中之島・安治川歴史観光 天下の台所と呼ばれた大阪、その発展の鍵とは

大阪中之島

ビジネスの本場、日本一の商業都市と言われる大阪。現在、大阪には梅田、本町など多くのビジネス街が立ち並びしのぎを削っているが、その中でも特に古い歴史を持っているのが中之島エリアである。

現在の中之島はビジネス街というだけではなく、図書館や美術館等の文化芸術施設や明治からの歴史ある建築物等があり、市民の憩いの場となっている。

しかし江戸時代の中之島は「一手に千両の花が咲く」といわれ、日夜、商人達が激しい競争を繰り広げていた商業の中心地であった。その理由は中之島の位置にある。

今回は大阪の発展の鍵を握る中之島の秘密を大阪湾から川を遡りながら解き明かしていく。

中之島の発展 3つのポイント

  • 市街地のすぐ近くにある中洲という立地の良さ
  • 淀川を介して繋がっている当時の首都・京都
  • 巨大な内海、瀬戸内海と北前船の終着点
目次

天保山(てんぽうざん)

天保山と大阪湾

まず大阪の海の入口、天保山にやってきた。正面の観覧車の向こうに広がっているのが大阪湾。その大阪湾に注いでいる右側の川が安治川(あじがわ)である。この安治川を遡ると中之島に行くことが出来る。

現在、大阪湾に流れる最大の川は淀川であるが、それは100年程前に新しく開削して出来たもので、安治川が本来の淀川だったのである。そのため、安治川は旧淀川とも呼ばれる。

車や鉄道が出来る以前の貨物輸送は船であったため、瀬戸内海から直接、大阪の街に繋がっている安治川は主要幹線であった。江戸時代には大阪湾から安治川かけて日に何百艘もの船が行き交っていた。

天保山はその名の通り江戸後期の1831年(天保2年)に造られた人工の山である

天保山が造られたのは、安治川の川底に土砂が溜まってきたため、大型船の航行に支障が出てきた。そのため川底を浚渫する大工事が行われ、それで出た土砂を積み上げて周囲1.8㎞の島と天保山が完成した。島と言ったが当時は東側の八幡屋新田と繋がっており、亀の甲の様な形をしていたらしい。

天保山名所図会「大浚」

工事の様子を描いた天保山名所図会「大浚」。解説によると工事は人海戦術で行われ、作業員は小舟に乗って、長い柄の鋤簾(柄の長い鍬)で川底の砂をすくいあげ船に乗せ岸に降ろす。それを陸の作業員が今の天保山の場所に積み上げるという工程だったようだ。

幕府の命で行われたが町人達は積極的に参加し、お祭り騒ぎの様な陽気な工事現場だったよう。

歌川広重による天保山

歌川広重が描いた天保山。天保山はわりと高く描かれているが、当時は20mあったらしい。安治川入港の目印として役目もあり、夜間も航行出来る様に灯篭も設置された。

天保山山頂

今は地盤沈下しここまで低くなった。

灯篭が復元されていた。

歌川貞升による天保山

歌川貞升(大阪の浮世絵師)による江戸時代の天保山の様子。工事は長期にわたったので作業員のための町が形成され、工事完了後は山に桜や松などが植えられ茶店が並ぶ観光名所になった。

南粋亭芳雪による天保山

南粋亭芳雪(幕末の大阪の浮世絵師)による天保山の絵。左半分には大阪市の市章が描かれている。江戸時代から大阪市があったのかと思いきや、もちろんそうではない。

これは澪標(みおつくし)といって船が海から川に入る際、水深が浅い場所を避け航行可能のルートを示す場所に設置された杭である。水運は水の都・大阪の礎であり、その象徴として澪標が市章として採用された。

天保山渡船場

天保山にはなんと令和となった今でも渡船場があり、渡し船が対岸との間を行き来している。

これは江戸時代と同じく、今も大型船が安治川を航行するため、歩行者が渡りやすい橋脚が低い橋を架けることが出来ないのである。そのため、今も渡し船が活躍していると言う事なのだ。

ここ以外にも大阪市には8航路あり、日本で一番渡し船が多い街となっている。正に水の都・大阪の象徴と言えるだろう。

入港する船の数は秋から冬にかけてが一番多かったと言われているが、何故その季節が多かったのか。それは中之島にあるものを集積させていたためである。答えは後述で

市街地側を望む。中之島のビル群が遠くに見える。

桜島渡船場

対岸の桜島乗り場。対岸に見える森の様な場所が天保山。全く山に見えない。

正面に架かる橋は車両専用橋の天保山大橋。大型船が通れるように橋脚が高く造られている。渡し船のおかげであの高さをいちいち上り下りせずに済んでいる。

地図

安治川口

安治川口駅 貨物ターミナル

天保山から安治川を少し遡ると広大な安治川口貨物ターミナル駅が見えてくる。

明治になると貨物船は蒸気船となり大型化していった。そのため安治川の上流へ入れなくなっていた。

そこで今の安治川口駅付近に新たな港が造られ、大阪駅と安治川口を結ぶ鉄道が敷設された。

今の安治川口駅には港があるようには見えないが、当時は下の写真の様に、駅の横まで運河が併設され船と鉄道が密接に連携していた。

昭和初期の安治川口

戦前は春日出発電所、大阪鉄工場、汽車製造株式会社、住友伸銅所等の工場が集結した、大阪随一の大工場地帯となっていた。しかしそれ故に、戦時中の空襲の標的にされ焦土と化してしまった。

しかし徐々に復興が進み西六社(住友電気、住友金属、住友化学、日立造船、汽車製造、大阪ガス)が進出し大阪の高度経済成長を支えた場所であった。

安治川水門

安治川水門

安治川を中之島へ向かってさらに遡ると、珍しいアーチ状の水門になっている安治川水門が見えてくる。

アーチ型水門は日本に3ヶ所しかなく、それら全て大阪市にある。あとの2つは木津川水門、尻無川水門で、安治川水門がが日本で最初のアーチ型水門とのこと。

アーチ型である理由は橋を高くかける理由と同じで大型船が頻繁に通るためである。水門ですら水の都・大阪ならではのものとなっている。

安治川

中之島に向かって造ったように一直線に伸びる安治川。右岸には艀(はしけ・動力を持たない貨物輸送用の平べったい船)が浮かんでいる。

左の六軒屋川と右の安治川

大阪湾側から見た安治川水門。安治川水門の手前に左から合流してる川が見えると思うが、その川を六軒屋川という。今は淀川から分岐して安治川に合流しているだけだが、実は中之島の発展に超重要な川なのだ

六軒屋川水門

六軒屋川にも水門があるが、こちらは船が通らないとため、よくある一般的な水門になっている。

江戸時代は安治川ではなくこの六軒屋川に船が通っていた。しかし今は六軒屋川を通っても中之島には行けない。では江戸時代はどの様なルートと流れていたのか

河村瑞賢紀功碑

この付近の地図を見てもらいたいのだが、九条(西区)とその隣の西九条(此花区)の間に安治川が流れている。これはよく考えると不思議なことで、一般的に川は区や町の境となることが多い。

同じ九条地区が安治川で分断されてしまっている。実は江戸時代、九条村という一つの村で安治川という川は存在しなかった。北の六軒屋川こそが淀川だったのだ

この様なルートで流れていた。旧河川の付近の道は川に沿って道が屈曲しており、東側の分岐点の川岸は直角になっているのが分かると思う。

これを知った時、軽い感動を覚えた。かつて存在したものが無くなっても、どこかにその痕跡が残っているのだ。

何の変哲もない景色の中に「昔はこうやったんやで」というメッセージを読み取ることが出来る。

安治川と古川の分岐点。対岸の草が生え荒れ地のようなところからかつての淀川が分岐していた。

右斜めに分岐している道がかつての淀川。この先に小さな公園がある。

河村瑞賢紀功碑

公園には安治川を開削した江戸時代の商人兼土木事業家「河村瑞賢紀功碑」があった。

開削前の淀川は上の地図の通り蛇行をしているため、下流部に土砂が貯まり上流部で増水し洪水が深刻化していた。そこで1684年(貞享元年)河村瑞賢は幕府に九条島(当時は島であった)を開削し一直線の川を通すことを提案し、実行に移した

遠方からも多くの作業員が参加し、工事開始から僅か20日で完成した。幕府は新しく出来た川に安らかに治まるようにと安治川と名付けた

元の川は古川と呼ばれ昭和まで残っていたが戦後に埋め立てられた。

大阪歴史博物館で撮影

安治川開削は市中への船の出入りが容易にし、「出船千艘、入船千艘」と呼ばれるほど、安治川は船でひしめき合った。「天下の賃(たから)七分は浪華にあり、浪華の賃七分は船中にあり」と称され大阪の空前の発展を遂げるのである。

安治川トンネル

安治川トンネル

安治川開削は大阪に素晴らしい経済効果をもたらしたが、九条村が九条と西九条に分断されることになった。分断された九条を繋げる役割をしているのが、世にも珍しい河底トンネルである。

入口には大きなエレベーターと隣には階段が設置されている。かつては車も通れたが、安治川大橋が出来たため廃止になった。

今も九条・西九条の両住民の通勤通学の足となっており、一日平均5000人程の利用量があるそう。

対岸の出入口

大阪の水運の大動脈であるのは昭和になっても同様であり、多くの貨物船が盛んに行き交っていた。当初は渡し船が両岸を結んでいたが、車の増大により船では対応できなくなった。

しかし橋をかけるには橋脚を高くする必要があり、当時の技術力や費用の面でそれは困難であった。そのため考え出されたのが河底トンネルである。これも水都・大阪を象徴するインフラの一つなのである。

安治川橋

現在、安治川には天保山大橋、安治川大橋、大阪環状線、阪神なんば線の橋梁の4つが架かっている。

江戸時代には写真の付近(今の大阪市中央卸売市場付近)に架かっていた安治川橋が最も下流の橋であった。理由はここまで大型船の引き込むことを可能にするためであった。

江戸時代の安治川橋

安治川橋から先は江戸時代の浮世絵に描かれている様に、荷物を小船に載せ替えて中之島へ運んでいた。当時はこの場所を安治川口と呼んでいた。

今の安治川口は下流にあるJRゆめ咲線・安治川口駅一帯を指すので、ここは単なる川口となった。

明治の安治川橋

こちらは1873年(明治6年)に架け替えられた安治川橋。場所は江戸時代よりやや上流に架橋された。

最大の特徴が橋の中央部が可動し、90度旋回出来るようになっていること。こうすることで橋を平坦にしつつ、船も通せるという一石二鳥の橋が実現したのである。

しかし解説によると1885年(明治18年)に大阪に大洪水が襲い、淀川の多くの橋を流してしまった。流れた橋は流木となって安治川橋に押し寄せた。

橋は洪水に流木にも耐えたが、それが逆に川をせき止め市内に水が溢れる危険性が出てきた。そのためやむなく安治川橋は爆破撤去させられた。

橋の手前の道は川に向かって上り坂になっていて、この先に橋があった名残が残っている。

対岸から撮影。矢印の場所に明治の安治川橋がかかっていた。その左には一昔前のアメリカンスタイルな白い建物がある。1929年(昭和4年)に竣工されたSUMITOMO WAREHOUSE、住友倉庫大阪支店がある

ここから先は中之島エリアとなり、川は堂島川と土佐堀川に分かれる。ここは大型船が入ってこられる最も市街地に近い場所のため、いわば運河一等地なのである。さすが住友。

川口居留地

川口居留地跡

居留地(幕末、外国人の居住が認められたエリア)と言えば、関西では神戸が有名だが大阪も開港地の一つであり、居留地が設けられていた

明治の川口居留地 大阪市立図書館より

明治時代の川口居留地。しかしこの時代の大阪には大阪港は無く、川港しかなかったため外国人商人たちは貿易に便利な神戸に移ってしまい川口居留地は衰退していった。

川口基督教会 大阪市立図書館より

その中で唯一、今も残っているのが川口基督教会である。写真を撮るのを忘れたので当時の写真をのせておいた。

中之島の西端

対岸が川口。中之島の西の端で堂島川と土佐堀川の合流地点。対岸のマンションの手前には木津川が右へ向かって分岐している。

ここから中之島エリアに入る。

安治川 全体マップ

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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