吉崎御坊跡

御坊跡に行く前に、少し離れたところから全体像を眺めてみましょう。
この丘が、かつて御堂や坊舎が築かれていた吉崎御坊の御山でした。
目の前に湖があり、寺というよりも城が建っていそうな台地で天然の要害といった感じがします。

東側以外は湖に囲まれており、理想的な防御的地形となっています。
吉崎はこれまでの門前町と違い、寺を中心に町全体の防衛を考えた日本で初めての城塞都市(寺内町)でした。
蓮如は関西での布教時、他宗派からの攻撃を受けた経験があるので、その危機意識から町全体を守るという考えに至ったのではないかと思います。

では御山に登ってみます。この細い階段の周りの寺院ももちろん本願寺ですが、その説明は後にして先に御山の上に行きましょう。

今は当時の建物は何も残ってはいません。しかし、当時を偲ばせるスポットが幾つかありました。

蓮如上人の銅像が立っています。
彫ったのは彫刻家として有名な高村光雲。光雲の四大傑作の一つに数えられています。
あとの三体は亀山上皇(博多の東公園)、楠木正成(皇居前)、西郷隆盛(上野恩賜公園)。

ここが本堂跡。蓮如が来た時は原始林で覆われており、森を切り開き整地をして本堂が建立されました。
御堂の広さは五間四方(一辺約9m)だったらしく、丁度、この柵で覆われているくらいの広さだろうか。

蓮如はここからの景色が好きで、2人の弟子と一緒に対岸の浜坂の町や鹿島の森を眺めていました。
今も石に蓮如のぬくもりが残っており、石に積もった雪がいち早く溶けると言われています。
そうだとすると、何か化学的な理由があると思うのですが。

御山からの眺め。対岸は浜坂の町。対岸は山が大半を占めており、わずかな平地に集落が出来ています。

北側は北潟湖が広がり、その向こうにはこんもりした鹿島の森があります。その向こうには日本海が見えます。蓮如はこの景色を眺めて心を和ませていたと言われています。
鹿島の森は北潟湖と大聖寺川に挟まれた半島の様になっていますが、蓮如の時代は島でした。

吉崎御坊に大火事があった時、浄土真宗の聖典「教行信証」の一つが火の中に残されていた。
そこで弟子の本光坊了顕は猛火の中に飛び込んで、持ち出そうとした。
しかし、脱出が不可能と判断し、なんと自分の腹を割いてその中に巻物を入れて燃えないように守り抜いた。
焼け跡から見つかった了顕のお腹から、血で赤く染まっていたが燃えずにいた教行信証が発見された。
そのため、浄土真宗の経本の表紙は赤色になっているらしい。
凄い話ですが、同時に宗教の怖さも感じてしまう話でもありますね。

吉崎御坊は当時、突き出た半島になっていて、防衛を重視した町を建設する場所としては最適地でした。
ここでの町づくりの経験は、その後の山科本願寺や石山本願寺に生かされています。
石山本願寺は織田信長が落とすのに10年かかり、豊臣秀吉がその跡地に大阪の街を造った。
蓮如は超一流の都市プランナーであったのです。
しかし、そんな吉崎御坊も戦乱の渦に巻き込まれていきました。

隣国である加賀守護・富樫正親は勢力を増していく吉崎御坊の力を恐れ、攻撃をし始めたのであった。門徒勢も応戦し、次第に過激化していった。
そこで、蓮如は抗争を避けるため吉崎を退去することを決意する。
北潟湖から小舟に乗り、夕日に照らされた吉崎の山を振り返り一句詠んだ。
夜もすがら たたく船端 吉崎の
鹿島続きの 山ぞ恋しき
吉崎を去ることに未練さが伝わってきます。蓮如にとって門徒勢が過激化し守護勢力と争うことなるとは、思ってもない事態であったと思います。
その後は、日本海を経て小浜に上陸し、再び関西に帰ってきました。

蓮如退去後の吉崎の門徒勢は、遂に守護の富樫正親を滅ぼします。「百姓の持ちたる国」といわれる日本初の宗教自治国の誕生です。
一方、吉崎は1506年、越前の大名・朝倉氏に攻められ灰燼と化し、そこで一旦、吉崎の歴史は止まります。
本願寺 吉崎別院と東別院

山の下には壮麗な寺院群が広がっています。
現在、本願寺は西本願寺と東本願寺に分かれています。
関西に戻った蓮如は、今の大阪城の場所に大坂(石山)本願寺を築き寺内町が形成されていきます。
蓮如の死後、戦国時代になると浄土真宗は織田信長と対立する様になりました。信長との戦いで和睦派(准如)と抗戦派(教如)で分裂をしました。
それにより浄土真宗は本願寺派の西本願寺(准如)と、真宗大谷派の東本願寺(教如)に分かれることになり、双方ともに京都に本堂が置かれることになります。

江戸時代初期、東本願寺が聖地・吉崎に御堂を移そうとし、西本願寺がそれに反対するという騒動が起こった。
結果、幕府の調停によって吉崎の御山は幕府の直轄地となり、麓に両寺院が建立されることになった。
吉崎は唯一、不仲な西と東の本願寺が両隣にあるという日本のエルサレムの様な所となっています。
吉崎別院

こちらの吉崎別院は西本願寺の所属となっています。
念力門は、豊臣秀吉の寄進により京都の西本願寺あったもの。
以前の門は、昭和に起こった福井大地震で倒壊してしまった。
そこで西本願寺から念力門を、百名の信徒によって16台の荷車で運ばれてきたとのこと。


雪が降りしきる本堂。一度焼失し江戸中期に再建された。中には本尊の阿弥陀如来像が安置されている。

中宗堂は江戸時代、対岸の浜坂出身である豪商で熱心な浄土真宗門徒であった松下吉三郎が、蓮如像を安置するため自費で建立したのが始まり。
吉崎周辺の浜坂や塩屋、瀬越村には北前船の豪商がおり、その寄進によって吉崎の本願寺は維持されていました。
となると、北前船が終わった現代では、どの様に寺の維持管理費用を捻出しているのだろうか?
ちなみに両寺院とも拝観料は無料であった。

苔の庭園に佇む資料館。

資料館の案内板。
次は東本願寺の方へ行ってみる。
吉崎東別院

東本願寺所属である吉崎東別院の山門。緑が多い西に対してこちらは重厚な雰囲気。

こちらも本堂は江戸中期に再建されました。本堂の廊下の周りにもガラス戸が付けられている。
かなりの年代を感じさせる西本願寺の本堂に対して、こちらはかなり新しくきれいに改装されています。

西本願寺の方は跡地しか残っていなかった鐘楼。この鐘楼は必見ですね。
屋根の下の木の組み方が芸術的なまでに複雑で、釘を使ってない様な気がする。下の入り口から中へ入れそうなので入ってみます。

中は所々破損しており、恐る恐る登ってみた。やはり釘を使っていないようである。とりあえず鐘を撞くのはやめておいた。

太鼓堂は本堂と同時期に建てれており、名古屋城の櫓と同じ建築様式とのこと。こちらは本当に釘類を一切使わずに建てられています。
江戸時代には刻を知らせる役割を果たし、明治時代には吉崎小学校として多くの子供達がここで学んでいたらしい。昭和以降は宝物館となっています。

昭和初期に発生した福井地震にも倒壊しなかった。吉崎のメインシンボルとなっています。

展示物にも色々と違いがあるのだが、仏教にそこまで詳しいわけではないのでよく分からない。
一つ分かるのが左端の蓮如上人御影道中神輿・神輿車。これは東本願寺オリジナルのものです。

東本願寺で特に凄い行事が蓮如上人御影道中。
毎年4月17日に蓮如の御影(肖像)を神輿に載せて、徒歩で京都の東本願寺からゆかりの地を巡りながら吉崎東別院まで運ぶ行事が行われる。
約240㎞を1週間歩きぬき4月23日に到着するらしい。もちろん、帰りも一週間かけて徒歩で戻る。300年以上続いている行事となっている。
願慶寺

ここは蓮如が吉崎にやってきた時、吉崎に住んでいた和田重兵衛が蓮如の弟子となり建立した寺。
当時は道場の一つで、蓮如の吉崎退去後も守り続けていました。吉崎東別院の真隣になのだが山門は別になっています。

江戸中期、この本堂を御坊として吉崎御坊願慶寺となった。所属は東本願寺となっています。
ここにも吉崎寺でもあった嫁おどし肉附面がPRされています。
ここは中に入ることが出来ました。ここにきて見る機会に出くわすとは。

写真撮影は禁止の様だったので、代わりにパンフレットの写真を載せておきました。
和田住職(和田重兵衛の子孫とのこと)のお話によると、
「昔、信心深い嫁がおり吉崎御坊を参拝していた。それを疎ましく思った姑が参拝をやめさせようと、鬼の面を付け待ち伏せして脅した。
しかし嫁は全く動じず、それどころか面が顔に食い込み外さなくなった。
助けを乞う姑に嫁は蓮如の教えと説き、改心した姑が南無阿弥陀仏と唱えると面はポロリと外れた」という話でした。
その後、面を寺に預け、各地で布教する際に面のレプリカを持ちこの話を語り歩いたらしい。
様は布教のための宣伝PRの一環ということですね。
どんなに良い商品でも宣伝が下手だと伝わらず、効果的なPRが出来るかが成功のカギとなるのは、ジャンルや時代を問わないですね。
吉崎御坊 町巡りGoogleマップ
左上の旅猫の左の→をクリックしますと、番号に対応した歴史スポットが表示されます。散策の際はご活用いただければ幸いです。
吉崎御坊へのアクセス
電車🚃とバス🚌
IRいしかわ鉄道大聖寺駅から加賀周遊バスCANBUSで20分、吉崎御坊蓮如上人記念館バス停で下車
車🚗
北陸道加賀ICから約5分
長文でしたが最後までお読みいただきありがとうございました!

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