南北に長い兵庫県。その中央に位置する朝来市生野に、400年以上に渡って銀を採掘し続けた生野銀山があります。
採掘は戦国時代から始まり、江戸には幕府直轄領となり鉱山町が形成されました。明治になると西洋技術が導入され日本の近代化を支えました。
鉱山町の口銀谷は、江戸時代の町並みに明治の西洋技術と文化がミックスされた独特の雰囲気があります。
しかし、昭和になると採掘コストの増加や海外鉱石との競争から閉山となりました。
今回はかつて栄えた生野銀山と口銀谷を巡ってきました。今回は口銀谷の町巡り編です。

生野銀山ってどこ
瀬戸内海と日本海、2つの海に面する兵庫県。そのちょうど中央部に生野銀山があります。
銀山のある朝来市には瀬戸内海に注ぐ市川と日本海に注ぐ円山川の分水嶺があり、まさに兵庫県のど真ん中にあたります。
兵庫県の中心でギンを叫んだ坑夫たち。
生野駅

京都駅から特急に乗り和田山駅で播但線に乗り換えて、3時間ちょっとで生野駅に到着。
生野駅は郊外の駅にしては珍しく、駅の両側に出入口があり駅舎が建っています。西口駅舎は木造建築で、瓦は赤い生野瓦が使われていて鉱山町の歴史を感じさせます。
とおもったら、西口駅舎は2009(平成21)年に新設された駅舎でした。

西口駅前のすぐ目の前には山があり、その間にはだだっ広いロータリーやコンビニがあるだけ。何も無かったところに駅舎が出来たことで開発されたって感じ。
西口には観光情報センターがあるので、銀山に行く前に一度立ち寄ってみるのがおススメ。パンフレットや関連グッズなどを入手することが出来ます。
銀山と鉱山町は駅の東側なので、東口に回ります。

なんの風情もない東口駅舎(笑)。初代生野駅は1895(明治28)年に建てられ、1960(昭和60)年に現在の駅舎に改修されました。
いかにも昭和のモダニズム建築って感じで、なんか好きになれへん。

東口駅前にもロータリーがありますが、西口と違って昔の駅前って雰囲気。

駅前にはひと際目を引く建物がありました。木造3階建ての日下旅館です。
1909(明治42)年の建築で、当初は2階建てでしたが、1921(大正10年)に3階に増築されました。完成当時、姫路から城崎温泉にかけて3階建ての建物はたった2軒しかなかったそうです。
銀山のおかげで町は栄え、駅前には繫華街が出来ていたそうです。3階建ての旅館は生野の繁栄の象徴で、ギンギラ銀山パラダイスでした。
まずは口銀谷の町並みを巡ってから、銀山探検に行くことにしました。この順番は非常に重要な理由があります。
その理由は後ほど。
生野書院

最初に訪れたのは、生野の歴史資料が展示してある生野書院です。
元々は大正期の材木商の邸宅で、それを改修し資料館になっています。

入口の門は、明治の生野銀山の重要人物の一人、朝倉盛明が務めた官舎の門が移築されています。
明治期の生野銀山は、明治政府の官営銀山となりました。朝倉盛明は生野銀山の鉱山長を務め生野銀山の近代化に貢献した人物です。

邸内はそこまで広くはなく、屋敷と展示室になっている蔵がありました。
蔵と屋敷の間には庭が設けられています。丸い燈籠が良いアクセントになっています。

来客者を監視する様に玄関前は全面ガラス張りになっています。今でこそ普通のことですが、明治大正では相当高価なもので国の関連施設や一部の商業施設のみでした。
個人宅でここまでガラス張りに出来きていたということは、かなり大富豪だったと思われます。
資料館の方は写真撮影禁止でした。江戸時代の代官の日記や生野の古地図、生野県に関する資料などが展示されていました。なんだと…、生野県だと。
明治初期、生野に県庁所在地が置かれた生野県が存在していました。当時の兵庫県は神戸付近のみで、播磨、美作、但馬の一部は生野県となっていました。この時は廃藩置県以前で、幕府関連領のみが県となっていました。
1871(明治4)年、正式に廃藩置県が行われ、播磨は飾磨県、但馬と丹後丹波の一部は豊岡県、美作は北条県に再編されました。僅か2年間のことでしたが、生野が県庁所在地だったとは驚きです。これが銀山の力か…。
今の兵庫県となったのは、その5年後の1876(明治9)年のことでした。
銀の馬車道(但馬街道)

生野銀山の玄関口、口銀谷(くちがなや)地区には、他の町には見られない鉱山町独特の特徴があります。
生野のメインストリートの一つ、鍛治屋町通り。姫路から城崎温泉を結ぶ但馬街道の一部で、別名生野街道とも呼ばれました。
銀山から掘り出された鉱物の輸送路として非常に重要な道でした。

街道沿いには歴史のありそうな建物が残されています。

向かい側には生野で醤油店を経営していた松本家の屋敷が残されています。
右側の低めの建物が明治期、左側が大正期に建てられ、国の登録有形文化財となっています。
印象的なのが、大正期の建物の屋根の下部分にある軒蛇腹。張り出した屋根の下に帯状の装飾を軒蛇腹と言います。
ここでは西洋風の軒蛇腹である屋根から外壁に向かって逆階段状の装飾がされています。生野では明治期に鉱山の近代化のため、西洋技術の導入が進められました。ここもその影響の一つだと思います。

鍛治屋町通り(但馬街道)を曲がり本町通りへ。本町通りを山に向かって進んだ先に生野銀山があります。
何百年もの間、銀を担いだ人や馬が行き交い続けた道でした。明治時代になると機械化により銀の増産がなされ、従来の輸送方法では間に合わなくなりました。

そのため、大量輸送が可能な馬車輸送に切り替えることになりました。しかし、それまでの但馬街道は道はガタガタでカーブが多く、重い銀を満載した馬車を走らせることは不可能でした。
そこで、フランスから土木技術者「レオン・シスレー」を招き、馬車を高速で走らせるため、道を直線化、拡幅し、道路にはマカダム式工法による改良がされました。馬車が発達した近代ヨーロッパで主流の道路構築法でした。
生野及び中瀬鉱山~飾磨港まで全長73キロの直線道路は、日本初の高速産業道路でした。現在は近代化産業遺産として「銀の馬車道」と呼ばれています。
銀の馬車道で特に興味深いと思ったのが、時代による輸送方法の変化です。
1895(明治28)年、播但鉄道(今のJR播但線)が生野~飾磨で開通し、輸送は鉄道に移り変わっていきました。
鉄道開通後も銀山から駅までは馬車が使われていましたが、大正期には別のものに取って代わりました。それが分かるところがあるので見に行ってみます。
トロッコ道

生野の町中を流れる市川。その川沿いに細いレールが敷かれています。
1920(大正9)年、生野銀山の坑口から生野駅まで市川沿いに建設された500㎜軌間のトロッコ用レールです。
アメリカ製の6トン電気機関車が鉱石を積み込んだトロッコを牽引していました。
30年以上に渡って使用されていましたが、1955(昭和30)年ごろ、道路の整備と自動車の発達でトラック輸送に切り替わり廃止されました。

トロッコ道で一番の見どころがこの石垣三連アーチ。
この辺りでは線路を敷くスペースが確保出来なかったため、川に張り出したところにアーチ型の石垣を組んで、線路用地を確保しました。
このアーチは土木の専門家からは高い評価を得ているとのこと。
レンガではなく石垣のアーチって初めて見たかもしれません。

生野銀山の方から流れてきた市川は三連アーチのところで急カーブをしています。
口銀谷は市川が蛇行を繰り返して出来た氾濫原に出来た町。ちょうどこのあたりで市川は蛇行しながら南へ向きを変えています。
銀の馬車道や鉄道が出来る前は、川舟も輸送の大切な手段でした。市川は舟を使ってくれと言わんばかりに、生野銀山から飾磨港へ通じる理想的な流路になっています。

トロッコ道は生野駅の方へ向かうため、ここで川を離れて駅へ向かいます。トロッコ道を辿って行くと、意外な発見がありました。

右に折れた先は、線路はなくなり路地の様に異常に狭くなっていました。
これでは機関車が通れるわけないので、おそらくトロッコが廃止されてから家が増築されたのでしょう。

路地を抜けると、鍛治屋町通り(銀の馬車道)とクロスし、播但線のほうへ続いています。
この辺りは全くトロッコの面影はありません。

生野駅とは全然違うところに出てきました。調べたところによると開業当時の生野駅は、今の生野駅より300m北に位置していた様です。
正確な場所は分かりませんでしたが、この辺りが生野駅から300m程の距離で、駐車場や空き地、向かい側には団地があって怪しい気がします。
駅の跡地には大きな敷地が空くので、駐車場や公園、公共施設、団地などになりやすい傾向があります。

