与謝野町歴史観光 機織りの音が鳴り響く、ちりめん街道を行く

目次

下村家住宅

街道の突き当りには寺が建っており、ここが2つの目のクランクとなっている。

下村家住宅

クランクを曲がったところは、特に古い建物が残っていて、昔の街道の雰囲気が感じられる。

この辺りは全て江戸時代のからちりめん問屋を営んでいる豪商、下村家の建物となっている

下村家住宅

下村家住宅でも、写真の真ん中の家は1804年(文化元年)の建築で、ちりめん街道内で最も古い建物となっている

その手前のどう見ても家にしか見えない建物が、1887年(明治20年)に建てられた加悦郵便局。

昔の郵便局では電信(モールス信号みたいなやつ)で情報を送受信しており、加悦で最も重要な情報、生糸相場の情報をいち早く知る事が出来るようになった。

下村家住宅 角屋

こちらの工事中の下村家住宅は明治30年代に10代目広吉によって建てられた。街道の角にあったため、屋号を角屋と名乗っていた。

角屋は北前船の廻船業で大儲けをし、その後ちりめん業に乗り出した。現在も続いており向かいに工場がある。

株式会社丸中

現在も続く下村家の機屋(はたや)、株式会社丸中。

機織りの見学が出来るみたいやけど、工場が稼働している平日のみであった。土日祝は休みになっているホワイトな会社であることが伺える。

ちりめん街道2

渋谷家住宅

暖簾にはちりめん街道、店先行灯には丹波路の文字が。

1897年(明治30年)に建てられた渋谷家住宅。今は天風庵という骨董品屋になっている。

定休日は特に決まっておらず、店主がいるときだけ開いているという、超気分屋のお店。

旧伊藤医院診療所

町役場や旧尾藤家住宅に引き続き登場した洋風建築。

大正6年ごろに建てられた診療所で、与謝野地域で初の西洋医学の診療所であったとのこと

洋風やけど木造で作られていたり、松の木や竹の支柱があったりして、和洋折衷な感じになっている。

旧伊藤医院診療所

診療所の入り口にはホンマにギリシャ建築みたいなレリーフが施されている。

上には伊藤診療所が巻物風に書かれていて面白い。

天満神社と宝巌寺(ほうがんじ)

宝蔵寺と天満神社

今までの町屋が連なっていた景観と打って変わり、広い敷地を持つお寺と神社が現れた。

後ろには小高い山があり、山全体が寺や神社があつまった空間になっている。

加悦を城下町として整備した細川家臣、有吉立言(ありよしたつのぶ)は城と町の防御の為、ちりめん街道沿いに寺院を集中させた

この天満神社と宝巌寺も有吉立言によって建立された。

天満神社 参道

ちょっと、行くのに二の足を踏みそうな137段の長い階段。

上からは加悦の町並みが一望できそうなので、頑張ってのぼった。

本殿

長い階段を上った先にある本殿。天満神社ってことで学問の神様、菅原道真を祀っている。

元々は別の場所にあり、1586年(天正14年)、有吉立言によってにこの場所に移されたとのこと。

残念な事に、本殿の周りは木々に覆われていて、景色が全く見えなかった。町巡りの時は、上から町の全体像を見たいのに…。

宝巌寺

次は隣の宝巌寺へ。石垣の上に構えた山門は、小さいけど上の部分には回廊がついていて、立派な感じ。

本堂

創建は1599年(慶長4年)で、天満神社と同じく城下町が出来た時に作られた。

丹後ちりめんの功労者の一人、問屋を営んでいた木綿屋六右衛門の菩提寺となっている

丹後ちりめん歴史館で、与謝野はちりめん造りに適した地理的条件が揃っていることが分かったが、自然発生的にちりめん造りが始まったわけではなかった。

あることで苦境に立たされた与謝野の人々の努力の結晶が、ちりめんを作り上げた。詳細は後ほど。

杉本家住宅

杉本家住宅

記憶力の良い人は杉本家ってさっきもあったやんと、覚えているかもしれない。

その通りで、ちりめん街道には杉本家が3家もあるのだ。杉本家は丹後ちりめんで特に重要な家なのである。

ここの杉本家住宅は1893年(明治26年)の建築で、ちりめん街道で唯一、うだつのあがる建物となっている。

杉本家住宅 本家

二度あることは三度ある、またまた登場の杉本家住宅。大トリを飾るのが本家の杉本家。

この杉本家こそが、丹後ちりめんの創始者である手米屋小右衛門の子孫の家。家の前には石碑が立っている

ちりめん発祥の地の石碑

ここで軽く丹後ちりめんの始まりお話を

江戸時代の始め、丹後地方は凶作による大飢饉に見舞われ、多数の餓死者が出た。更に不幸は重なり、京都の西陣でお召しちりめんが誕生したことで、それまで丹後で作られていた絹織物「丹後精好」が全く売れなくなったのだ。

苦境に喘ぐ丹後を打開すべく、問屋の木綿屋六右衛門は西陣の様なちりめんを作りだそうと考え、手米屋小右衛門と山本屋佐兵衛を京都の西陣へ修行に行かせた。また同じ時期に与謝野の北側、峰山の方でも絹屋佐平次が西陣へ技術を学びに行っていた。

2人は4年間、苦労してちりめんの技術を習得して、与謝野に帰ってきた。この3人と峰山の絹屋佐平次は、ちりめんの技術を惜しみなく丹後地域の人々に教えていった。このおかげで、苦しい状況であった丹後の人々は救われ、丹後ちりめんは丹後地域全体で作られるようになったのだった。

成功の陰には苦労ありってことで、感動的な話やわ。

西山工場

杉本家住宅の主屋の後ろには明治時代に建てられたちりめん工場が残されている。丹後半島で唯一、現存するちりめん工場となっている

加悦で初めてドイツ製の発動機やスイス製の力織機を導入し、生産性を爆上げさせたらしい。

西山工場

ここはマジで稼働中で、ガチャガチャという機織りの音が聴こえてきた。休日やのにご苦労様です。

ちりめん街道の重伝建地区はここで終わり。

筆者は与謝野駅からここまで自転車で来たが、実は鉄道が通っていた時期があった。最後に加悦鉄道の名残を見て、今回の旅を締めくくろうと思う。

旧加悦鉄道加悦駅舎

旧加悦鉄道加悦駅舎

ちりめん街道のすぐに近くに加悦駅跡が残されていて、今は加悦鉄道の資料館になっている。しかし時間が遅かったので入れなかった。

加悦鉄道の運行区間は丹後山田駅(今の与謝野駅)~大江山鉱山

与謝野は川と街道があり交通に便利な場所であったが、鉄道の時代になると余所よりも不利になっていった。

丹後ちりめんをより早く京都や大阪へ運ぶことが加悦の最重要課題であった。そのため、町の有力者は金を出し合い、1926年(大正15年)、念願の鉄道がやってきた

その後、加悦の南にある大江山でニッケル採掘が始まったことで、路線は大江山鉱山まで延長された。

しかし戦後になり、鉱山は閉山され、モータリゼーションにより自動車やトラック輸送への転換により、1985年(昭和60年)に廃止となった。

駅の横には、加悦鉄道で主力機関車として活躍していた123号機関車と、マッチ箱みたいと言われた木造客車が展示されている。

伊予鉄道の坊っちゃん列車を思い出すな~。

廃線跡はサイクリングロードになっていて、信号はなく、道も迷わず与謝野駅まで連れて行ってくれた。超便利。

鉄道の前面展望を自転車から眺めるという不思議な体験をする事が出来た。

長文でしたが最後までお読みいただきありがとうございました。

与謝野町 全体マップ

与謝野町へのアクセス

公共交通機関🚃🚌
京都丹後鉄道、与謝野駅下車。ちりめん街道へはタクシーで約15分。

車🚗
京都縦貫自動車道「与謝天橋立IC」から約15分

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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