日本のほぼ中心に位置する岐阜県、更にその中心に位置している美濃市、旧上有知町(こうずちちょう)、。
戦国武将・金森長近が築いた城下町はうだつの町並みと1300年の美濃和紙の伝統が残る商人町。
かつては近くを流れる長良川による水害に悩まされていた。
地形を活かした町づくりによって、水害の被害は減り、うだつのあがる商業都市として繁栄していった。
今回は日本一うだつが残る町、美濃市を巡りながら、どの様にしてうだつのあがる商業都市として発展していったのか見に行って来た。
美濃市うだつの町、3つのポイント
- 水害から守られた絶妙の地形
- 美濃の山がもたらす楮と長良川の清流が生み出した美濃和紙
- 長良川水運の中継地点である川湊
旧名鉄美濃駅舎
岐阜は京都から比較的近くて行きやすいところなのだが、美濃市は少し行きづらい。
鉄道だと美濃太田まで行き、そこから長良川鉄道に乗り換えて美濃市駅で下車。しかしこれだと遠回りなってしまい時間がかかってしまう。
何か良い行き方はないかと調べたところ、岐阜駅から美濃市経由の郡上八幡行の高速バスが出ていた。
バスのおかげで30分ほどで美濃市に行けたが、最寄りのバス停からうだつの上がる町並みまでかなり距離があったし、バスはよく調べないと分からないので、正直メンドクサイ。
何故か美濃市から美濃太田には鉄道があるのに岐阜市には接続していないのだ。
実は昔はあった様で、その廃線となった駅があった。
今は岐阜市内に路面電車は全く走っていないが、2005年(平成17年)まで名鉄の路面電車が走っていた。
その中の名鉄美濃町線が岐阜の徹明町駅から美濃駅まで結んでいた。
しかし1999年(平成11年)に関から美濃までが廃止され、2005年に残りの区間も廃止された。
理由としては、岐阜市は他の路面電車が走る都市に比べて道が狭いことや、岐阜県の自動車保有率が全国8位でかなり車依存度が高い県であることが挙げられる。
当時の時刻表がそのままで残されている。
路面電車で急行があるってかなり珍しい。
この電車が残っていたら、いちいちバスをネットで調べる手間が省けたのに。
ともかく、うだつの町並みに向かった。
うだつの上がる町並み
うだつの町並みは小高い丘の上にあるので、坂を登った先になる。
この辺りからも古い建築を見掛けるようになってきた。
うだつエリアに入った瞬間この景色。
両側共にうだつの上がる家が建ち並んでいて、正に壮観の一言。
美濃市にあるうだつの上がる家は19棟あり、日本一のうだつの町となっている。
日本一うだつの上がる町並みは伊達ではなく、うだつが上がりまくっている!
うだつの上がらない筆者がここにいる事が、町のうだつを下げてしまっている😨
当ブログでここを紹介することで許してもらうことにしよう。
うだつの上がらない筆者のブログに何の宣伝効果もないだろうけど😢
美濃マップ
うだつの上がる町並みのメインとなる場所は、道の色が濃いオレンジになっている通り。
その部分が江戸時代からの町並みが残された重要伝統的建築物群保存地区。
一周は約1.2㎞ほどで、歩いて見て回るには丁度良い広さ。筆者はいつも通り折り畳み自転車で訪れたが、逆に必要がなかったくらい。
このコンパクトな町並みには地形に独特の特徴があるため、この様な区画になった。下で解説しよう。
うだつの町 地形の秘密
うだつの上がる町、城下町上有知(こうずち)を築いたのは戦国武将、金森長近。
金森長近はあまり知られていない武将かもしれないが、古い町並みフェチな筆者にとっては好みの武将。
金森長近は信長、秀吉、家康に仕え、飛騨高山や越前大野といった風情ある美しい城下町を築いた武将で、都市プランナーとして素晴らしい遺産を残してくれているのである。
千利休の弟子で古田織部とも親交があったため、芸術的センスに秀でた人物でもあった。
「金森長近を大河ドラマに」みたいな感じで美濃市や飛騨高山、越前大野はもっとプッシュしないのだろうか。
金森長近が築いた上有知(こうずち)の城下町は、東西に2筋の街路と南北に4筋の横丁からなり、漢字の「目」に見えるので通称「目の字通り」と呼ばれている。
町割りは全く変わっておらず、目の字通りが前述の美濃マップの濃いオレンジの道である。時代が下るにつれて周りの部分も開発されていった。
長近が築いた飛騨高山や越前大野も碁盤の目状で、商業を重視した町割りになっている。
「直線を見たら秀吉と思え」とはブラタモリ伏見編でタモリさんが発した言葉だが、秀吉の家臣であった長近も秀吉から大きな影響を受けているかもしれない。
南側の筋から東方向を見ると、見た目には分かりづらいが緩やかな上り坂になっている。
先ほどは小高い丘と言ったが、丘ではなく遠くに見える山裾からの斜面に作られているのである。
実際、目の字の端から端までで5mほどの高低差が生じている。
横丁はほぼ高低差はないが、目の字通りの外へ行くと
かなりの坂道になっていて、周りより高い位置に町があることが分かる。
町の北側には長良川が流れており、水害をよく引き起こしていた。
長近は町を水害から守るため、川よりもかなり高くなっている場所に町を造ったのだ。
町を守っているのはこれだけでない。とある守護神が目の字通りの四隅で町を守っているのだ。
目の字通りの東西南北の角には四神をモチーフにした招き猫が置かれていた。
説明によると金森長近の町作りには「四神相応」の思想を取り入れられているとのこと。
四神相応とは北を玄武、東を青龍、西を白虎、南を朱雀に町を守護してもらうって考え方。
四神と言えばアニメやゲームでの印象が強い。
お腹にはそれぞれが司る四神の絵が昔の壁画の様なタッチで描かれており、町に危険が及んだ時にはそれぞれを冠した四神の能力が発動するに違いない。
筆者は幽遊白書の四聖獣やるろうに剣心の四神を思い出してしまった。
どんな能力かをイメージしたかでその人の世代が分かってしまう、恐ろしい招き猫なのだ。
そもそも、うだつって何?
うだつ、うだつと言ってきたが、そもそもうだつとは何なのかを説明しよう。
家の端に高くなっている小さな屋根の様な部分をうだつという。
日本の伝統家屋はほぼ木造建築であり、火災に非常に弱かった。
そこで家の両端に防火壁としてうだつが設けられるようになったわけである。
完全に火を食い止められた訳ではないが、延焼を遅らせる効果があり、家財道具などを持ち出す時間稼ぎになった。
特にここ上有知(こうずち)では水害を避けて城下町が高所に造れらたため、逆に水に乏しい町となってしまった。
消火にも水が不足したため、防火壁として多くの家にうだつが設置されるようになったのである。
いつの頃からか、うだつを設置することをうだつを上げるというようになった。
うだつを上げるにはそれなりの費用が必要であり、江戸時代中頃からはうだつに装飾を施すようになっていった。
うだつが家の財力を誇示する手段となり、うだつが上がっているかどうかでその家の裕福度合いを判別するようになった。
そこから「出世出来ない」「金銭に恵まれない」「見栄えがしない」ことをうだつが上がらないと言う様になったのである。
正に筆者の事で、書いていて悲しくなってきた😢
道の先の方まで続く連続うだつ。裕福な家が多かった証である。
では何故、上有知には裕福な家が多かったのか?
美濃地方は水と木材が豊富であるため、奈良時代から和紙作りが行われ美濃和紙の里と知られていた。
美濃和紙の品質と知名度のおかけで、この地では多くの紙問屋の立派な邸宅が構えられていた。
その中でも市内最大の商屋・今井家が残されており、見学が出来るようになっている。
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