安治川トンネル

安治川開削は大阪に素晴らしい経済効果をもたらしましたが、九条村が九条と西九条に川で分断されることになってしまいました。分断された九条を繋げる役割をしているのが、世にも珍しい河底トンネルです。
入口には大きなエレベーターと隣には階段があります。かつては車も通れたようですが、安治川大橋が出来たため廃止になりました。
今も九条と西九条の住民の通勤通学の足となっており、一日平均5000人程の利用量があるそう。

昭和になっても、多くの貨物船が盛んに行き交っていました。当初は渡し船が両岸を結んでいたが、車の増大により船では対応できなくなっていました。
しかし、橋をかけるには橋脚を高くする必要があり、当時の技術力や費用の面でそれは困難でした。そのため、考え出されたのが河底トンネルだったのです。これも水都・大阪を象徴するインフラの一つとなっています。
安治川橋

現在、安治川には天保山大橋、安治川大橋、大阪環状線、阪神なんば線の橋梁の4つが架かっている。
江戸時代には、この付近(今の大阪市中央卸売市場付近)に架かっていた安治川橋が最も下流の橋でした。
江戸時代の技術では、船が通れるくらいの高い橋を架けることが不可能だったためでした。

安治川橋から先は江戸時代の浮世絵に描かれている様に、荷物を小船に載せ替えて中之島へ運んでいました。当時はこの場所が安治川口でした。
今の安治川口は下流にあるJRゆめ咲線・安治川口駅一帯を指すので、ここは単なる川口と呼ぶようになりました。

こちらは1873年(明治6年)に架け替えられた安治川橋。場所は江戸時代よりやや上流に架橋されました。
最大の特徴が橋の中央部が可動し、90度旋回出来るようになっていること。こうすることで橋を平坦にしつつ、船も通せるという一石二鳥の橋が実現しました。
しかし解説によると、1885年(明治18年)に大阪に大洪水が襲い、淀川の多くの橋を流してしまった。流れた橋は流木となって安治川橋に押し寄せた。
橋は洪水に流木にも耐えたが、それが逆に川をせき止め市内に水が溢れる危険性が出てきた。そのため、やむなく安治川橋は爆破撤去されました。

橋の手前の道は川に向かって上り坂になっており、この先に橋があった名残が残っています。

対岸から撮影。矢印の場所に明治の安治川橋がかかっていました。
その左には一昔前のアメリカンスタイルな白い建物があります。1929年(昭和4年)に竣工されたSUMITOMO WAREHOUSE、住友倉庫大阪支店。
ここから先は中之島エリアとなり、川は堂島川と土佐堀川に分かれます。ここは大型船が入ってこられる最も市街地に近い場所のため、いわば運河一等地なわけです。さすが住友。
川口居留地

居留地(幕末、外国人の居住が認められたエリア)と言えば、神戸や横浜を思い浮かべる人が多いと思います。実は、大阪も開港地の一つであり、居留地が設けられていました。

明治時代の川口居留地。しかしこの時代の大阪には大阪港は無く、川港しかなかったため外国人商人たちは貿易に便利な神戸に移ってしまい川口居留地は衰退していきました。

その中で唯一、今も残っているのが川口基督教会。写真を撮るのを忘れたので当時の写真をのせておきました。

対岸が川口。中之島の西の端で堂島川と土佐堀川の合流地点。対岸のマンションの手前には木津川が右へ向かって分岐しています。
ここから中之島エリアに入ります。

コメント