中之島
京阪中之島線・大江橋駅にある江戸時代の中之島の地図。この地図には中之島にぎっしりと藩の名前が書かれている。
江戸時代、諸藩は年貢米や特産品を売りさばくことで藩収入としており、その物資の7~8割は大阪で売りさばいていた。そのため、各藩は大阪に物資を貯蔵するための蔵屋敷を持っていた。それが中之島にあり最盛期には130を越える蔵屋敷を立ち並んでいたと言われる。
江戸時代に描かれた中之島の蔵屋敷の様子。菱垣廻船で新綿を江戸に輸送する速さを競い合っている。川が渋滞しているくらいの船が走っており大阪の繁栄を物語っている。
前述で入港する船の数は秋から冬にかけてが一番多かったと言われていると言ったが、それは送られてくる物資で最も量が多かったのが年貢米であったからである。秋に収穫された米が秋から冬にかけて中之島に集まってくる。
広島藩蔵屋敷復元模型
現在、蔵屋敷の名残を感じるものは石碑しかないので、大阪歴史博物館に蔵屋敷の模型を一例としてあげてみた。
広島藩の蔵屋敷内には船の停泊所を設けており、水中に厳島神社みたいな鳥居が設置されている。蔵屋敷の多くは国元の神様を祀ると言う習慣があり、他では高松藩の金刀比羅宮、久留米藩の水天宮などがあった。
船着き場の周りの建物はほぼ全部、米蔵。屋根が取り外されている建物が御殿で参勤交代の際、藩主が滞在していた。
ここからは中之島の歴史スポットを紹介して行こう。
玉江橋
京阪中之島線・中之島駅を出て北側の堂島川に架かる玉江橋は江戸時代に架橋された橋の一つで、元禄年間に架けられた。
この橋が登場するわらべ歌があり「玉江橋から天王寺が見える さても不思議な玉江橋さ」と歌われたが、ここから約南東5㎞先にある四天王寺が見えるわけがないと思うのだが…。
ほんまや、四天王寺が見えてるわ。今より橋脚が高く、反りが大きいから見晴らしが良かったのだ。またこの辺りで堂島川は真西から斜め南に向かうため、玉江橋も南北に真っ直ぐではなく南東を向いている。
つまりちょうど橋の直線上に四天王寺があることになる。では現代の玉江橋からの風景はと言うと…。
当たり前やけど、四天王寺なんか影も形も見えへん。反りは小さくなってるし、何よりも道の先のビル群が視界を遮ってしまっている。
中津藩蔵屋敷跡と福沢諭吉誕生地
玉江橋の北詰には中津藩の蔵屋敷があった。中津藩と言うのは梅田の北の中津ではなく大分県中津市にあった藩。
福沢諭吉の父である中津藩士・福沢百助はこの蔵屋敷で経理担当として勤務していた。そのため、福沢諭吉の出身地は大阪だったのだ。
また大阪は福沢諭吉にとって出身地と言うだけでなく、恩師となる適塾の緒方洪庵に学んだ土地でもあった。正に福沢諭吉は大阪が生み育てた偉人なのである。
蛸の松
玉江橋の一つ東側、田蓑橋の北詰に松の木が植わっている場所がある。江戸時代、蔵屋敷の前には各藩自慢の松の木を植えて白壁と水面に映る景色を演出していた。
中でも前述の広島藩が植えた松は枝ぶりが見事で、その姿は蛸が泳ぐ姿に似ていると評判になっていた。
広島藩蔵屋敷は田蓑橋を渡った対岸の西側にあり蛸の松もそこに植わっていたのだが、初代の松は明治時代に枯れてしまった。今植えられている松は2代目の松で、かつての中之島の景色を取り戻すべく105年のブランクを得て復活した
淀屋橋と淀屋の碑
基本的に橋などのインフラは国や県が管理している。それは今も江戸時代も変わらない(江戸時代は幕府や藩)。
しかし大阪に架かる橋のほとんどは町民がお金を出し合って架橋し管理した町橋なのである。幕府が架けた公儀橋はたった12のみで代表的な橋は難波橋、天神橋、天満橋がある。それに対し町橋の代表が淀屋橋である。
淀屋橋は江戸時代初期の豪商、淀屋によって架けられた。この淀屋こそが中之島発展の第一の鍵である。中之島を開発し、蔵屋敷が建てられ全国の物資が中之島に集積される仕組みをつくったのが初代・淀屋常安であった。
更に2代目の淀屋言當(よどやことまさ)はそれらを売買する大坂三大市場である米市場、雑喉場市場、青物市場を設立し経営した。
淀屋はその後、繁栄を極め総資産は今の貨幣価値で約200兆円と言われている。ちょっと信じられない話だが、江戸時代の税制を考えると有り得ない話でもない気がする。
実は江戸時代の税収のほとんどが農民からの年貢米であり、町人にかかる税金は非常に安く、今の所得税や相続税に相当する税が無かったのである。
しかし幕府もここまで資産が膨れ上がった淀屋を恐れた為か、5代目・淀屋廣當(よどやひろまさ)の時、1705年に闕所処分(財産没収)とした。
表向きは「町人の分を超える贅沢」が理由だったが、本当の理由は諸大名への貸付金が今の金額で100兆円に上っており、それを踏み倒すためではだったと言われている。
ちなみにその後の淀屋は暖簾分けさせていた鳥取の倉吉に移り、農機具の製造業で成功した。
そして闕所から59年後、大阪の北浜に木綿問屋を開いて復活を遂げた。幕末の動乱では財産のほとんどを倒幕資金につぎ込んだらしい。金の恨みは恐ろしい。
堂島米会所
ANAクラウンプラザホテルのすぐ南に何ともシュールな大きな米粒のモニュメントが置かれている。
ここに2代目淀屋言當が開いた米市場があった。初めは中之島にあり、その後この場所に移され堂島米会所となった。
この堂島米会所は世界中の経済学者から偉業と称賛されている、ある取引方法を生み出した。それは世界初の先物取引であった。
堂島米会所は最も重要な市場で、それは幕府や藩の税収のほとんどが年貢米だったため、米は貨幣の代替品でもあったのだ。
何故、税金を金銭で徴収しなかったのか。それは戦国時代以前は日本に共通通貨が無かったため、全国一律で基準に出来るものが米しかなかったためである。
豊臣秀吉は検地を行い、土地を何石という数量で測れるようにし税収の基準とした。徳川幕府はそれを踏襲したのである。しかし江戸時代は共通通貨が発行されたので、米を現金として使うことは出来ない。そのため、諸藩は年貢米を金に換金する必要がある。
蔵屋敷に集められた米は競売にかけられ、落札すると米と交換することが出来る「米切手」がもらえる。
しかし米には不作と豊作があり、それに応じて価格が変動する。それに気づいた競売参加者は米切手を転売するようになった。また米切手を発行する蔵屋敷側も今ある米以上の米切手が発行可能であることに気づいた。
しかしこの様な投機的なことが行われると価格変動が激しくなり、一般のお米屋さんや消費者にとって生活に混乱が生じる。
そこで考え出されたのが「張合米取引」と言う帳簿上だけで行う取引である。これは将来の期日に現時点で取り決めた価格で売る約束すると言う世界初の先物取引であった。
これにより「適正価格の指標」「価格変動のリスクヘッジ」という、資本主義経済にとって必要不可欠なインフラが生み出されたのである。
堂島米会所は幕府公認のものとなり取引時間や採用銘柄を規定した。これは今の株式市場と全く同じ仕組みであった。
堂島米会所での米価格は他のあらゆるモノの価格の基準となったので、各地の商人は少しでも早く米価格を知る必要があった。そこで米飛脚という専門業者が生まれた。しかしこれだと料金がかさみ、大阪から京都でも6時間程かかってしまう。
そこでより早く知るために編み出されたのが、旗振り通信であった。上の絵の様に高台を数キロごとに設け、白い旗を振りその振り方などで情報を伝える。それを望遠鏡で視認し順々に伝えていく。この方法で大阪から京都までなんと、たった4分で伝達することが出来たと言われている。
堂島米会所はその後、1939年(昭和14年)に一度廃止させられるが、1952年(昭和27年)に大阪穀物取引所として復活した。今は株式会社堂島取引所と改名し様々な商品の先物取引を上場している。
中之島に残る明治の建築物
明治時代になると諸藩の蔵屋敷は廃止され、跡地には官公庁や企業、銀行が進出した。淀屋橋から北浜の界隈には今も明治に建てられた建築物が残っている。それらを幾つか紹介しよう。
三井住友銀行本店
淀屋橋から土佐堀川を少し西へ行った南側に重厚で渋い薄黄色の建物が佇んでいる。大阪を代表する財閥、旧住友財閥の拠点として建てられ、大正に第一期、昭和に第二期工事が完成した。
入口にはギリシャ建築の様な柱に英文で社名「SUMITOMO MITSUI BANKING CORPORATION」が掲げられている。何故か三井と住友が逆になっている。
日本銀行大阪支店
今の大阪のメインストリート御堂筋が通る淀屋橋を渡り中之島にでんと構えているのが日本銀行大阪支店。1903年(明治36年)の建築で、設計者は東京駅の設計で有名な辰野金吾。
こちらにも三井住友銀行と同じくギリシャ風の柱があり、屋根がドーム状になっていて三井住友銀行以上に重厚なヨーロッパ建築を思わせる。
大阪府立中之島図書館
日銀大阪支店から御堂筋を渡り、みおつくしプロムナードを進んだ先には、マジで古代ギリシャに迷い込んだ様な建物が待ち構えている。
1904年(明治37年)に完成した大阪府中之島図書館である。建築資金を出したのは国でも大阪府でもなく、住友家の寄付によって建設された。
入口の横には住友に勤めた歌人・川田順の歌碑がある。
難波津の まなかに植えし 知慧の木は
50年(いそとせ)を経て 大樹となりぬ
正に大阪のアカデメイアといったところ。
大阪市中央公会堂
中之島の図書館の隣には赤レンガが印象的なヨーロッパ建築、大阪市中央公会堂がある。この建物で驚いたことは、たった一人の株式仲買人の寄付によって建てられたことである。
その人物は岩本栄之助、「義侠の相場師」「北浜の風雲児」と呼ばれ一代の巨万の富を築き上げた。
栄之助は今の資産価値でいう数十億円を大阪市に寄付し、中央公会堂の建設が着工した。毎日の様に大阪天満宮に通い工事の成功を祈るほど完成を心待ちにしていたが、相場の失敗で大損失をしてしまう。
周囲は寄付したお金を返してもらう様に勧めたが「大阪人の恥」として完成目前に拳銃自殺をし果てた。享年39歳であった。中央公会堂はその2年後の1918年(大正7年)に完成した。
北浜レトロビルヂング
京阪北浜駅からすぐ近く、土佐堀川を背にし現代建築に挟まれた、可愛く古風な建物は北浜レトロビルヂング。
1912年(明治45年)の建設で同じヨーロッパ建築でもここはイギリス様式で建てられている。現在は1階が英国雑貨やケーキ、紅茶ショップ、2階が純英国式のティーサロンとなっている。
難波橋
難波橋は数少ない公儀橋(幕府が架橋した橋)で、浪花三大橋の一つであった。ここら辺から中之島は細くなるので堂島川と土佐堀川にまとめて架かっている。現在の中之島の東端は天神橋付近であるが、江戸時代は実は違っていた。下の絵を見ると…
これが江戸時代の難波橋。中之島はここで終わっていたのであった。しかし江戸初期はもっと西へ引っ込んでおり、今の中央公会堂辺りが東端だった。
中央公会堂辺りには備中成羽藩の山崎家の蔵屋敷があったので山崎の鼻と呼んでいた。それが土砂が貯まり江戸中期に難波橋まで伸びた。当時はここを風邪ひき新地と呼んだ。山崎の鼻が風邪をひいて鼻水を出したというシャレからきている。
難波橋と言えばライオン像。何故ライオン像が設置されているのかは色々調べても分からなかった。
八軒屋浜船着場
現在の中之島の東端までやった来たが、中之島が大阪の繁栄にとって重要な場所である2つ目の理由がこの元船着場にある。
この船着場は安治川からきた船が着く場所ではない。大川(旧淀川)の上流には当時の首都である京都があり、八軒屋と京都伏見を結ぶ定期便(三十石船)が運航されていたのである。
京都から大阪が6時間、大阪から京都は川を遡るため12時間もかかったが、深夜便もあったので今の夜行バスの様に寝ている間に着いた。大阪は京都にとって川で繋がっている外港だったのである。
明治時代にも続いていたが明治中頃になると鉄道が開通し、三十石船は姿を消した
実際の江戸時代の八軒屋浜は少し陸に入った、京阪天満橋駅の南側にあった。すなわち現在の天満橋駅の場所はかつては川であったのだ。
船着場は江戸時代よりもっと昔、平安時代からありその時は渡辺津と呼ばれていた。解説によると渡辺津から熊野街道が和歌山の熊野三山まで通っており、平安時代後期に熊野詣が盛んになり賑わっていたらしい。
最後に大阪港から中之島の発展3つ目の理由を見に行くため、南港にある大阪府庁咲洲庁舎の展望台に上ってみることにした。
中之島 全体マップ
大阪府庁咲洲庁舎(さきしまコスモタワー)
南港の咲洲地区にある大阪府咲洲庁舎(別名さきしまコスモタワー)は高さ256m、地上55階、地下3階の超高層ビル。
大阪市街地や瀬戸内海を見渡せる絶好の位置に立っており、大阪と海との繋がりを360℃のパノラマで実感することが出来る。
大阪湾から外側を見てみる。ここに中之島の発展の3つ目の理由がある。新しい埋立地。夢洲向こうには神戸があり、海は瀬戸内海と繋がっている。
江戸時代、海運は内海である瀬戸内海と夏は穏やかな日本海が発展していたため、京都ー大阪ー瀬戸内海の各港ー日本海の各港というのは重要なラインであった。その中継地点にある大阪・中之島は物資の集散地として非常に便利な立地なのである。
大阪湾から安治川へ、遠くには中之島のビル群が見えている。
夜景を見るため、暗くなるまで待ってみた。
対岸の街のあかりは遥か西の方から大阪に至るまで続いている。
夜になると街全体が輝きだし、人々が活動し経済が躍動している感じが視覚として実感できる様になる。
江戸時代、天下の台所と呼ばれた大阪。今は日本中の物資が大阪に集まるということはないが、江戸時代に培われた商売の街としての顔は今も西日本最大の街として経済を牽引していってるのである。
地図
長文でしたが最後までお読みいただきありがとうございました!
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