南北に長い兵庫県。その中央に位置する朝来市生野に、400年以上に渡って銀を採掘し続けた生野銀山があります。
採掘は戦国時代から始まり、江戸には幕府直轄領となり鉱山町が形成されました。明治になると西洋技術が導入され日本の近代化を支えました。
鉱山町の口銀谷は、江戸時代の町並みに明治の西洋技術と文化がミックスされた独特の雰囲気があります。
しかし、昭和になると採掘コストの増加や海外鉱石との競争から閉山となりました。
今回はかつて栄えた生野銀山と口銀谷を巡ってきました。今回は銀山編です。

生野銀山ってどこ
瀬戸内海と日本海、2つの海に面する兵庫県。そのちょうど中央部に生野銀山があります。
銀山のある朝来市には瀬戸内海に注ぐ市川と日本海に注ぐ円山川の分水嶺があり、まさに兵庫県のど真ん中にあたります。
兵庫県の中心でギンを叫んだ坑夫たち。
口銀谷から生野銀山へ
山神宮

旧生野鉱山職員宿舎を出て生野銀山へ向かいます。山が両側に迫り谷は徐々に狭まって行き、川と街道は隣り合い山に分け入っていきます。
少し進むと橋のたもとに石灯籠が見えてきました。橋の向こうには鳥居があり、まるで山を御神体としているようです。
その情景の通りで、その名も山神宮(山神社)。そのまま過ぎる💦

建立は1521(大永元)年、室町時代まで遡ります。
主祭神は「金山彦命(かなやまひこのみこと)」。そんな神様、聞いたことがない。
鉱山や金属採掘に関係した神様で、鉱山町ならではの神社って感じ。
生野銀山で採掘が始まったのが室町時代後期。但馬の守護大名「山名祐豊」が生野城を築き採掘を始めたと言われています。神社が出来た年代とも一致しますね。

山神社は旧生野鉱山職員宿舎から近く、子供の頃の志村喬は山神宮の境内で遊んでいたとのこと。
こういう郊外の町の神社って人が少なくて、今でも子供達の遊び場になっているのをよく見かけます。それが実は結構、カルチャーショックでした。
京都在住の筆者にとって神社は、観光地であり多くの参拝客がおり貴重な歴史遺産もあるので遊ぶところではないと思っていたのです。
郊外の神社はどこも境内が広く人も少なくて、遊び場にピッタリって感じ。
三菱マテリアル株式会社生野事業所

山神社から更に進むと、古い工場が見えてきました。三菱マテリアル株式会社生野事業所です。
明治政府の直営であった生野銀山は、1896(明治29)年、民間に払い下げられ三菱合資会社が落札しました。
その後、三菱合資会社から鉱山部門を行う三菱鉱業株式会社が設立され、生野銀山の運営を行いました。
現在は鉱山は閉山され、三菱鉱業株式会社の流れを汲む三菱マテリアル株式会社生野事業所が、生野銀山の維持管理や錫の精錬などを行っています。
建物は1918(大正7)の建築。鉱山で働く職員やその家族のための生活必需品を販売する購買所として使われていました。

こっちが工場の入口です。
生野銀山の近代化の象徴であった「銀の馬車道」の出発地点でした。
ここで精錬された銀は、銀の馬車道を通って49㎞先の姫路の飾磨港まで運ばれていました。
工場内には今も明治に建てられたレンガ造りの建物が残され、現役で使用されているとのこと。見てみたいですが、関係者以外立ち入り禁止でした。
奥銀谷(おくがなや)

谷と川に沿って進むと、徐々に視界が開けていき家並みが見えてきました。
途中で車道と別れ、土の色っぽい道に入ると、風情のある町並みに突入しました。
この辺りは奥銀谷地域と言って、生野銀山に一番近い谷間に出来た鉱山町です。市川沿いに伸びる細長い空間に、鉱山労働者の住居が連なっていました。

前に来た時は、友人と訪れたので生野駅からタクシーで銀山に行きましたが、奥銀谷のことは全く気付きませんでした。タクシーだとここは通らず専用の車道を通るので、気付くことが出来なかったのです。
今回はいつもの一人旅のお供、折り畳み自転車で来たので、奥銀谷地域に入る手前の案内板を発見すること出来ました。
以前は、一度訪れた場所に再び行っても面白くないと思っていました。けれど、再訪することで旅の思い出が蘇って、懐かしさを感じたり、再発見があったりして、その土地をより深く知る喜びがあるのだと気付きました。

