港町神戸といえば明治時代に開港した街でハイカラ、お洒落といったイメージを持たれている方が多いと思う。だが実は神戸に港が出来たのは今からおよそ1300年前、奈良時代にまで遡る。
当時は大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれており、奈良時代の僧侶、行基によって築かれた摂播五泊(摂津と播磨に築かれた5つの港)の一つだった。
大輪田泊が飛躍するのは平安時代後期、平清盛が日宋貿易の拠点すべく大修築をし国際貿易港へと発展を遂げる。
その後、平家は壇ノ浦で滅亡するが、清盛が築いた大輪田泊は成長を続け、鎌倉時代には民間貿易の重要拠点となり、兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれるようになる。
室町時代には足利義満の日明貿易の拠点となり国際貿易港として栄えた。江戸時代は鎖国政策のため国際貿易港ではなくなってしまうが、日本国内での流通が盛んになり北前船の物資の集散地として大都市に発展した。高田屋嘉兵衛などの多くの廻船業者が本店を兵庫に置いていた。
幕末、兵庫津が再び貿易港として開港することになったが、兵庫津は既に人口密集地となっており、新しい港湾施設を建設する土地がなく、住民にとっても外国人の出入りに忌避感があった。また水深の問題から東へ3キロの神戸村が開港場となり、1868年(慶応3年)に神戸港が開港した。
その後、神戸港は国際貿易港と発展をし続け、旧港となった兵庫津には多くの造船所等が置か工業港となり、現在に至っている。
旧港である兵庫津には数多くの歴史スポットがあり、三宮や元町とは違った魅力がある。兵庫津は平清盛が築き、現在の神戸に繋がる始まりの港。今回はそんな兵庫津を散策してきた。
兵庫津の魅力、3つのおススメポイント
- 平清盛から始まる様々な時代の歴史遺産
- 日本三大大仏の一つ「兵庫大仏」
- ユニークな歴史博物館「兵庫津ミュージアム」
大輪田泊(おおわだのとまり)
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ここは平安時代、平清盛が開発した大輪田泊跡。清盛の父忠盛は博多で日宋貿易を行い、大きな利益を得ていた。
しかし博多での日宋貿易は宋商人に牛耳られていた為、清盛は自領である大輪田泊に宋船を引き入れて、博多の宋商人による中間マージンを無くそうと考えた。
しかし当時の大輪田泊は北や西側の風からは山で守られている天然の良港だったが南東からの風に弱く、船や港湾施設に頻繫に被害をもたらしていた。
そこで清盛は港の前面に経ヶ島という人工島を築き、入江を設ける事で安全な停泊地を建設した。その結果、船は安全に停泊することが出来、日宋貿易は拡大し平家の力の源泉となっていった。
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上記イラストは江戸時代における兵庫津(大輪田泊)だが、入江の形は清盛の頃と大幅には変化してはいないと思う。
入江はT字になっており、両サイドに多くの船が停泊出来る様になっている。現在ではT字の上の部分は埋め立てられ、下の部分は南側に抜けられる様になっている。下図参照。
Tの部分が当時の大輪田泊。付近の住所には島上町、船大工町、磯之町といった地名が残っており、かつて港町であったことが偲ばせる。
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付近には平清盛をフィーチャーしたモニュメントがあった。
西国街道兵庫津の惣門跡
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戦国時代の兵庫津には街を守るために土塁が街の周りに張り巡らされており、その入り口には堅固な惣門が築かれていた。
惣門は2ヶ所あり、柳原惣門跡が西の玄関口、湊口惣門跡が東の玄関口にあたる。織田信長の家臣池田恒興の統治時代は西の毛利氏との対立があり特に西惣門付近では厳しい警戒がされていた。
江戸時代には街の入り口の象徴となっていた。しかし明治時代、運河開削などの近代化により惣門や土塁は取り壊されてしまった。
柳原蛭子神社(やなぎはらえびすじんじゃ)
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柳原惣門の横に位置し、柳原のえべっさんで親しまれる柳原蛭子神社。創建は不明だが、元禄時代(1691年)には存在しており、兵庫津を訪れる人、旅立つ人を見守ってきた。
毎年1/9~1/11の十日えびすにはJR兵庫駅から神社にかけて参道に屋台が立ち並び、大勢の参拝客であふれる。十日えびすは関西だけに見られるお祭りで、大阪の今宮戎神社、京都のゑびす神社、西宮の西宮神社が有名。
西国街道 札場の辻跡
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京都から下関を結ぶ西国街道は元々この辺りでは兵庫津を通らず直進していた。しかし兵庫津が繫栄するするにつれて兵庫津に立ち寄る人が多くなってきた。
そこでいつの頃からか、兵庫津内を経由させるためにルート変更をし、ここで直角に曲がる部分が出来た。
この箇所は「札場の辻」と呼ばれ江戸時代では街の中心部でした。なおここ兵庫津は日本遺産「荒海を超えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地~」の一つに選ばれている。
地図
左上の旅猫の左の→をクリックしますと、番号に対応した歴史スポットが表示されます。
新川運河キャナルプロムナード
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兵庫津の南にある和田岬は、南西風と潮流から港を守る障壁となっていた。しかし反面、航行する際は岬を大きく迂回する必要があり、波が高く難破する船も続出したという問題があった。
そこで1899年(明治9年)、和田岬をショートカットする兵庫運河(新川運河を含む5つの運河の総称)が完成した。
兵庫津は大正昭和にかけて一大商工業地域として発展し、運河はその物流や、木材の貯木場として盛んに活用された。しかし時代の変化と共に、経済活用への利用は減少し、現在は市民の憩いの場として、遊歩道に生まれ変わった。
向こう岸のイオンモールのからはお茶をしながら運河を眺めることが出来、日が暮れるとライトアップがされ、昼とは違う景色が演出される。
兵庫城跡
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新川運河にあるイオンモールの一角には石垣が残っている。これは戦国時代、織田信長の配下である池田恒興によって築かれた兵庫城の石垣だ。
江戸時代には尼崎藩の管轄となり、一国一城令により兵庫城は陣屋として兵庫津奉行所が置かれ尼崎藩にとって重要な経済拠点として発展した。
江戸中期以降、慢性的財政難であった幕府は兵庫津を尼崎藩から取り上げ天領とし、大坂奉行所の管轄に置かれた。幕府は大坂を優先する政策をとっていたため兵庫津は苦戦を強いられた時代であった。
しかしそれ故に、新たな商いを模索し、フロンティアスピリッツを発揮し始めた。高田屋嘉兵衛、工楽松右衛門など有名な廻船問屋が多数出現し、兵庫津は今まで以上に発展を遂げた。
明治時代には、初代兵庫県庁が置かれ伊藤博文が初代知事として赴任し、神戸港、兵庫津の発展に尽力した。この初代県庁舎は兵庫県政150周年事業で復元され、この後の記事で紹介します兵庫津ミュージアムで見学することが出来る。
兵庫津ミュージアム
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兵庫津ミュージアムは2022年にオープンした博物館。兵庫津の歴史を解説した「ひょうごはじまり館」と初代兵庫県庁舎の復元施設が併設されている。新しい博物館なだけあって展示や解説に遊び心があり非常に楽しい博物館となっていた。
「ひょうごはじまり館」では兵庫津の歴史をそれぞれの時代でのキーパーソンとなる人物、平安時代は平清盛、室町時代は足利義満、江戸時代は一般庶民、明治時代はアーネストサトウ(イギリスの外交官で駐日公使、通訳を務めた。日本を最も愛した外国人と言われ、日本とイギリスの懸け橋として活躍した)といった面々が解説してくれる。
特に面白かったのが「地形サミット」と言うコーナーで、平清盛が足利義満と伊藤博文に何故、兵庫津が天然の良港になったのかを平清盛が現代的な地理学や地質学的観点で解説してくれていた。さすが清盛先生、何故神戸が天然の良港なのかよく理解出来た。
能福寺
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能福寺は唐から帰国した最澄上人が兵庫津に寄港した時、住民に歓待され建立された寺で、最澄にとって初めての教化霊場となった。
兵庫大仏は日本三大大仏(時期によって変わる)の一つとして有名で、大仏は1891年(明治24年)に建立された。しかし戦時中の金属回収令で大仏様は戦争に駆り出され解体されてしまった。戦後、暫く大仏不在の時期が続き、1991(平成3年)にようやく再建された。
大仏を初めて見た時、驚いたのが奈良や鎌倉と違って住宅地に囲まれて鎮座されている事。マンションや家々の間から見つけたときは、かなりシュールな感じがした。
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こちらは本堂の月輪影殿。京都の泉涌寺の月輪御陵にあったものを1953年(昭和28年)に宮内省と九条家によってこちらに移築された。
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能福寺は平家と関係が深い寺で、平清盛が出家したのは能福寺だった。清盛は死後、能福寺に埋葬して欲しいと遺言しており、清盛が京都で亡くなった際、能福寺の住職はその遺骨を持ち帰り埋葬したと伝えられている。
しかしその時の平相国廟は平家滅亡の折に破壊されてしまう。1980年(昭和55年)、平清盛800年忌を機に平相国廟の再建がされた。
他にも寺内には北風正造君碑(幕末~明治の北風家当主)、ジョセフ・ヒコ英文碑(日本初の新聞を刊行した、新聞の父。日本初の英文碑)、滝善三郎供養碑(神戸事件の責任を負い切腹した岡山藩士)など歴史的見所がある。
清盛塚
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左の石塔十三重塔は大正時代の発掘調査によるまで平清盛の墳墓であると伝えられてきており、清盛塚と呼ばれている。1286年、平家を哀れんだ時の執権北条貞時が建立したと伝えられている。
真ん中の平清盛像は神戸開港100年を記念して1968年(昭和43年)に神戸出身の彫刻家、柳原義達によって制作された。
右の石碑は琵琶塚と言って、以前この辺りに前方後円墳があり、形が琵琶の形をしていた。そこから琵琶の名手である、清盛の甥・平経正と結び付け経正の塚と呼ばれるようになった。
和田神社
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赤い大鳥居が目印で、和田宮さんと親しまれている和田神社。太古の昔、淡路島の蛭子大神が和田岬にやって来られ、そこにあった森を蛭子の森と呼んだのが始まり。場所は現在と異なり、今の神社の南西約800mのところに位置していた。
平清盛の時代には、大輪田泊の築港の際に事業の完成と将来の繁栄を祈願して安芸の厳島神社から市杵嶋姫大神を観請した。
更に時が下り1659年、尼崎藩時代に天御中主大神の神輿が和田岬に流れ着き、数々の不思議な事が起こった、これを知った藩主青山幸利の発案により社殿が造営された。
主祭神に天御中主大神、相殿に蛭子大神と市杵嶋姫大神を祀り、和田神社と呼ばれ兵庫津の守り神として親しまれている。現在地には1902年(明治32年)に造船所建設の為、遷座したようだ。
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シンボルとなっている赤い大鳥居。
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和田神社では神の使いとして白蛇が信仰されており、その白蛇が初めて姿を現したのが、この御神木の影向松。影向とは神仏が仮の姿をとって人々の前に現れることを言う。
また和田神社はだんじり祭りが有名で、江戸時代から昭和初期まで行われてきたが、昭和の空襲により山車の大半が焼失してしまい、だんじり祭りは和田神社からなくなってしまった。
しかし祭り復活の声が上がり、大阪の茨田大宮神社からだんじりを購入し、仕立て直して1980年(昭和55年)にだんじり祭りを復活させた。それからはコロナによる休止あったが毎年、5/2、5/3に開催されている。
和田岬
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別の日に高松から神戸行のフェリーに乗船したので、その時に撮影した和田岬。見えている建物群は三菱重工業の神戸造船所。一般人は立ち入り禁止のため、和田岬の突端は海からしか見ることは出来ない。
和田岬の部分だけが突出しており、今、フェリーが向かっている神戸港やその横の兵庫津を潮流から守っているのである。
兵庫津 全体マップ
最後に今回、紹介しました歴史スポットの全体マップを載せておきます。左上の旅猫の左の→をクリックしますと、番号に対応した歴史スポットが表示されます。
兵庫津へのアクセス
鉄道🚃
地下鉄海岸線、三宮・花時計前駅から約6分、中央市場駅下車。
車🚙
阪神高速3号神戸線、柳原出口から約1㎞。約2分
長文でしたが最後までお読みいただきありがとうございました!
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