生野銀山歴史観光1 江戸から明治へ、銀山と共に発展し続けた鉱山町を巡る 口銀谷編

目次

口銀谷の町並み

旧生野警察署

鉱山町ならではの特徴は、馬車道やトロッコ道だけではありません。

三角形の切妻屋根に、その下に装飾された軒蛇腹、車寄せを中心に左右対称に設置された扉と窓。いわゆる擬洋風建築です。

明治期の生野銀山には外国人技師のための洋館が建てられていました。地元の大工がそれを真似て、1886(明治19)年、警察署が建てられました。今は公民館となっています。

よく見ると、軒丸瓦の下に警察の紋章っぽいのがありますね。

寺町通り

来迎寺(浄土宗)

元警察署前の道の突き当りには、緑色の洋館の雰囲気とは打って変わって、重厚な石垣と白壁が堂々とした威圧感を放っていました。上には来迎寺というお寺があります。

寺町通り

突き当りを曲がると、道の先の方まで石垣と白壁が続いており、歴史的に何かがありそうな気配が漂っています。

この通りを寺町通りといって、道沿いに宗派が異なる8つの寺が立ち並んでいます。これが外国やったら宗教戦争が起こりそう。

争うことなく、様々な宗派が並んでいるのは鉱山に関係しています。

西福寺(浄土宗)

鉱山には全国から多くの労働者が集まりました。しかし、作業現場の環境は劣悪で、多くの坑内作業者が命を落としました。

彼らを弔うため、生野には様々な宗派の寺が必要だったと言われています。

金蔵寺(浄土真宗本願寺派)

また、地形的にも特徴があり、口銀谷の平野部は市川の流れの影響で逆L字の形をしています。

寺町通りは北の山裾沿い(逆L字の上側)に対して平行に伸びていて、寺院群は全て山側に立ち並んでいます。

山の斜面を均し石垣で固めた造成地上に立っており、どの寺も境内の前には石段があります。これだけ多くの寺と石段が等間隔に並んでいるって珍しい。

教徳寺(真宗大谷派)

もう一つ鉱山町ならではの特徴があります。

このお寺の塀の石垣と階段の両側の石ですが、色や形が普通の石と違っている気がしませんか。これらは「カラミ石」と呼ばれています。

鉱石から銅や銀を抽出する際、鉱石を熱して不要な岩石を分離させます。その不要な岩石を固めたものがカラミ石です。カラミ石は生野独自の呼び方で、一般的には鉱滓と呼ばれています。

捨てるものも有効活用する。日本人のもったいない精神が生み出した資源リサイクルでした。

禅操寺(臨済宗妙心寺派)

ここも階段の両側にカラミ石が配置されています。

明治中頃から銅の生産が急増しカラミ石もどんどん増え始めました。その捨て場所に困ったことから再利用出来ないかと考え、ブロック状に成形し直してレンガや石の代わりとなる建築材として売り出したのでした。

原材料はタダ同然なので、安さがウリの一つでした。

また、普通の石と比べて、金属成分が含まれているため黒光りしている独特の魅力があります。

鉱山からは採掘されたものは銀や銅だけでなく、気付かないうちに町を彩る建築材も掘り出していたのでした。

カラミ石

もちろん、お寺だけでなく民家にも使われています。

こちらの家はなくなっていますが、家の土台と水路に使われています。

カラミ石が生野の特徴の一つでしたが、1922(大正11)年に香川県の直島で大きな精錬所が出来たため、生野では鉱石を送り出すだけとなり、生野のカラミ石の生産は終了してしまいました。

そのため、カラミ石を使っているところは明治中頃から大正までの間に建築された家に限られています。

数は徐々に減りつつありますが、生野の特色を守るためなるべく保全に努めているようです。

生野ハヤシライス 井筒屋&浅田邸

宮町通り

トロッコ道の近くを通る宮町通り付近は、口銀谷でも特に昔ながらの町並みが残されている地域。

通りは市川の流れに合わせ緩やかなカーブを描いています。遠景には山がせり出してきて伝統建築との組み合わせが素晴らしい。

井筒屋

1832(天保3)年に建てられた郷宿「井筒屋」。生野の建物でも最も古い建物で、非常施設でした。

江戸時代の生野には、なんと宿屋がありませんでした。幕府直轄地であった生野銀山では、一般の旅人の宿泊を禁じていました。

当時の銀は貨幣であり、幕府にとって経済をコントロールするための根幹でした。そのため、幕府は関係者以外の生野への立ち入りを入念に管理していました。

では、幕府関係者や公用などで生野に訪れた人は、どうしていたのでしょうか?

そのための施設が郷宿でした。

井筒屋

郷宿は幕府関係者だけでなく、代官所に訴訟や裁判のため遠方から来た町人や農民も利用することが出来ました。今風に言えば、役所に用事のある人のための行政サービスってところ。

井筒屋

当時の生野には6軒の郷宿があり、井筒屋はその内の一つです。代々、山師を務めていた吉川家が営んでいました。

山師というと、投機的な方法で一発当てようとする人って意味もありますが、ここでは幕府から鉱山の採掘権を与えられた人のことです。今風に言うと、国に認可された資源採掘会社ですね。

また、郷宿を務めていた吉川家では宿の提供だけでなく、訴訟人の依頼で訴状の代筆を行ったり、代官所での手続きや、出頭時の付き添いまでやってくれていたそうです。これも今風に言うと、行政書士、弁護士にあたります。

っていうか吉川家、凄すぎるやろ。鉱山開発にホテル業、行政書士、弁護士って。ブルーカラーからホワイトカラーまで、なんでもアリやん。

井筒屋

現在の井筒屋は、吉川家から旧生野町(朝来市)に寄贈され自由に見学可能となっていました。生野銀山の歴史を示す重要な資料なども展示されていました。

土間ではお土産物が販売されていて、休憩スペースもありました。

吉川邸 別邸

道の反対側には吉川家の別邸があります。明治中頃の建築で、当主の隠居屋敷として利用していたよう。

2階の窓が京都の様な虫籠窓ではなく格子窓になっています。生野銀山の伝統町屋では全体的に格子窓が多いようです。

吉川邸 別邸

屋内は明治というより、昭和って雰囲気。

チャンネル式のテレビがエモい。吉川家が使用していたものだろうか?

銀山町ミュージアムセンター(旧浅田邸)

吉川家別邸の土間を通り抜け裏口からでると、広場がありその横には車寄せがある大きな屋敷が。

こちらは吉川家ではなく、江戸時代から続く地役人「浅田家」の屋敷。

明治期には生野銀行を設立し初代頭取となった浅田貞次郎を輩出しています。播但鉄道(播但線)の敷設にも尽力し、生野の発展に力を尽くしました。

現在残されている建物は、1932(昭和7)年の建築。現在はカフェになっていて、お昼はここでいただきました。

銀山町ミュージアムセンター(旧浅田邸)

邸内はかなり広く、カフェにしては少し持て余し気味な感じ。

この時は離れにある洋館に案内されました。ハイカラって言葉が似あう古き良き洋室です。

但馬牛ハヤシライス

戦後の高度経済成長期、生野銀山は最盛期を迎えていました。当時、生野銀山を経営していた三菱の社宅には全国から赴任した鉱山職員とその家族が暮らしていました。

多くの人々が住んだ社宅には、ハイカラな都会の生活文化が持ち込まれました。東京から赴任してきた職員によって伝えられた文化の一つが「ハヤシライス」でした。生野の人々は生まれて初めて食べる洋食に感動し、徐々に広まっていきました。

鉱山が閉山し、忘れかけていた当時のハヤシライスを生野銀山の味として復活させたのが生野ハヤシライスです。ご当地グルメとして口銀谷地域の多くの飲食店で提供されています。

ここでは昭和30年代の鉱山社宅で食べられていたハヤシライスを現代風に再現しているとのこと。鉱山職員の家庭料理ということは、体力仕事やしボリューミーでガッツリ系かと思ってましたが、トマトの酸味が特徴的な上品な味わいでした。

銀山町ミュージアムセンター(旧浅田邸)

他の部屋はお客さんがおられたので、部屋の写真は撮ることができませんでした。洋室は一室のみで、他は全て上質な感じの和室となっていました。

座敷との間は障子、庭との間はガラス戸になっています。江戸時代であれば庭との間は雨戸になっているので、そこから時代性を感じ取ることが出来ます。

ガラス戸は一枚ガラスではなく、桟がはいっているのが大正~昭和って感じがしますね。

銀山町ミュージアムセンター(旧浅田邸)

庭を見ると、先ほどハヤシライスを頂いた洋館が見えました。

なにこれ? 屋根が尖り過ぎてるやん。思わず二度見しました。教会とかでありそうな感じ。

雪が降るヨーロッパでは雪を落とすため、急斜面の屋根が発達したようです。

旧生野クラブ

旧松本林右衛門邸

浅田邸から少し歩いたところにある旧松本林右衛門邸。この辺りも市川に沿って道がカーブしています。水路と白漆喰の塀もカーブに沿っていて、曲線美がいいですね~。

家主であった松本林右衛門は明治の鉱山経営者。建物は1886(明治19)の建築。

1956(昭和31)年には三菱が購入し、保養所施設・迎賓館「生野鉱山俱楽部」として利用されました。その後、朝来市に寄贈、管理保存され、現在も生野クラブの愛称で呼ばれています。

見学は出来ない様で、ごくまれに特別公開が行われているようです。

旧松本林右衛門邸

中には入れませんでしたが、外からでも見どころがありました。

めちゃくちゃ立派なうだつが上がっています。筆者が見た限りでは、口銀谷の町でうだつが上がっていたのはここだけでした。

鉱山経営で相当、儲かったんでしょうねぇ~。

生野クラブ前の会所

生野クラブの塀沿いに奇妙な建築物がありました。一見、火の見櫓のような形ですが、小さすぎて登ることが出来ません。

これは会所という水分配設備です。谷間の町である生野では、水は山の湧水を町まで引いてきて活用していました。

しかし、そのまま流すと高低差のため水流が強くなりすぎます。そこで、会所を要所要所に設けて水圧を調整し、各家庭に分配していました。

トロッコ道近くの会所

さきほど歩いたトロッコ道跡にも会所がありました。

生野クラブの会所と少し形が違います。2つしか見つけてませんが、色んな形の会所があるのでしょうか。

意外なことに、いつからある設備なのかははっきりと分かっていない様でした。会所という言葉は人の寄合所や会合施設と言う意味で平安時代からあるようですが、水道設備に会所って付けたのはどういう感覚なんでしょうか?

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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