かつて神戸の街は新市街・神戸と旧市街・兵庫の二つに分かれていた。
神戸と兵庫の間には天井川である旧湊川が流れており、二つの街の障壁の様になっていた。
また、湊川は天井川のため、一度水害が起こると甚大な被害をもらしていた。
1901年(明治34年)、湊川付け替え工事が完了し、神戸と兵庫は一つの街となった。
旧湊川跡には新しく開発された土地、新開地が開かれた。その賑わいは神戸一の繫華街となり、神戸文化の噴水と称された。
今回は旧湊川を下流から上流へたどりながら、新開地・湊川の栄枯盛衰を解き明かしていく。

新開地・湊川の魅力、3つのおススメポイント
- 下町の雰囲気を持つサブカルな街
「新開地商店街」 - 何故か周りの地形より高い場所にある
不思議な公園「湊川公園」 - 関西三大商店街の一つ
「神戸新鮮市場」
新開地ってどこ
新開地は三宮から西へ約3㎞、本来の神戸の中心駅であったJR神戸駅の近くに位置している。
新開地駅は阪急、阪神、山陽、神鉄が集まるターミナル駅になっている。かつての神戸の中心地であったことを思わせる。
新開地商店街

JR神戸駅から西国街道を南へ行き新開地本通りを曲がると、新開地商店街南側の入り口、チャップリンの姿をイメージしたシンボルゲートBIG MANが見えてくる。
ここから湊川公園まで、かつでの神戸一の繁華街、新開地商店街が続いている。
神戸高速新開地駅がある多聞通まではアーケードがない区間でスカイゲートと呼ばれている。

新開地商店街は名前に反してそこまで新しい商店街ではなく、明治時代に形成されたむしろ歴史のある商店街。
それ以前はここには湊川が流れており、河川付け替え工事により1905年(明治38年)、旧湊川は埋め立てられた。
その跡地に芝居小屋や活動写真小屋(映画館の古称)が立ち並び、新しく開発された土地「新開地」と呼ばれる一大歓楽街が出来た。

元々、神戸の劇場施設等は湊川神社や元町周辺に点在しており、それらが1907年(明治40年)頃から徐々に新開地に集まってきた。
全盛期には24館の劇場、202軒の商店が立ち並びその賑わいは「東の浅草、西の新開地」と呼ばれ西日本最大の娯楽のメッカとなった。
映画評論家の故・淀川長治はこの街で生まれ毎日の様に映画を見て育ち、新開地を「神戸文化の噴水」と称した。
新開地が淀川長治を日本を代表する映画評論家へと育て上げたのだ。

1917(大正6年)年に開業した神戸市電のターミナル駅の一つとなり、多くの人が集まる交通のハブとして賑わいは増していった。
新開地から近い川崎造船所の従業員や福原遊郭で働く女性たちの多くが、新開地に立ち寄るようになった。
更に昭和には神戸市役所、新聞社、映画会社などが隣接して今の三宮の様な歓楽街と行政施設とオフィスが集まった街となり、新開地は最盛期を迎えた。
しかし神戸大空襲によって神戸の町は焼け野原になってしまい、戦後の新開地は衰退の一途を辿ることになる。それは主に次の4つの要因が挙げられる。
- テレビの普及により、映画を見に来るお客が減少したこと。
- 行政組織の拡大により市役所が手狭なってきたため、広い敷地があった三宮に移転したこと。
- 市電が廃止され、交通のハブではなくなったこと。
- 戦後に進駐軍の拠点になったことで、復興が元町・三宮より遅れたこと。
この結果、神戸最大の繫華街の地位は新開地から元町・三宮に移ることになった。そこからの新開地は繫華街どころか「怖い、汚い、暗い=3Kエリア」と呼ばれ行く事が憚られる場所にまで転落してしまった。

平成となり衰退する一方であった新開地の再生を掲げ、地元住民が立ち上がった。
「アート」「遊び」「都市居住」の3本柱を軸にリニューアルが試みられた。生まれ変わった新開地は「B面の神戸」を新しい魅力として掲げている。
B面というのは、レコードやシングルCDでメイン曲のA面、カップリング曲のB面からきている。
神戸のメイン繫華街となったA面の三宮・元町に対して、いい意味で昭和っぽい庶民派の商店街であるB面の新開地。
あえてB面に徹した事は成功を収め、神戸唯一の寄席や昔ながらの映画館がある一方で、新しい商業施設もあり、古さと新しさを兼ね備えた魅力を持つ商店街となった。
新開地こそが真の「BE KOBE!」なのだ。

多聞通から北は新開地2となり湊川公園まで続いている。2の意味がよく分からへん。
ちなみに角にあるSuper D’station39 新開地店は神戸でトップクラスの規模を持つパチンコ店。

ここの商店街はかなり独特な雰囲気があり、店のラインナップのほとんどがパチンコ店とリーズナブルな飲食店になっている。
さっき通った多聞通の南側にも場外馬券場や場外競艇発券場があり、新開地は神戸のギャンブラーの聖地になっているのだ。
建ち並ぶ飲食店はかなりリーズナブルで、武運拙く負けた人にも優しい仕様。

道と店の境目を見ると、商店街内は北へ向けて坂になっていることに気付く。
これは元々、天井川だったのを徐々に低くしていったことで出来た坂である。

湊川公園から完全に高さをなくし急坂にするのではなく、緩やかに下ってくることで商店街を形成することが可能となった。
新開地の情報サイト→新開地ファンへ

新開地商店街東側の道から商店街を見ると、かなりの段差が生じていることが分かる。
この上に湊川が流れていたのだ。当時の写真を見つけることは出来なかったのだが、建物がなく緑が生い茂った石垣となっている姿を見ると、川が流れていたって気がしてくる。
ここで天井川の発生過程を説明しておこう。
山の勾配がきつく流れが速い川には上流から多くの土砂を運んでくる。土砂は流れがなだらかになる中流から下流に溜まっていく。土砂は川の土手や川底に溜まり、川底が高くなっていく。そうなると川が氾濫しやすくなるため、堤防を高くしていく。
その後も土砂は川底に溜まり続けるので、川底は上昇し続け堤防もどんどん高くしていく。この循環によって川は徐々に高い位置に流れるようになるのである。
特に神戸から西宮のエリアは山から海が近く川が急流になり天井川が出来やすい地形になっている。またこれは関西全体に言えることだが、関西地方は古来から日本中心で人口が多く、燃料のために大量の材木を切り出していた。
そのため、木材から石炭へエネルギー革命が起きる明治初期まで関西は禿山だらけになっていた。
木々を失った山は保水能力を失うため土砂が流出しやすくなる。そのため、天井川は関西に非常に多く見られる。
ちなみに天井川の本数1位は滋賀県である。
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