志摩波切歴史観光 「日本のカスバ」と呼ばれる石工と迷路の町、大王町波切を散策する

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波切の町並み2

再び町を歩き、もれがない様にマッピングの続きをしよう。

建物は土地の勾配に合わせた石垣の上に建っている。階段はそこを縫うように上っていく。

階段を上って振り返ると、路地の隙間から海が見える。

アルジェリアの世界遺産「アルジェのカスバ」の様に、急勾配の細い階段に曲がりくねった細い路地が所狭しと張り巡らされている。

行ったことはないが。

このY字の分岐路で片方の道が登っている感じは、カスバにそっくり。

ただ行ったことはない。

町を散策していて気付いたのが、昔ながらの木造建築がほとんどないことである。おそらく台風の通り道であるため、コンクリート造りにしているのだと思う。

町中では何度も地元の人とすれ違った。木の手入れをする植木職人、配達中の郵便局員、道端で会話する主婦たち。

波切がカスバに似てようがいまいが、地元の人にとっては日常の生活空間なのである。

そんなことを歩きながら考えて、景色を見ていると感動して涙があふれてきた。

長い歴史で経験してきた自然環境にあった町並みや暮らしが表現されていて、そこにたまらないほどの美しさを感じた。

伝統は時代により変化するが、それがその土地の風土や文化に合わせた最適解であればあるほどその町の魅力となり、旅に行ってみたくなる。

しかしそれが最適解であるかどうかはすぐには分からない。

何十年も経ち余分なものがそぎ落とされ、残ったものが本物の伝統となっていく。

かつおの天ぱく(鰹いぶし小屋)

毎年4、5月になると近くを流れる黒潮を大量の初鰹が北上する。波切ではかなり近くまで鰹がやってくるため古くから鰹漁が盛んであった。

波切では奈良時代から鰹節が作られており、江戸時代の鰹節ランキングでは別格の行司に選ばれていた

かつおの天ぱくは全国で10軒程度しか残っていない江戸時代の製法で、鰹節を作り続けるお店。

この店では鰹節加工作業の見学が出来るとのことで、波切を訪れる楽しみの一つであったが、予約制の上、そもそも日曜日は定休日だった。

見学はともかく購入することも出来ないとは…。相変わらず事前チェックの甘さが出てしまった。

かつおの天ぱく 公式ホームページへ

堂の山薬師堂(波切薬師堂)

この寺には波切を象徴する出来事にまつわるお地蔵様がまつられている。

汗かき地蔵

そのむかし、波切の漁師・惣左衛門が漁に出た時、何度捨てても網にかかってきた石で、持ち帰り絡みついていた海藻や貝殻を取ると地蔵の形をしていたもの。

それを祠に祀ると、波切に大漁や豊作があると白い汗をかき、不漁や不作、難破があると黒い汗をかく様になったことから汗かき地蔵と名付けられた。

今では惣左衛門が網から引き揚げた2月24日に汗かき地蔵祭が開催され海上安全、大漁満足などを祈願している。

代苦堂

志摩半島の自然は良い時は大漁をもたらすが、一たび荒れると牙を剥くように襲い掛かってくる。

汗かき地蔵の言い伝えは、そんな志摩半島の自然の両極端な面を表しているのではないだろうか

下のお地蔵さまは特に波切ならではの逸話を持っている。

思案地蔵

小首をかしげた愛嬌のある姿しているが、波切にかつてあった悲劇を象徴しているお地蔵様なのだ。

波切は昔から、船の難所で航海者から「伊勢の神崎、国崎の鎧、波切大王なけりゃよい」といわれ、船の難破が絶えなかった。

1830年(天保元年)9月23日、波切の沖で幕府の御城米を運ぶ千石船が難破し、乗組員が小舟で波切の浜に漂着した。

その翌日、漁に出た漁師が沈んたと思っていた難破船を偶然に発見し、沈みかかっている積荷の米を回収して持ち帰り、波切は思わぬお宝にフィーバーした。

その後、役人が難破船の調査に入ることになったが、波切の人々はその役人を盗賊と間違えて殺害してしまう

数日後、幕府に発覚し500名にのぼる村人が拷問をうけ、14名が命を落とした。

思案地蔵

このお地蔵様はこの事件で亡くなった人々の供養のために建てられ、台座には14名の戒名が刻まれている。

この事件には当時の波切の人々にとって、役人殺害がバレてもどうしても隠したかったことがあった。

それは難破船を発見したのは本当に偶然か?ということである。

思案地蔵 解説

波切大王埼は海の難所であり、昔から難破の多い海域であった。大王埼沖で船が難破するたびに波切の人はかりだされ船と乗員の救助にあたっていた。

これは波切にとって完全なボランティアであり何の益もなかった。少しくらい役得が欲しいと思うのも人情である。

難破船に残され、船と共に沈んでいく積み荷。海の藻屑と化すくらいなら、自分たちがもらってもバチは当たらない、人々はそう考えるようになった

嵐が吹きすさぶ時、船が大王埼沖で難破するのを待ち構える。沈没寸前の船に漕ぎ着け乗員を救助し、荷物はかっさらってしまう。あとは役所に乗員は無事だったが、荷物は船ごと沈んだと届け出をするだけである。

これが波切の人々にとって暗黙の了解になっており、海産物と同じく海の恵みとして享受してきたといわれている。

この話を聞いて筆者は、土地の特色を最大限生かしている波切が一層好きになった。

波切神社

波切漁港

波切神社は向こうの高台にあり、その手前には波切漁港がある。

丁度、高台と高台の間にベストな立地にある波切漁港。

大正から昭和初期にかけて、大規模な修築工事があり今の波切漁港が完成した。

この時、波切の石工が活躍しその名が知られるようになった。

波切神社 鳥居

境内にはヤシの木があって、緯度的にそんなに南でもないのに南国的な雰囲気。

拝殿
社殿

鳥居、拝殿、社殿は真っ白のコンクリートで作られている。昔は木造だったそうだが、台風があまりに多い地域の為、コンクリート造りに建て替えられた

よく見ると伊勢神宮と同じ神明造で、それがコンクリート製って面白い。最新の技術を使いつつ伝統を重んじているのがいい感じ。

波切神社のお祭り、わらじ祭り

ダイダラ法師(もののけ姫ではダイダラボッチ)が海で暴れ回っていたので、法師より大きなわらじを編んで海に浮かべた。

法師は自分より大きな巨人がいると思い悪さをすることがなくなったとのこと。

ダイダラボッチをイメージした灯篭
わらじ祭りの海岸

毎年、大わらじを海に流すわらじ祭りが行われている。

かなりレアなお祭りらしく、三重県の無形文化遺財にしてされている。

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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