桜と吉野杉で有名な吉野山。修験道の聖地としても名高く、古来から多くの参拝客が吉野山を訪れた。
下市は、吉野山の入り口に位置している町で、その名の通り、多くの人が行き交う市場、宿場町として発展してきた。
その活況ぶりは「山家なれども下市は都、大坂商人の津でござる」とうたわれ、日本商業史に残るあるモノを発明した。
現在は吉野山の玄関口という役割は薄れたが、今も変わらず下市の産業を支えているのが、吉野杉を使った伝統的な木工製品。
普段、何気なく使っている割り箸の発祥は、なんと下市なのである。
今回は、吉野の商都と呼ばれた町、下市を散策してみた。
下市町巡り、3つのポイント
- 吉野独特の建築様式、吉野建ての町並み
- 吉野杉を使った美しい木工製品
- 日本初の手形、下市札
近鉄下市口駅

京都から近鉄特急で約1時間半、下市の最寄り駅である下市口に到着した。今回、初めて降りた。
ここから南へ5分ほど歩くと、吉野川が流れており、橋を渡った先に下市の町がある。
ちなみに今回使ったのが、近鉄から発売されているKITO・下市温泉満喫デジタルきっぷ。今まで見たことがない切符だったので、使ってみたくなったのが、下市に訪れたきっかけ。
発売期間は2025年12月19日までの様で、その後も継続されるかはよく分からない。

悲しいことに駅前商店街はシャッター街と化していた。吉野一の繁栄はどうなってしまったのだろうか。
これはいわゆるドーナツ化現象によるもので、ここから少し離れた国道沿いにロードサイド型店舗が立ち並んでおり、そっちにお客が流れているのである。
このあたりは今でも、吉野地方で一番人口が多く栄えている地域。ただ往時はもっと桁違いの繁栄を誇っていたのだろう。
駅前からは吉野山の更に南にある、大峰山や洞川温泉へのバスが発着しており、玄関口としての要素は健在である。
吉野川

下市は交通の要衝で、和歌山と伊勢を結ぶ伊勢南街道、北へ行くと橿原や奈良を結ぶ中街道へ、南へ行くと吉野山、大峰山。
中でも特に重要な交通が吉野川。鉄道や自動車が発明される前は、水運が交通の主役だった。
当時、吉野川を行き交っていたモノといえば、吉野の特産品・吉野杉。
特に戦国時代~江戸初期には城下町建設ラッシュがあり、膨大な量の杉が吉野川を下っていった。

吉野川は和歌山県に入ると紀ノ川と名前を変え、和歌山港へ辿り着く。そこから海を介して、大阪や京都へ物資が運搬されていた。

橋の西側では、南から流れてくる秋野川が吉野川に注いでいる。
下市の町を作り、下市と吉野山を結び付けているのが、この秋野川である。

秋野川は吉野山の最南端にある青根ヶ峰が源流で、谷を削りながら下ってきて、吉野川と合流する手前で、谷底平野を作り出している。
秋野川の谷底平野に出来たのが下市の町。川が運んだ土砂の堆積で出来る谷底平野は、非常に細長くなっている。
下市の町で驚いたのが、狭く細長い土地を少しでも有効利用した、建物の立ち並び方であった。
下市の町並み(国道309号)

下市の町割りはシンプルで、南北に流れる秋野川を挟んだ2本の縦軸の道が通っている。右岸側の国道309号線がメインストリート。

町全体には江戸~昭和まで、各時代の建物が残っていて、建物の歴史博物館のよう。
ここは明治に創業した病院だったらしく、今は資料館になっていると看板に書いてあった。見学可能だと思って入ろうとしたが、鍵がかかっていて入れなかった。
現在は下市町内の別のところへ移転したとのこと。

下市にはこの様な黒やグレーの壁の古民家をよく見かけた。理由は調べたがよく分からなかった。

自動車が無い時代の旅人にとって下市は、奥深い吉野山や大峰山に分け入る前の、最後の宿場町であった。
有名な洞川温泉や大峰山寺に行ってみたいが、現代人でも車がない筆者にとっては、交通の便が悪過ぎるので行くのが難しい。
国道309号線は、昔からの街道なだけあって、100年を越す老舗店舗を何軒も見かけた。
幾つか紹介していこう。
寿司うどん 寺坂

一見、普通の古民家かと思いきや、手前の石碑には「すしうとん」の文字が。今まで色んな石碑を見てきたが、こんな石碑は初めて見た。
この店は1863(文久3)年に創業した、寿司うどん屋の寺坂。
この石碑だけで、この日のお昼はここにしようと決めていたが、暖簾がかかっておらず営業中の札もなかったので、休みのようだった。
近くにもう一軒お寿司屋さんがあるので、そっちに行ってみる。
寿司屋 おけ常

幸い、こちらは営業中の様なので一安心。親子4代続いている寿司屋で、店名は初代が桶屋を営んでいたことから。
地元の人気店で、昼過ぎの店内はほぼ満席。観光客っぽいファミリーが数組と地元民であろう一人客が混在していた。

お寿司とうどんが付いている寿司セットを注文。久しぶりに回っていないお寿司を食べたが、めちゃくちゃ旨かった。
握り寿司にはツメ(タレのこと)が塗ってあって、伝統的な江戸前寿司の手法らしい。奈良の山奥で江戸前寿司に出会えるとは驚き。
特に酢飯が抜群で、握りの固さや酢のバランスや絶妙。酢飯が良いと、握りはもちろん、定番の太巻きですらめっちゃ旨く感じた。
柿の葉寿司 やま十

奈良の山奥にもかかわらず、何故かお寿司屋さんが多い下市の町。お寿司の中でも、柿の葉寿司は奈良の名物として有名だが、その発祥はここ吉野地方なのである。
何故、魚がとれない吉野地方で柿の葉寿司が生まれたのだろうか?
江戸中期頃、重い年貢に苦しんだ紀州藩(和歌山県)の漁師が鯖の販路を拡大するため、山を越えて吉野地方へ売り歩いた。
しかし届いた鯖は、保存のための塩でしょっぱ過ぎ、食べることが難しかった。そこで吉野の人は、鯖を薄く切り酢飯に載せた鯖寿司を考案した。更に寿司を保存しておくために、抗菌・抗酸化作用のある柿の葉でくるむという手法が生み出された。
ここの柿の葉寿司は昔ながらの製法で作られているとのこと。

鯖と鮭の2種類があったので、3個ずつ購入した。ここの柿の葉寿司の形は、やや正方形よりになっている。
味の方も他店と違っていて、鯖も鮭も塩味がよく効いている反面、酢飯は酢が控えめな感じ。このバランスがちょうどいい塩梅で、美味しかった。もっと沢山買えばよかった。
柿の葉寿司の誕生秘話を知ると、塩味が効いている方が昔ながらの味だと実感できる。
ちなみに鮭は、明治時代に吉野の料理旅館平宗が、塩鮭の柿の葉寿司を考案したのが始まり。食通の谷崎潤一郎が「陰翳礼讃」で絶賛しているのが、吉野に訪れた時食べた鮭の柿の葉寿司だった。
「今年の夏はこればかり食べて暮らした。それにつけてもこんな塩鮭の食べ方もあったのかと、物資の乏しい山家の人の発明に感心した…」
つるべすし 弥助

国道から山側への道を少し上ると、目を引く鮮やかなベンガラ色の建物が姿を現した。
ここもお寿司屋さんで、寿司屋が多い下市でも、ここはラスボスと言っていい存在感と歴史を持っている。
つるべすし弥助は日本一古い寿司屋の一つ。代々の店主は平家ゆかりの家系で、その創業は平安時代末期。正に源平合戦が起こっている最中である。
まさかこんな古い歴史を持つお店があるとは、下市、恐るべしである。

残念な事に、店は昭和12年に火災で焼失してしまった。現在のは翌年に建て直されたもので、店内には歴史を感じさせてくれる沢山の展示物が、飾られているとのこと。
あぁ~、中が見てみたい!ただ結構なお値段なので、貧乏一人旅の筆者にはハードルが高い。

店はかなり広い様で、こちらの建物にも廊下で繋がっているみたい。
つるべすし弥助は歌舞伎ファンの間で、超有名な店であるらしい。というのも江戸時代に作られた歌舞伎「義経千本桜」に登場している。
「源平の戦いに敗れ、源氏の追手から逃れた平維盛は、下市村へたどり着いた。つるべすし弥助の主人は維盛の父・重盛に恩があるため、維盛を匿った。そこに源氏の追手・梶原景時が現れる。つるべすし弥助の放蕩息子「いがみの権太」は機転を利かせ維盛を助けようとするが…、意外な結末を迎える」。
歴史好きの筆者としても、いつかはここで寿司を食べたい~。
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