嵐山は京都の人気観光地の一つで、いつ行っても多くの観光客で賑わっている。
しかしその嵐山からそう遠くない奥嵯峨と言われるエリアまで来ると人はまばらになってくる。嵐山の盲点になっている奥嵯峨には素晴らしい観光スポット・鳥居本(とりいもと)がある。
かつて愛宕神社への参拝客で賑わった愛宕街道。その宿場町である鳥居本は門前町の雰囲気と農村の雰囲気を合わせ持つ他ではあまりみられない特徴が魅力の一つとなっている。
その両方の建築様式が残されており重要伝統的建築物群保存地区に選ばれているのだ。
昭和初期には嵐山から愛宕山まで鉄道とケーブルカーが走っていたこともあったりと、鳥居本には長い歴史が詰まっている。
今回は嵐山の穴場観光地・鳥居本の歴史と魅力を紹介する。まずは嵐山の玄関口の一つ京福(嵐電)嵐山駅から散策を始める。
鳥居本、3つのおススメポイント
- 有名観光地から比較的近くにある重伝建地区
- 農村風の茅葺屋根と町屋風の瓦屋根民家を同時に見られる
- 無数の石仏群で有名な化野念仏寺と愛宕念仏寺
京福 嵐山駅(愛宕山鉄道)
嵐山の観光の拠点となる京福電気鉄道嵐山駅。しかし地元ではそんな堅苦しい呼び方はせずに嵐電嵐山駅と呼んでいる。
昭和初期にはここから愛宕山まで愛宕山鉄道が走っていた。しかし戦時中に不要不急路線とされ廃線となってしまい、わずか15年で幕を閉じた。現在は嵐山から愛宕山へはバスがアクセスしている。
京福嵐山駅の一番線ホームにはお土産物屋が並んでおり、かなり広くなっている。昔はここにも線路があり、愛宕山鉄道が発着していた。
右側のカラフルな電灯(京友禅を用いた電灯)が並んでいる不自然に広い箇所に線路が通っていた。
左側の空間に愛宕山鉄道の線路があり、京福電鉄の線路が右へカーブする場所辺りで左へカーブしていた。
現在、嵐山高架橋が通っている下に愛宕山鉄道が走っていた。
JR嵯峨野線と交差する箇所ではオーバークロスして越えていた。現在、この先から愛宕山の登り口の清滝まで続いている府道137号線は元々愛宕山鉄道が走っていたルートに作られている。
五山の送り火 鳥居形
愛宕山鉄道跡の府道137号線を進むと、ゆっくりと左へカーブしてくる。その辺りで前方の山に何かを形作る様に木々が伐採されている箇所が見えてくる。
これは五山の送り火「鳥居形」が灯される曼荼羅山である。
鳥居形が灯される曼荼羅山の麓の地域がその名の通り鳥居本となっている。
これは以前、撮影したもの。送り火は毎年8月16日に行われる。筆者は京都の東側に住んでいるので、西端の鳥居形のみ見ることが出来ない。一度、アップで見たくて目の前まで来たことがあった。
愛宕山鉄道跡である137号線はこの先、鳥居本を通り清滝へ向かっているのだが、鳥居本の町の方は通っていない。
137号線の横に明治以前人々で賑わっていた本来の愛宕街道が通っており、街道沿いに門前町の鳥居本がある。そこへ行くために一旦、二尊院の方へ移動する。
二尊院から嵯峨鳥居本へ
二尊院の入り口には道しるべがあり「右あたご」とある。右が古来から続く愛宕街道なのは分かるが、左は一体何なんだー。
ここにも道しるべが。この辺りまでは多少、観光客を見かけるがここを過ぎると本当に出会わなくなった。
そこから先も雰囲気のある石畳の道が続いているのだが、住宅地に入ってしまうので、筆者自身もこの先に行ったことがなかった。
嵯峨鳥居本 下地区
住宅地を過ぎると、再び伝統的な建物が立ち並ぶ景色が見えてくる。ここから先が鳥居本の重要伝統的建築物群保存地区となる。
鳥居本の始まりには可愛らしい八体地蔵が道の角に並んでいる。左へ行くと府道137号線、右へ行くと祇王寺、二尊院。
本当に不思議なもので嵐山は人でごった返しているのに、そこから決して遠くはない鳥居本には観光客はちらほらしか見かけなかった(外国の方が多かった気がする)。
筆者自身も何度も嵐山を訪れているのに、近くにこんなに素晴らしい観光名所があることに気付かなかった。
道は山あい沿ってカーブを描き緩やかな坂道となっている。高価だが耐火性に優れた白漆喰の塀は江戸明治の金持ちの象徴。
この付近は江戸時代中期ごろから愛宕神社の参拝が盛んになったことで出来た門前町となっている。
明治時代から続く和雑貨の店・井和井。新京極や嵐山の方にもあり、それぞれに趣向をこらした店舗作りをしている店。筆者が愛用しているがま口はいつも新京極の店で買っている。
関西の町屋に多い虫籠窓(むしこまど)。漆喰の町屋建築の2階にある縦の格子状の窓。通風や採光のために設けられている。
化野念仏寺(あだしのねんぶつじ)
鳥居本の重伝建地区をしばらく進んだところに石垣の上へ行く石段が見えてくる。八千体の石仏群で有名な化野念仏寺である。化野(あだしの)という変わった名前は昔のこの辺りの地名で、「無常の野」の意味。
化野念仏寺は多くの文人が訪れており、吉田兼好は徒然草でこのように語っている。
あだし野の露消ゆるときなく、
鳥部山の煙立ち去らでのみ、
住み果つるならひならば、
いかにもののあはれもなからん。
世は定めなきこそ、いみじけれ
現代語訳
あだし野の露が消える時はなく、
鳥辺山の煙が常に上がり続ける様に、
人生が永遠に続くものなら、
どうして「もののあわれ」など感じるだろうか。
人生は限りがあるからこそ、
素晴らしいのである。
これを読んだ時、鬼滅の刃の煉獄杏寿郎のセリフ「老いることも死ぬことも、人間という儚い生き物の美しさだ。老いるからこそ、死ぬからこそ、堪らなく愛おしく尊いのだ」を思い出した。(知らない人はすいません。鬼滅の刃は鬼と人との戦いを描いた漫画。人の命は儚く短いがその想いは千年を超えて受け継がれて、不老不死である鬼を倒すという物語)
筆者は数年前に大病を患ったことがあった。今は完治して元気に過ごさせて頂いているが、一つ変わったことがある。以前よりも生きている喜びを強く感じるようになり、「もののあわれ」が少し分かる様になってきた。命の大切さを味わったお陰かもしれない。
実はここ化野は北の蓮台野、東の鳥辺野と並んでかつての京都の三大葬送地であったという、いわく付きの場所なのだ。
平安時代では火葬はまだ一般的ではなく風葬(ただの野ざらし)にされていた。それを見た空海が遺骸を埋葬し供養の為、五智山如来寺を建立し、その後、法然により浄土宗に改宗され化野念仏寺となった。
化野念仏寺で本堂より仏舎利塔よりも一番大切にされている八千体の石仏が並ぶ西院の河原(さいのかわら)。
ここにある石仏はどれも小さく凝った作りではなく、一般人が愛しい故人の冥福を祈るため彫ったものとなっている。
明治の研究者によると、石仏は平安から鎌倉、室町、江戸と長い時代範囲に及んでいる。この空間だけで千年以上の故人を思う人の思いが詰まっていると思うと儚くも優しい場所に思えてくる。
西院の河原の入り口には梵鐘があり石塔と一直線に並んでいる。西院の河原内では撮影は禁止である。
寺の方に確認したところ外からの撮影はOKだった。外と内の何が違うのか?
おそらくお墓などがある空間はあの世であると考えられており、生者がそこに足を踏み入れた際は物見遊山的なことは慎み、真剣に仏様の冥福を祈ることが大切だからだと思う。
まるで日本ではないような仏舎利塔と鳥居?のようなもの。これはインドのサーンチー僧院にある仏舎利塔を模して建立されたと解説にあった。手前の鳥居はインドの寺院にある「トーラナ」。サンスクリット語で塔門の意味。
このコンパクトなお堂が本堂。あくまで化野念仏寺の主役は西院の河原なのである。
寺の裏に竹林があり、奥へ続く道がある。嵐山の竹林と違い人が少なくて、風に揺れる笹鳴りが聞こえてくる。
竹林を抜けた先には
今の墓地と六面六体地蔵があった。
六体のお地蔵様は仏教でいう六道(地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人道、天道)を表しており、それぞれの世界から救ってくれると解説にあった。
出口の方へ行こうとすると可愛いタヌキが並んでいた。色んなスポーツをしているタヌキが面白い。タヌキの体型からすると無理めな競技があるなー。
物寂しい雰囲気からほのぼのとした雰囲気にするという意表を突く展開で、ドラマチックな演出の素晴らしいお寺であった。
寺から出たところ。この辺りでは道の両側の山が徐々に迫ってきて、この先更に山あいの雰囲気が増していく。ここから上地区に入り、建物の様式も変化する。
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