新開地・湊川歴史観光 かつて神戸一の繫華街、新開地・湊川の栄枯盛衰の歴史を辿る

新開地 楠木正成像 湊川隧道

神戸の街は、奈良時代に作られた兵庫津(大輪田泊)が始まりで、港町として発展を続けてきた。

時は経ち幕末、兵庫津が海外貿易港として開港することとなってたが、兵庫津は既に人口密集地となっており、新しい港湾施設を建設する土地がなく、住民にとっても外国人の出入りに忌避感があった。また水深の問題もあり東へ3キロの神戸村が開港地に選ばれ、1868年(慶応3年)に神戸港が開港した。

兵庫津と神戸の間には天井川である旧湊川が流れており、二つの街の障壁の様になっていた当初は兵庫津に住む日本人と神戸に住む外国人との間に無用の衝突を避けるための壁として機能していたが、街が発展するにつれて二つの街を分かつ湊川は、交通や流通の大きな障害となっていた。また天井川のため、一度水害が起こると甚大な被害をもらした。

1896年(明治29年)、台風によって水量が増した湊川は堤防が100mにわたり決壊し、死者数百名、浸水8000戸と言う大水害が発生したそこでかつてからあった湊川付け替え工事の具体化が進み、1901年(明治34年)に竣工した。これにより兵庫と神戸は一つの街となり、旧湊川跡には新しい街が出来、新開地と名付けられた

今回は旧湊川を下流から上流へたどりながら、昭和レトロな雰囲気が魅力となっている新開地や独特な地形になっている湊川公園などの歴史スポットを紹介していく

新開地・湊川の魅力、3つのおススメポイント

  • 下町の雰囲気を持つサブカルな街
    「新開地商店街」
  • 何故か周りの地形より高い場所にある
    不思議な公園「湊川公園」
  • 関西三大商店街の一つ
    「神戸新鮮市場」
目次

新開地商店街

BIG MANゲート 真ん中の空間に人が描かれている

山陽本線神戸駅から西国街道を南へ行き新開地本通りを曲がると新開地商店街南側の入り口、チャップリンの姿をイメージしたシンボルゲートBIG MANが見えてくる。

ここから湊川公園まで新開地と言ういかにも新しく作られた名前の商店街が続いている。神戸高速新開地駅がある多聞通まではアーケードがない区間でスカイゲートと呼ばれている。

新開地商店街は名前に反してそこまで新しい商店街ではなく、明治時代に形成されたむしろ歴史のある商店街だ。それ以前はここには湊川が流れており、河川付け替え工事により1905年(明治38年)、旧湊川は埋め立てられた。

その跡地に芝居小屋や活動写真小屋(映画館の古称)が立ち並び、しく発された土新開地」と呼ばれる一大歓楽街が出来た。元々、神戸の劇場施設等は湊川神社や元町周辺に点在しており、それらが1907年(明治40年)頃から徐々に新開地に集まってきた。

全盛期には24館の劇場、202軒の商店が立ち並びその賑わいは「東の浅草、西の新開地」と呼ばれ西日本最大の娯楽のメッカとなった映画評論家の故・淀川長治はこの街で生まれ毎日の様に映画を見て育ち、新開地を神戸文化の噴水と称した。正に新開地が彼を日本を代表する映画評論家へと育て上げたと言える。

大正時代には川崎造船所の従業員や新開地の近くにある福原遊郭で働く女性たちの多くが新開地に立ち寄り、更に昭和には神戸市役所、新聞社、映画会社などが隣接して今の三宮の様な歓楽街と行政施設とオフィスが集まった街となり、新開地は最盛期を迎えた。

しかし戦後の高度経済成長期には新開地は衰退の一途を辿るそれは主に次の4つの要因である。

  • テレビの普及により映画が娯楽の主役から転落したこと。
  • 行政組織の拡大により市役所が手狭なってきたため、広い敷地が確保可能であった三宮に移転したこと。
  • 阪急、阪神、山陽、神鉄をつなぐ神戸高速鉄道が開通に伴い市電を廃止し地上で乗り越えする必要がなくなったこと。
  • 戦後の復興が元町・三宮より遅れたこと。

この結果、神戸最大の繫華街の地位は新開地から元町・三宮に移ることになった。そこからの新開地は繫華街どころか「怖い、汚い、暗い=3Kエリアと呼ばれ行く事が憚られる場所にまで転落してしまった。

平成となり衰退する一方であった新開地の再生を掲げ、地元住民が立ち上がった。「アート」「遊び」「都市居住」の3本柱を軸に活動を開始した。リニューアルには10年もの時間がかったが、新開地は新しく生まれ変わり「B面の神戸というのを新たなアピールポイントとした。

B面というのは、レコードやシングルCDでメイン曲のA面、カップリング曲のB面からきており、神戸のメイン繫華街となったA面の三宮、元町に対していい意味で昭和っぽい庶民派の商業地であるB面の新開地。

あえてB面に徹した事は成功を収め、神戸唯一の寄席や昔ながらの映画館がある一方で再開発で新しく建設された商業施設もあり、古さと新しさを兼ね備えた魅力を持つ商店街となった。新開地こそが真の「BE KOBE!」

新開地に今も残る劇場、映画館

新開地劇場

新開地新劇場は1946年(昭和21年)11月に誕生し、現在も営業している歴史のある劇場だ。阪神淡路大震災の被災を乗り越え新しい姿に生まれ変った。現在は月替わりで全国の劇団がお芝居や歌謡ショーなどを毎日公演している。公式ホームページ→https://www.shinkaichigekijou.com/

Cinema KOBE
パルシネマ しんこうえん

今も新開地で生き残っている数少ない映画館。その中でも、全国的にも数えるほどとなった「名画座」が2館残っている。名画座とは主に古い作品を2本か3本立てで上映する映画館のこと。

自分でDVDを借りる時は、古い作品というのは取っ掛かりがないと手が出しづらいが、名画座で映画のプロが選んだ作品なら安心して見られる、そんな風に感じるのは筆者だけではないと思う。昔の名画を未来に受け継ぐためにも名画座が残っていって欲しいものである。

Cinema KOBE公式ホームページへ

パルシネマ しんこうえん公式ホームページへ

地図

左上の旅猫の左の→をクリックしますと、番号に対応した歴史スポットが表示されます。

新開地商店街 多聞通側

商店街は多聞通から北はアーケード街となり湊川公園まで続いている。そこを歩いていると北へ向けて坂になっていることに気付くと思う。これは元々、天井川だったのを周りの高さに合わせるため土砂を除去したため出来た坂である。

新開地商店街 湊川公園側

湊川公園から完全に高さをなくし急坂にするのではなく、緩やかに下ってくることで商店街を形成することが可能となった。

新開地商店街東側の道から商店街を見上げる

新開地商店街東側の道を多聞通から暫く北に歩くと、かなりの段差が生じていることが分かる。以前はこの上に湊川が流れていた当時の写真を見つけることは出来なかったのだが、建物がなく緑が生い茂った石垣となっている姿を見ると、往時の雰囲気が蘇ってきそうだ。

ここで天井川の発生過程を説明しておこう。
山の勾配がきつく流れが速い川には上流から多くの土砂を運んでくるその土砂は流れがなだらかになった中流から下流に堆積していく。堆積物は川の土手や川底に溜まり、川底が上昇していくそうなると川が氾濫しやすくなるため、堤防を高くする必要がある

しかし堤防を高くすると今まで外に流れていた土砂もすべて川底に堆積し更に川底が上昇するため堤防も更に高くするこの循環によって川は徐々に高い位置に流れるようになるわけだ。

特に神戸から西宮のエリアは山から海が近く川が急流になり天井川が出来やすい地形になっている。またこれは関西全体に言えることだが、関西地方は古来から日本中心で人口が多く、燃料のために大量の材木を切り出していた。

そのため、木材から石炭へエネルギー革命が起きる明治初期まで関西は禿山だらけになっていた。木々を失った山は保水能力を失うため土砂が流出しやすくなる。そのため、天井川は関西に非常に多く見られる。ちなみに天井川の本数1位は滋賀県である。

新開地の情報サイト→新開地ファンへ

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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