宇治歴史観光2 日本一のブランド茶、宇治茶を生み出した秘密を探る

前回は藤原道長と源氏物語をテーマに宇治を巡ってみた。しかし宇治の魅力はそれだけで終わらない。

むしろ、多くの方にとって宇治と言えば、お茶の町というイメージではないだろうか。

宇治の歴史はそのまま宇治茶の歴史といってもよく、発祥は鎌倉時代まで遡り、時の権力者に愛されてきた高級茶を生みだしてきた

高級緑茶だけでなく、伊右衛門や綾鷹といったペットボトルのヒット商品により、身近なお茶としても親しまれている。

今回は宇治茶をテーマに、日本一のブランド茶を生み出した秘密を町を巡り探って行く。

宇治茶が日本一のブランド茶になった3つのポイント

  • 千年王城・京都との地理的な近さ
  • 多くの宇治茶業者による様々な企業努力
  • 扇状地の高低差を利用して作られた茶畑
目次

京阪宇治駅

京阪宇治駅 改札

宇治にはJR奈良線と京阪宇治線が走っており、今回は京阪でやって来た。

今回は宇治茶をテーマに宇治の町巡りをして行くが、この京阪宇治駅はお茶に関係した駅になっているのだ

京阪宇治駅 コンコース

京阪宇治駅はかなり独特のデザインで、円形をかたどった意匠が至る所にある。

デザインしたのは南海の特急ラピートをデザインした若林広幸氏。

この半円の連続は、宇治の茶畑をイメージしているらしいのだ

京阪宇治駅 コンコース

茶畑は半円が2段、3段と連なっていて、連続するダイナミズムを表現していると氏は述べている。

1996年にグッドデザイン賞を受賞している。

宇治駅に降り立った瞬間から、すでに宇治茶の深淵に入り込まされていたのであった。

今日はとことん宇治茶を探求していくぞー!

お茶と宇治のまち歴史交流館「茶づな」

お茶と宇治のまち歴史交流館「茶づな」

京阪宇治駅の近くにある宇治茶の総合ミュージアム「茶づな」

ここでは宇治茶の歴史が学べ、体験プログラムに参加することも出来る。

まず宇治茶のことを知ってから、その情報を元に町巡りをするという流れで行くことにした。

「茶づな」ミュージアム

シンプルに「茶」と書かれた暖簾。身も心もお茶に捧げる覚悟をした者のみがくぐることを許される。

ポイントを絞って展示の紹介をして行こう。

日本最古の茶園の木

入ってすぐ出迎えてくれるのは、日本最古の茶園、京都の栂尾にある高山寺の茶園の木

日本茶の始まりは、臨済宗の祖として有名な栄西禅師が茶の実と栽培方法を宋から持ち帰り、高山寺の明恵上人に伝ええた時からと言われている。

しかし「日本最古 茶園」でググってみると、高山寺と並んで滋賀県大津市の日吉大社の茶園が日本最古と出てくる。

日吉大社の方は平安時代の最澄が唐から茶の実を持ち帰って植えたとあり、貴族や僧侶の間で飲まれていたらしい。

これは日吉大社の方が分がある気がするが、どうなのだろうか?

お茶の種類

こちらではお茶の種類が説明されている。

不発酵茶である緑茶は覆下園と露天園に分けられる

覆下園は抹茶や玉露など高級茶、露天園は煎茶や番茶などお馴染みのお茶。

その違いは、茶園に覆いをするかしないかとあるが、何のこっちゃよく分からへん。茶畑に覆いなんかあったっけ?

その詳しい説明は進んだ先にあった。

茶の暖簾に引き続き、茶の椅子まであった。この椅子に座ってお茶の解説映像を楽しむ事が出来る。

上に掛かっている幕は室町将軍・足利義満が選んだ宇治の名茶園、義満セレクションベスト7、通称宇治七名園

現在はほとんどが姿を消してしまったが、唯一、奥ノ山茶園のみが残っていて、今もお茶の栽培がされている。あとで見に行ってみる。

覆下栽培

覆下栽培の説明とジオラマがあった。わらで茶畑を覆う作業をしている。

茶摘みの前の一定期間、わらや黒い布で日光を遮光することで、茶葉は光合成が抑られテアニンがカテキンに変化せず、渋みが少なく旨みが濃いお茶になる

またクロロフィル(葉緑素)が多くなり、色は鮮やかな緑色になるとのこと。玉露や抹茶はこの方法で栽培されているとのこと。

この覆下栽培は15世紀の戦国時代に宇治で発明された栽培方法

現在も玉露や抹茶の生産量1位は京都府で、宇治茶に高級茶のイメージがあるのも納得。

露天栽培

こちらは覆いがしておらず、よくある茶畑って感じ。

普段からペットボトル等で親しんでいる緑茶の栽培方法。

茶葉は日光を浴びることで、テアニンがカテキンに変化し、渋みある爽やかな味わいになるのが特徴

お茶にかかわる仕事

茶葉が栽培されてから、一杯のお茶になるまでにかかわる業者。

茶農家が茶葉を栽培し、茶商(卸売り業者)が仕入れた茶葉を組み合わせて商品とし、そのお茶を茶屋(お茶の喫茶店)で提供される。

長い歴史を持つ宇治茶は、業者も長い歴史をもっている。

ミュージアムの紹介はこのくらいにして、次は実際に宇治にある茶屋や茶商を巡って行く。

通圓(つうえん)

通園

宇治橋の東詰にあるのが、ミュージアムでも紹介されていた茶屋、通圓。

創業は驚きの1160年(平安時代後期)で、日本で最も古いお茶屋なのだ

歴史好きにとっても興味深い店で、創業者は源頼政の家臣・古川右内(隠居後は通円政久)という武士

治承の乱(1180年)の時、通円政久は主君の元に馳せ参じ、宇治で平家の軍と戦い討ち死にした。

お茶屋になっても心は武士で、この主従関係は狂言にもなっているとのこと。言わば半茶半士って感じ。

通円政久の後も、代々通円の姓を名乗り宇治橋の橋守を任され、旅人にお茶を提供し続けてきた。

通圓 横から

現在の建物は江戸初期(1672年)に建てられた。

横から見ると屋根の広さが凄い。手前は後で増築したように見えるが、江戸時代からこの形であったみたい。

通圓 店内

商品コーナーはお客さんが多くて撮影できなかったが、長い歴史を物語る品々の展示コーナーがあった。

左上の箱に入っている像は、あの有名な一休さんから貰った初代通円氏の木像であるらしい。

その手前にある釣瓶は、千利休作と言われている

豊臣秀吉が伏見城で茶会を開く際は、10代目と11代目の通円氏はこの釣瓶で宇治川の水を汲み上げ、伏見城へ運んだらしい。

通圓のソフトクリーム

宇治に来るたびに毎回食べている通圓のソフトクリーム。左が抹茶、右がほうじ茶。基本はテイクアウトしているが、、一度だけ店内で食べた。

抹茶ソフトを食べられる店は他にもたくさんあるが、やっぱが立地が素晴らしくて、いつも立ち寄ってしまう。

どっちも美味しいけど、抹茶の方が味が濃くて抹茶を頼むことが多い気がする。知らず知らずのうちに覆下栽培の特徴を味わっていた。

カフェスペース

店舗の隣はカフェスペースになっている。昔は事業主一家の住居になっていたそう。

席からは宇治川が眺められ、間にはちょっとした庭園が設けられている。

次は宇治橋を渡り、宇治のメイン市街地である三角形街区へ移動する。

宇治橋通り お茶屋巡り

宇治橋通り

宇治は元々、平安時代に藤原道長が築いた町で、碁盤目状街区になっていた。しかし藤原家が衰えた後、戦乱で荒廃してしまった。

鎌倉~室町時代には宇治の町民の力で復興し、町を斜めに横断する道(宇治橋通り)が通された。

江戸時代の宇治橋通りには茶師屋敷や町屋が建ち並んでいた。

今も宇治橋通りには伝統ある多くのお茶屋さんが軒を連ねている。

中村藤吉本店

中村藤吉本店

宇治橋通りのお茶屋さんで、特に大きく立派な店構えを持つ中村藤吉本店。〇に十の屋号が印象的。

江戸後期の1854年(安政元年)に初代中村藤吉が、この地に茶商として創業

建物は明治中期に建てられたもので、2009年(平成21年)に宇治の重要文化的景観に選ばれている。

島津家の家紋に似ている屋号は、初代中村藤吉が創業したての頃、丸屋藤吉と名乗っていたことから誕生した。

拝見窓

入口の右横に奇妙な出っ張りがあった。

これは拝見窓といい、茶葉の色味等をチェックするために、上部から太陽光を入れる窓になっている

内部からも見ることが出来るみたいなので、中に入ってみる。

中村藤吉店内

入って右側は店舗になっている。創業時は焙炉場(茶葉を焙煎するところ)になっていたらしい。

入店した瞬間から、お茶の香りが充満していた。

拝見場

拝見窓の場所を拝見場といって、茶葉のチェックをするための器具が置かれていた。茶葉は黒の皿で、お茶は白い茶碗を使用するらしい

拝見窓は光を安定して取り入れるため北側に取り付けられ、光の乱反射を防ぐために板が黒く塗られている。

ここだけ他の場所と明るさの雰囲気が違う感じがする。

元事務所

旧焙炉場を店舗に改修した時、ここは事務所になっていたとのこと。

左奥には江戸時代の商屋でよく見る帳場の柵がある。

入口から左側は座敷になっていて、奥の部屋には仏壇が見える。元々は事業主一家の住居となっていたそう。

中村藤吉 カフェ

入口を真っ直ぐ進んだところには、美しい庭とそれを眺めながらお茶やスイーツの楽しめるカフェがある。

この中庭は創業時からあるらしく、立派なクロマツは2代目の中村藤吉が家業安全を祈って植えられた。

宝来舟松と呼ばれ、樹齢250年を越える中村藤吉の歴史の生き証人。

元製茶工場

カフェは元々、製茶工場で当時の雰囲気を残しつつ改修しているとのこと。天井の木組みが凄い。

いつ行っても、1~2時間待つのは当たり前で、結局、いつも入らず仕舞いで終わってしまう。

ただ待つと言っても、発券システムとQRコードであと何組待ちかが分かる様になっていて、その間は他の観光とか出来るようになっている。

元製茶工場

今まで入れなかったのは、油断して遠くまで行ってしまって、戻れずに順番待ちがキャンセルされたという自業自得のためであった(笑)

こっちの壁は昔の土壁が残されていて、横の扉と言い、昔の工場って感じが伝わってくる。

まるとパフェ

筆者は三度の飯より、地理歴史が好きな変態なので、古い工場を見ただけでお腹一杯になってしまった。

しかし何かは注文しないといけないので、この「まるとパフェ」を注文した。

中の構造が何層にも分かれていて、同じ抹茶味でもゼリーやソフトクリーム、アイスクリームと違う食感で味わえるようになっていた。

あと付いてきたお茶はなんと玉露で、苦さだけでなく甘みとコクがある味わいだった。

視覚と味覚の相乗効果で宇治茶の歴史を味わえて、やっぱ名物は味わった方がいいな。

中村藤吉本店公式ホームページへ

宇治代官所跡

宇治代官所跡に建つ京都銀行

江戸時代の町屋風の京都銀行を発見。

一階の右の窓には格子、一階と二階の間には通りひさし、二階の窓は虫籠窓風と京町家っぽく仕立ててある。

この場所には宇治の代官所があったところで、右の方に石碑が立っている

江戸時代の宇治は江戸幕府の直轄地で、そこを治める代官が置かれていた。

当時の代官所が京町家風だったか分からないが、ここに何かがあったという雰囲気は伝わってくる。

宇治代官所跡石碑

宇治の代官を担当していたのは、宇治の名家「上林家(かんばやしけ)」

上林家は元々、丹波の上林庄の武士で、丹波の赤鬼・赤井直正で有名な赤井家が出自であった。

戦国時代になると、赤井家と上林家の同族争いが激しくなり、上林久重は縁のあった宇治に移り住んだ。

久重の長男・久茂は茶を重要視していた織田信長に仕え、本能寺の変後は豊臣秀吉から宇治の茶園を与えられた。

関ヶ原の戦いの時は東軍に属したが、久重の四男である政重は鳥居元忠と共に伏見城に籠城し討ち死した。

家康は政重の忠節に感動し、上林一族に宇治茶の総支配権を与え、代官を世襲する家柄とした。

現在も宇治橋通りに上林家のお茶屋と歴史ある建物が残っているので、行ってみよう。

上林春松本店

上林春松本店

現在、お茶屋を続けているのは、上林久重の三男・春松家

春松家は宇治の茶師で最高位の御物茶師8家の一家であり、徳島藩蜂須賀家のお抱え茶師でもあった。

御物茶師とは朝廷・幕府の将軍が飲むお茶を調達する茶師のこと。

上林春松と言えばペットボトル緑茶の綾鷹が有名で、筆者的には地元びいきもあるかもしれないが、ここの綾鷹か福寿園の伊右衛門のヘビーユーザーである。

上林一族家系図

ここで上林家の家系図を載せておこう。

上林久重には4人の息子がおり、長男の久茂(久徳)、次男の紹喜(味ト)、三男の秀慶(春松)、四男の政重(竹庵)となっている(カッコは号)

宇治の代官となり、茶頭取として御茶師全体の統括をしていたのが長男の久茂(久徳)家と四男の政重(竹庵)家。次男の紹喜(味ト)家と三男の秀慶(春松)家が御物茶師となった

この中で今もお茶屋を営まれているのは、上林春松家のみ。現在は15代目となっている。

実はもう一家あるのだが、それはまた後で。

長屋門

店舗の横には大きな門がある。これは門の両脇に店舗や住居スペースを設けた横に長い門で、長屋門と呼ばれる

いつ建てられたかは不明だが、瓦にはお得意様であった徳島藩蜂須賀家の家紋が入った瓦があり、300年は経っているとのこと。

江戸時代の宇治橋通りには9軒もの御茶師の屋敷が建ち並んでおり、この様な長屋門が軒を連ねていたらしい。

長屋門 内側から

江戸時代、立ち並んでいた長屋門もここだけとなってしまい、中村藤吉と同じく宇治の重要文化的景観に選ばれている。

幕末には13~14家あった御茶師は明治時代になると、一気にその数を減らした

その理由は明治維新によって主要顧客であった幕府や大名がなくなり、一気に需要を失ったことが要因であった

では何故、上林春松家のみ生き残ることが出来たのか?

主屋

当時の当主・第11代上林春松は顧客の転換のため、茶師から問屋業に転身を図った。

幕府や藩ではなく、一般の消費者にお茶を販売する道を選んだのである。いわゆる新規顧客開拓を上手く成功させたことで、危機を乗り越えた

しかし、多くの御茶師にとって新規顧客開拓は大きなハードルがあった。それは今まで、幕府や藩を相手に取引を行っていたため、一般客を相手に商売することはプライドが許さなかったと言われている。

庭園

フランス革命によってルイ王朝が崩壊し職を失った宮廷料理人が、町に出て一般人相手の店を開いたっていう話と似ている。これも宮廷料理人であったプライドが邪魔をした料理人が沢山いたと思う。

消費者の立場から考えると、お茶屋や料理人の価値って誰を相手にするかではなく、より素晴らしいモノを生み出し、より多くの人に提供できるかの方が重要やと思う。

上林記念館

長屋門は逆L字型になっており、入って右側に長屋門から繋がっている建物がある。2階部分には拝見窓が取り付けられている。。

上林記念館として上林春松家に伝わる歴史遺産や資料が展示されている。残念ながら写真撮影は禁止。

特に印象に残ったのが、伏見城で討ち死にした上林政重の像

伏見城の戦いは関ヶ原の戦い中でもかなり重要度の高い戦いで、守将・鳥居元忠は寡兵ながらも西軍を13日もの間、釘付けにして壮絶な最後を遂げた。

伏見城といえば血天井が有名で、戦いで血糊のついた床板を家康は供養のため、ゆかりの寺院に保存した。

京都にある幾つかの寺で見たことがあったが、まさか上林家の御先祖の血も混じっているとは驚いた。

これからは綾鷹を飲むたびに、伏見城の戦いを思い出してしまって涙が出そうになるわ😢。

上林春松本店公式ホームページへ

お茶のかんばやし

お茶のかんばやし

上林春松本店から10mほど歩いたところに、また上林のお茶屋があった。しかしよく見えるとひらがなで書いてある。

ネットで調べたところによると、上林春松本店の親戚筋の店で、14代目上林春松の時に長男と次男で2店舗に分かれたらしい

上林春松本店が長男、お茶のかんばやしが次男の店。何故別々になったのかはよく分からなかった。

あと何故か、上林春松は創業450年、お茶のかんばやしは創業400年と50年のプランクがあった。

お茶のかんばやし公式ホームページへ

京都宇治辻利

辻利

辻利と言えば、祇園にある抹茶カフェが有名な店。

辻利は1860年(蔓延元年)に辻利右衛門が宇治の茶畑を買い取ったことから始まった。(ちなみに名字は「辻利さん」ではなく「辻」さんである)

ちなみ祇園の辻利は辻利右衛門の弟・徳三郎が台湾で創業した店。敗戦で台湾から引き揚げてきた時、京都の祇園に開業した。

辻利店内

明治になった時、幕府の庇護を失った宇治茶は存亡の危機に立たされていた

これを打開すべく辻利右衛門は玉露の新しい製法を生み出し、緑茶の中で最高品質としての地位を獲得した

これにより宇治茶の名声は高まり、ブランド茶としての地位が確立された。

辻利右衛門はもう一つ重要な発明をしている。商品の下には茶商の代名詞、茶箱が置いてある

利右衛門はこの茶箱の中にブリキを張り付けることを発明し、防湿と運搬がより便利になり、お茶の販路を拡大することに成功した。

その後は全国の茶商がこれを利用するようになり、宇治茶の名声は日本全国に響き渡った。

歴史を学んで一番、テンションが上がる瞬間が、今当たり前にあるものに紆余曲折の歴史があったことを知った時である。

もし、辻利右衛門が新しい玉露や茶箱を発明していなければ、宇治茶は衰えたままだったかもしれない。

平等院参道 お茶屋巡り

平等院参道

宇治橋通りを宇治橋手前で右折して平等院参道へ入る。この道は平安時代から平等院の参道として賑わってきた。

こちらにはお茶屋だけでなく、歴史ある様々なお店が今も並んでいる。

菊屋萬碧楼

中村藤吉 平等院店

平等院参道にも中村藤吉の店舗が。

暖簾だけ手前にあって、店が庭を通った奥にあるという料亭の様な作りになっている。

菊屋萬碧楼

中村藤吉平等院店は、江戸時代の豪商・菊屋久左衛門の別邸として1809年(文化6年)に建てられた

1818年に旅館・菊屋萬碧楼となり、多くの文人、財界人が宿泊した。

どうりでお茶屋っぽくない作りでないわけである。

2006年(平成18年)に中村藤吉が菊屋萬碧楼を改修し、平等院店として開店。

本店と同じく、旧菊屋萬碧楼も宇治の重要文化的景観に選ばれている。

店内

広い木の階段が、いかにも昔の旅館という感じがする。

思わず、手前の段差で靴を脱いで上がるのかと思ってしまった。

店内

宇治川沿いに建っており、宇治川の流れと宇治山が眺められる。

ちなみに隣の中村藤吉マークがある白の覆いは、覆下栽培の白バージョンではなくて、改装工事中で新しい店舗が出来るらしい。いつ出来るかは…、訊きそびれてしまった😢

能登椽 稲房安兼

能登椽 稲房安兼

お茶と言えば、和菓子がつきもの。

能登椽 稲房安兼は1717年(享保2年)創業の和菓子屋さん

江戸時代は別のところに店があり、明治時代にこちらに移って来られたらしい。

建物は平等院参道の中の町屋でも特に古い家屋で、宇治の重要文化的景観に指定されている。

店内

店内には更に古そうな雰囲気が。ここが本来の店先で表のは増築したのではないかと思う。

名物、喜撰糖は御室御所(現在の仁和寺)に昔から納めており、「椽」の使用を許され店名としたらしい。「椽」とは宮家から職人に与えられる名誉ある称号

茶団子も名物らしく、値段も手ごろだったので購入した。

モチモチした食感で、噛むほどにお茶と甘みが感じられた。量もそこそこ多い上に、お手頃価格で言うことなし。

能登椽 稲房安兼 公式ホームページへ

三星園 上林三入本店 

三星園 上林三入本店

二度あることは三度ある。三たび、上林のお茶屋を発見

ここの上林が一番謎で、春秋家の弟さんの店「お茶のかんばやし」のお話しでは、「三入さんは勝手に上林を名乗っているだけで、名前も田中さんですよ」と仰っていた

一体どういう事だってばよ?

三星園 展示室

店の2階は歴代の品々の展示室になっていた。ここに謎の答えがあるかもしれない。

上林家系図

上林春松家で紹介した家系図は実は三入家にあったもの。三入家は春松家以外で唯一残っている店。

上林三入家は元々は上林家ではなくて、宇治郷の藤村っていう家だった。その藤村家に初代三入(旧姓・今西さん)が養子に入った時から、三入家のお茶屋としての歴史が始まった。創業は天正年間で約450年の歴史がある

上林家は元々、丹波にいた家系で宇治では新参者だったが、信長、秀吉、家康の三人の天下人に重要視され宇治での地位を固めていった。

そんな中、藤村三入家も上林春松家と同じく御物御茶師として認められ、上林の名を名乗る様になった。三代目の時には上林竹庵家からから妻を娶り、名実ともに上林の一員となったのである

江戸時代の茶壺

ただ現在は三入家ではなく、大正時代に経営が危ぶまれた時に、店の権利を譲られた田中さんが経営されているらしい

「お茶のかんばやし」さんが三入さんは上林と違うと言っていた理由が分かった。

個人的には店や会社は血縁よりも能力の方が大切だと思うので、他人が継ぐことに違和感は感じない。

ただ日本人的には血縁で相続している方が歴史的なロマンを感じてしまう。

御茶壺道中

大名行列のジオラマがあった。お茶と何の関係があるのかと思ったら、駕籠に乗っているのはお殿様ではなく、宇治茶が詰まった茶壺なのだ

徳川将軍家に献上するお茶を運ぶ行列で、御三家以上に権威があり、道中ではお茶に対して土下座しなければいけなかった。

総責任者を務めていたのは御物御茶師に選ばれた上林家。上林家の卓越した政治力が宇治茶ブランド確立の要因のひとつであった

次は地理的なポイントから宇治茶を見ていこうと思う。宇治は宇治川の扇状地に出来た町だが、宇治川よりも重要な川がある。それを見に行く。

折居川暗渠

宇治橋通りを南西に進み、本町通との合流地点から少し進んだところの交差点にやって来た。

ここ道の分岐が三角形のデルタ線みたいになっている。左の道と右の道に高低差が生じている。

この先はどうなっているかというと、

左の車線は左へ急カーブし、右の道は真っすぐ下へ下っている。

かつてはここに折居川が流れており、今は道の下に暗渠になっている

元々、折居川は右の道の様に真っすぐ流れていたが、よく洪水を起こして茶畑にとって悩みの種であった。

そこで戦国時代くらいに今の左へ急カーブする車線のルートに流路変更されたのである。

しかし徐々に堤防が上がっていき、天井川になってしまったため、水害対策で暗渠となった。

宇治郷総絵図

上林三入本店にあった宇治郷総絵図。1700年代前半に描かれた。

地図の左下に折居川が描かれており、今の左へ急カーブする道のルートと全く同じ経路になっている。

宇治川だけでなく折居川も扇状地を作っており、折居川の扇状地に数多くの茶畑が広がっていた

水はけや風通しが良い扇状地は、茶畑の最適地なのである

折居川暗渠を進んでみると、いかにも昔、川だったように蛇行しながら伸びている。

西側の段差
東側の段さ

両側ともに低くなっており、地形がこの道が天井川であったことを物語っている

次は実際に茶畑を見に行ってみる。市街地化され茶畑が少なくなった今でも、歴史ある茶畑が現存している。

宇治の茶畑

寺川茶園の土蔵と茶畑

本町通を少し東へ進んだところにある茶畑。かつては宇治の町中にこの様な茶畑と土蔵がある風景が広がっていた。

しかし宇治の市街地化によって、町中にあった茶畑は少しずつ姿を消していった。そんな中、宇治の三角形街区で唯一残っているのがこの茶畑

土蔵も江戸時代から残っており、宇治で一番古い茶工場とのこと。

堀井七茗園

堀井七茗園

本町通を更に進むと縣神社が見えてくる。その向かいにあるのが堀井七茗園

創業1879年(明治12年)の堀井七茗園は、茶づなミュージアムで紹介していた足利義満が選んだ七名園の一つ「奥ノ山茶園」を今に受け継いでいるお茶屋さん

堀井七茗園 工場

宇治では折居川の地形を利用し、河岸段丘上の山手と扇状地の低地のどちらにも茶畑が作られていた

土壌によってお茶の味に違いが出るようで、山手では香りの高いお茶、低地では味の濃い茶が生まれるらしい。

堀井七茗園では、他のお茶農家からもお茶を仕入れており、複数のお茶をブレンドしてオリジナルのお茶を作り出している。

ブレンドが茶師の腕の見せ所で、気候や栽培地、生産者によって変わる微妙なお茶の味を見分けて、いつでも同じ品質を保ち続けているのである

堀井七茗園 公式ホームページへ

奥ノ山茶園

次は奥ノ山茶園へ向かう。堀井七茗園の向かいの縣神社から南へ坂を登り、住宅地の中を進んで行く。

本当にこんなに住宅地の中にあるのかと、疑いながら先を見ると突然、家並みが途切れ茶畑が広がっていた。

奥ノ山茶園

古そうな石碑が建てられており、歴史の長さを感じさせる。住宅地の中だが、結構広い敷地が維持されていた。

覆下栽培の代名詞、黒いシートがいつでもかけられる様に備えられている。

覆われた状態も見たかったが、やはり歴史ある茶畑そのものが見たかったのでラッキーというところ。

誰の茶園か分からなかったが、近くに覆われ中の茶畑を発見。

上だけでなく側面も覆い、完全に遮光されている。知らんかったらこれを茶畑と認識出来なかったと思う。

最後に宇治の扇状地を見渡せる場所に行って、今回の宇治茶巡りを締めようと思う。

ここは奥ノ山茶園から少し東へ進んだところの路地を入ったところ。

前方に見えている鳥居と森は縣神社。縣神社の標高は約23m、この場所は約41mといきなり高くなっている。

ちなみに奥ノ山茶園の標高は約52m。

ここは奥ノ山茶園から更に坂を登り、折居台第三児童公園の近く。標高は約72mまで上がってきた。

折居川は暗渠となって見えなくなってしまったが、地名と段丘は残されている。

宇治茶ブランドとは扇状地と段丘を併せ持つ地形的要因、かつての首都であった京都との地理的近さ、宇治のお茶業者の企業努力に支えられたものであった

長文でしたが最後までお読みいただきありがとうございました。

宇治茶巡り Googleマップ

左上の旅猫の左の→をクリックしますと、番号に対応した歴史スポットが表示されます。散策の際はご活用いただければ幸いです。

宇治へのアクセス

公共交通機関🚃🚌
JR奈良線で宇治駅下車。京阪宇治線で京阪宇治駅下車。

車🚗
京滋バイパス「宇治東IC」「宇治西IC」から約5分。

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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