備前長船歴史観光 なぜ備前長船は名刀を生み出した?日本刀の聖地を巡る

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長船城跡

長船城跡

博物館を出て目の前には、長船と書かれたのぼり旗が道沿いに立っています。城はなくても旗がある。

この辺りに、刀工「備前長船兼光」の屋敷と長船城がありました。

南北朝時代、太刀を鍛えた褒美として足利尊氏からこの地を賜ったと言われています。

城の周り約100m四方に濠と土塁を巡らしてあったと言われています。室町時代の城は大抵そうですね。

ここの高低差のところが、長船城西側の土塁跡です。

土塁を上がったところの建物には「長船城之内工房」の看板が掲げられていました。今もここで刀鍛冶をしておられるのでしょうか。

城の南側の方には、長船紀伊守屋敷跡がありました。以前は解説板があったそうですが、どこにもありませんでした。

長船氏は刀工としてだけでなく、地域の有力武士としてこの辺りを治めるようになりました。

長船のイメージと言えば、もちろん刀鍛冶の備前長船ですが、信長の野望ファンにとっては、宇喜多家の家臣、長船貞親、綱直親子です。長船紀伊守とは、この長船親子のことです。父の貞親は越中守とも言われています。

岡利勝、戸川秀安に並ぶ宇喜多三老の一人で、宇喜多家にとって重要な内政向き武将です。備前の武将で長船って名字なので、備前長船に関係があると思っていたら、やはりそうでした。

しかし、最後は親子共に宇喜多家の内輪もめで殺されてしまいます。宇喜多直家の死後、後を継いだ嫡男の秀家が若すぎたため、家臣の統制が上手くできなかったのが原因ですね。

長船紀伊守の解説は無くなってましたが、西行法師の石碑が立っていました。

西行法師は長船を訪れたことがある様で、その時に詠んだ歌が刻まれています。

長船の かぢ(鍛冶)する音の 聞ゆるは
いかなる人の きたふ(鍛う)なるらん

西行法師が生きた平安末期は、古備前派が活躍していた時代ですね。

筆者は旅をする時、Googleマップのクチコミをチェックしていますが、西行の歌も昔のクチコミみたいなもの。900年前も5年前も、書かれたクチコミは、当時の風景を残してくれている貴重な財産だと思いました。

この近くに備前長船の刀匠の菩提寺があるので、今回の備前長船巡りの締めとしたいと思います。

西方寺慈眼院

創建は天平勝宝年間(749~757年)、鑑真によって建立されました。

古くから長船の刀工の菩提寺となっていて、全国的にも珍しいお寺。

最初に訪れた靱負神社と同じく、目が命の刀匠にとってありがたい名前のお寺です。

本堂には、当然の如く刀剣男子と刀匠のゆるキャラが設置してありました。

これがあるだけで、長船って感じがしてくるようになりました。

本堂横の「備前刀匠各霊位供養賓塔」の石碑。多分そう書いてある思う。知らんけど。

これが備前長船の刀匠を弔う供養塔で、毎年10月に刀匠の慰霊祭が行われているとのこと。同時に「びぜんおさふね名刀まつり」も行われ、イベントや青空市も開催されているみたい。

この梵鐘は、備前長船の刀匠、祐定一派の60代目「横山元之進祐定」が1887(明治20)年に寄進しました。

作られたのは1384年(永徳4)年の南北朝時代。

この祐定家ですが、息子が若くなったため、血族は途絶えてしまっているらしいです。

寺のすぐ近くには、横山元之進が備前長船の史跡を残すため立てた石碑があります。

刀というよりナイフの様な形で、切っ先を空に向けて立っています。

祐定家の血筋は絶えてしまいましたが、今も刀匠を目指す若手がおり、その魂や技術は次代に受け継がれていくことでしょう。

ここからだと、長船駅より隣の香登駅の方が近いので、そこまで自転車で向かい播州赤穂行きの電車に乗り、帰路につきました。

最後までお読みいただきありがとうございました。

備前長船巡り Googleマップ

備前長船へのアクセス

公共交通機関🚃🚌
JR香登駅下車 徒歩25分ほど

車🚗
山陽自動車道山陽ICから20分ほど

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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