新開地・湊川歴史観光 かつて神戸一の繫華街、新開地・湊川の栄枯盛衰の歴史を辿る

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湊川公園

楠木正成像

新開地商店街を出ると湊川公園のシンボル、楠公さんの愛称で親しまれている楠木正成像が出迎えてくれる。ここ湊川は1336年、北朝方足利尊氏と南朝方楠木正成との間で起こった湊川の戦いがあり、正成が戦死した場所である。

戦いに至った過程を事の発端から簡単に説明
湊川の戦いより約70年前、後嵯峨天皇には2人の皇子がいたが、後継者を決めずに亡くなってしまう。そこで鎌倉幕府が出した調停案により2つの系統(兄:持明院統と弟:大覚寺統)が交互に皇位をつくことになる。

しかし大覚寺統に後醍醐天皇という天皇史上最も非日本人的な人物が出現し、鎌倉幕府を滅亡させ大覚寺統で一本化させようとしたところが後醍醐天皇の建武の新政は2年半で破綻し、それを機と見た持明院統の光厳天皇は後に室町幕府の創始者となる足利尊氏と手を組んだ。

ここから大覚寺統(南朝)と持明院統(北朝)が争う南北朝時代に突入する。この湊川の戦いはその南北朝の間で起こった一つである。両軍は湊川を挟み対峙するこの戦いは当初から南朝が劣勢であり、南朝の天才軍師、楠木正成は戦死してしまう。結果、北朝の勝利で終わりその優位性が決定的なものになった。

この辺りには楠木正成の痕跡が他にもあり、地名に楠町、菊水町(家紋)、多聞通(幼名の多聞丸から)等や楠木正成を祀った湊川神社がある。

湊川公園広場

湊川公園は湊川付け替え工事により生じた空き地に、1911年(明治44年)に設置された公園だ。新開地商店街から湊川公園に入った時点では何の変哲もない公園に見えるが、公園の左右を見てみるとかなり高い位置にあることが分かる。

この公園の場所が旧湊川の本来の流域で、当時はこの高さの位置に川が流れていた。そこを埋め立てて公園にしたため、周りの地勢より高くなっているという非常に珍しい公園となっている。

公園の下を道路が通っており、バスやトラックも余裕で通れそうな程の高さがある。

旧湊川の石碑と聖徳太子の馬

湊川公園には楠木正成像の他に、旧湊川の碑と騎手のいない馬の銅像がある。元々この馬には聖徳太子が乗っていたのだが、1995年(平成7年)の阪神淡路大震災で太子が落馬してしまい、再び乗せられる事なく馬だけになってしまったらしい。

なぜ湊川公園に聖徳太子像があったかというと、太子が法隆寺を建立した際このあたりが法隆寺の寺領であり、明治時代に聖徳太子の人気が高まったことで1921年(大正10年)に銅像が完成したこのこと。

神戸電鉄 湊川駅

公園の真下には神戸電鉄の湊川駅がある。かつては神戸電鉄の終着ターミナルであり、神戸市電と接続する交通の要所として栄えた。

しかし1968年(昭和43年)、神戸高速鉄道が開通し神戸電鉄の全列車は新開地発着となり、1971年(昭和46年)には神戸市電が廃止されたことでターミナル駅の役割を終えた。かつての神戸一の繫華街の最寄り駅であった頃を思わせるレトロな雰囲気がここも残っている。

湊川公園西側

公園の西側の通り「湊町線」も神鉄湊川駅から北へ行くと、坂になってる。階段の上が湊川公園だ。

公園の東側もかなりの高低差が見て取れる。その高低差を有効活用し、右側の不思議なところに商店街が口を開けている

ミナエン商店街

湊川公園西側

ミナエン商店街は天井川の地下部分を利用して造られており、新開地商店街以上に完全に昭和レトロな雰囲気が残っている商店街だ。先ほど紹介しましたパルシネマしんこうえんはここを入ってすぐ右側にある。

他の店も昭和感全開の純喫茶、居酒屋やスナックが立ち並び夜になればお店は盛況で、あちこちで昭和歌謡の歌声が聞こえてきた。これこそがB級の神戸の神髄と感じる。

昭和感あふれる喫茶店「光線」

昭和レトロな喫茶店「光線」の周りを照らす蛍光灯はむき出しのままで、昭和の光線が眩いばかりだ。

ミナエンタウンマップ

天井川の地勢を利用して地下と地上3階構造になっている。いつの間にかミナエン商店街からミナエンタウンに入っていたようだ。

このマップはミナエンタウンの一部で、マップ外のミナエン商店街や駐車場、地下鉄湊川公園駅・神鉄湊川駅、湊川公園とつながっており、複雑なダンジョンに迷い込んだ様だった。

階段の配置も独特で、右の通路奥にも扉があるが、どこにつながっているか確かめるには少し勇気がいる。自動生成ダンジョンになっていたら、同じフロアに戻ってくることは難しい。

ミナエンタウン入口

ミナエン商店街の入口はどこも不思議なところにある。こちらはミナエンタウンとなっておりミナエン商店街との違いがよく分からなかった。一回の探索で完全にクリアすることは非常に困難である。

神戸タワー(新開地タワー)跡

湊川公園 時計塔

港町神戸のランドマークタワーと言えば多くの人は神戸ポートタワーを思い浮かべると思う。しかし約60年前、この湊川公園には浅草の凌雲閣、大阪の通天閣と並ぶ日本三大望楼の一つ「神戸タワー(新開地タワー)」がそびえ立っていた。

1924年(大正13年)の建設当時は東洋一と称され、90mの高さからは遠く紀淡海峡(和歌山と淡路島に挟まれた海峡)を見渡すことが出来た様だ。

しかし徐々に老朽化が目立ち、また1963年(昭和38年)には神戸港に新しい神戸のシンボルタワー「神戸ポートタワー」が完成した。その5年後の1968年(昭和43年)、世代交代するかの様に新開地タワーは取り壊された跡地には写真のカリヨン時計塔が建っている。

当時の神戸タワー

これは時計台の下部にある当時の新開地タワーの拡大写真洋風の雰囲気を持つ大正ロマン溢れるデザインで新開地も神戸の異国情緒を担っていた時代があったという事が感じ取れる。

ところが開業して数年後には経営が芳しくなくなり、タワーの壁面には電飾広告が取り付けられるようになったそうだ。戦時中は空襲によって街は焼けたがタワーは奇跡的に焼失を免れた。

しかし廃墟と化し復興も遅れた新開地にタワーを修繕する力はなく、元々持て余し気味だったこともあり取り壊しとなった、

神戸新鮮市場

湊川公園東側にあるみなとがわ商店街

公園の周りには神戸の台所として親しまれ、約400店ものお店が並ぶ神戸最大規模の市場、神戸新鮮市場がある。2つの市場と2つの商店街から構成されている。前身は1918年(大正17年)、神戸初の公設市場として開業した湊川公設市場で100年以上の間、神戸市民の胃袋を支えてきた。

みなとがわ商店街(左側)とみなとがわパークタウン(右側)

この商店街群も非常に複雑な構造をしており、まるで迷路の様になっている。右側のみなとがわパークタウンは店内が通路で繋がっており(下の案内図参照)、路面店が少ないと言う特徴がある。

みなとがわパークタウンの案内図

みなとがわパークタウンは3階建てとなっており、3階にあたる公園と階段で繋がっている。

みなとがわパークタウンの店内

店内は服飾店が数多く入っており、写真のフロアは手作り手仕事にこだわった店が集まるエリアで「Otonari」というお洒落エリアもある。

公式ホームページ→神戸の台所 湊川市場

みなとがわ商店街の高低差

商店街を北へ歩くと写真の急坂に出くわす、この急坂で公園の高さまで上がり公園の北にある東山商店街に繋がっている。

写真は東山商店街の北出口。左の道が下っていることがわかると思う。

上の写真の左の道を下った先。正面には数メートルの段差の上に家がある。

直進した先も段差は続いており、高低差を利用し一階が駐車スペースになっている家もある。段差の上が天井川の土手だったことが、地形から読み取れる。

一見ただの住宅地でも過去の情報と今に残されている形跡をつなぎ合わせると、想像力は刺激され動画を逆再生する様に、地形が変化する前の風景が目の前に蘇ってくる。

過去の記憶は文献や口伝によって未来に伝えられ、そのフィールドにはその時の気配や匂いが残っている。それらは人間に時空を超える想像力を与え、それを自ら意識出来ることが人が人である証だと思う。

旧土手に戻り東山商店街の北出口から、道なりに歩くと現在の湊川にようやくお目にかかれる。この地点が旧湊川と新湊川の分岐点で、ここを左へ逸れて、東山商店街へ至る道が旧湊川の流域となっていた。

この付近でも湊川の両サイドの道はその周りより若干高くなっている。基本的に天井川は山裾あたりでは発生しないので、北へ行くにつれて段差は少なくなっている。

次は新湊川に沿って下流へ歩いて行き、今回の最終目的地「湊川隧道」を見に行く。

湊川隧道

湊川隧道

新湊川沿いを西へ進むと東山商店街とマルシン市場の入り口が見えてくる。川沿いに続くマルシン市場を抜け、更に西に進むと会下山という山にあたる。

湊川付け替え工事で最大の問題が会下山付近の流域経路だった。当初は会下山の南側を通す予定だったが、地域住民の反対により、会下山にトンネルを掘り更に西に向かい長田神社の南で苅藻川に合流する経路に修正された。

しかしそれは当時の日本にとって初めて河川トンネル建造だった。当時は重機等がなく、すべてトロッコ、ノミ、つるはしやカンナを使い人力で行われた。3年9ヶ月に及ぶ大工事の末、1901年(明治34年)8月に完成した。、400万個以上のレンガが使用され、構造には様々な工夫が施されている。

しかし1995年(平成7年)1月17日に発生した阪神淡路大震災によって、隧道は大きな被害を受けた。復旧にあたってはトンネル断面積を広げ安全性を高めるため、新湊川トンネルの建設が行われた。2000年(平成12年)12月、新湊川トンネルの完成によって湊川隧道はその役目を終えた(一部共有している部分もある)。

湊川隧道の内部

湊川隧道の内部。奥のほうに当時のままのレンガ積みが保存されている。隧道内部は見学が可能で、ミニコンサートなどのイベントが開催されている。

写真は入口付近で湊川隧道に関するパネルなどが展示されている。右にある額は、隧道建設の記念碑で吞口部に「湊川」、吐口部に「天長地久」が懸けられていた。

湊川隧道の一般公開は毎月第3土曜の13:00~15:00となっており、観覧料は無料。

詳しくは湊川隧道公式サイト

新湊川トンネルの吞口部

こっちは新湊川トンネルの吞口部。坑口上部には湊川隧道開通時と同じく「湊川」の文字が刻まれている。

トンネルの上のやや左に少し見えている赤いレンガが旧湊川隧道。

新旧のトンネルが上下にあるのが不思議な感じ。

新湊川トンネルの吐口部

こっちが吐口部。吐口部あたりは被害が少なかったため、旧隧道を拡大して建設している。そのため当時のものは残されていない。

しかし先人の偉業を後世に伝えるため、明治の完成時と同じデザインで建設されており天長地久の文字が刻まれ当時を偲ばせる。

新湊川トンネルの吐口部から西側

新湊川トンネル抜けて流れる湊川。いかにも人工的な造った川と言う感じ。

以前の天井川が想像できないくらい、川は低い位置を流れている。人工河川でここまで低いのは、見たことがない気がする。

もう二度と洪水を起こさせないと言う決意を感じさせ。一見何でもない川が、神戸の発展に大きな影響を与えていたのであった。

新開地・湊川 Googleマップ

左上の旅猫の左の→をクリックしますと、番号に対応した歴史スポットが表示されます。散策の際はご活用いただければ幸いです。

湊川、新開地へのアクセス

鉄道🚃 阪急又は阪神三宮駅から新開地駅下車。地下鉄西神・山手線三宮駅から湊川公園駅下車。徒歩約5分   
    JR 神戸駅からBIGMANゲートへは徒歩約6分

🚙  阪神高速3号神戸線、湊川JCTからは3.5㎞。京橋出口からは9㎞。

長文でしたが最後までお読みいただきありがとうございました!

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新開地 楠木正成像 湊川隧道

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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