。
室町幕府の足利義満から始まり、江戸末期まで行われた。
朝鮮通信使にとっても室津は風待ちの重要な港で、必ず立ち寄っていたとのこと。
室津は姫路藩の領地だったため、寄港の際は姫路藩が接待にあたっていた。
姫路城で有名な池田輝政が室津での休息所として建てた姫路藩御茶屋が、朝鮮通信使のための宿泊施設となっていた。
近くにその名残が残っているので、後で見に行ってみる。
正直言うとあまり美味しそうに見えない💦。筆者の様なB級の人間からすると、ちょっと上品すぎるせいだと思う。
お偉いさんの食べるものは庶民とは違ってことやな。
朝鮮通信使が室津に寄港する様子が描かれた屏風。
真ん中にある海に面した建物が姫路藩御茶屋。
その前に停泊する6隻の船が朝鮮通信使の船で、総勢で500名ほどいたらしい。
その他の船は姫路藩や対馬藩の船で案内、警護、食料の供給などを行っている。
室津に立ち寄った外国人はもちろん朝鮮人だけではない。もっと遠い国の人も室津に寄港している。
今までの雰囲気とはガラリと変わり、西洋っぽい雰囲気の絵が描かれた本があった。
しかしよく見るとA View of the town and Harbour of MURUと書いてあり、ムルとは室津のことで風景を描いている。
江戸時代、長崎の出島で貿易が許されたヨーロッパ唯一の国、オランダも室津に寄港している。
出島のオランダ人は年に1回、江戸の将軍へ日蘭貿易の挨拶に行く江戸参府が定例となっていた。
ケンペルは船から見た室津の風景を描いている。手前に海、背後に丸い嫦峨山、入り江には沢山の船が停泊している。
ケンペルは「History of JAPAN 」(日本誌)をロンドンで出版し、日本のことを客観的かつ詳細にヨーロッパに伝えた人物。
ヨーロッパで最初の日本研究本で、室津の名をヨーロッパ中に知らしめた本である。
近代日本医学の父として日本に蘭方をもたらしたフォン・シーボルトも室津に立ち寄っている。
この本はシーボルトの著作「日本」で室津のことを詳しく紹介している。
ドイツ語で書かれていて全く読めないが、解説によると室津にある賀茂神社を訪れ境内からの風景を絶賛しており、「これまで日本で見たもっとも美しい景色のひとつ」と褒め称えている。
これは是非とも見に行かなくては!
次は二階へ上がってみる。外から見た二階の低さの謎が一目瞭然で分かった。
なんと天井が窓側に対して徐々に低くなっていたのだ。船底の様な曲線を描いていることから、屋形船之間といわれる。
解説によると登り梁(屋根の勾配に沿って斜めにかけられた柱のこと)を隠すため、この様な造りになっており、室津の町屋の特徴とのこと。
外から見た時、一階に比べて二階が低く見えたのは、この造りのためだった。
低い窓から外を眺めてみる。時間がとまったように、往時の面影が残されている。
見るからにワンランク上の雰囲気を醸し出しているこの部屋は、嶋屋で最も格式の高い座敷になっている。
手前の二之間は腰折れ吊り天井( 天井の中央部分が水平で両脇に向かって斜めに傾斜した天井のこと)になっており、斜めに下がっている天井の先は、櫛の様な欄間に繋がる連続性をもたしている。
一之間の床の間は特に贅を凝らしてある。
左側の襖絵は赤穂藩のお抱え絵師・長安義信によるもの、床や棚の板は超レアな玉杢目(たまもくめ)が入った欅が使われているとのこと。写真ではよく分からないが玉状の木目のことらしい。
一之間からは室津港が一望できるが、蔵と木々がちょっと邪魔な気がする。
次はもう一軒の資料館、室津民俗館に行ってみる。
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