駿府九十六ヶ町
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駿府城の改修に合わせて、家康は城下町の整備に着手した。駿府の城下町の基礎は今川氏時代に造られ、京の都をイメージした町づくりがされ碁盤の目の町割りになっていた。戦乱で荒れ果てた京の都を逃れた一般庶民や、多くの公家や文化人が駿府に集まってきた。
その後、家康が駿府を領有し、大御所として隠居の地と選んだ時、駿府は更なる発展を遂げる。
家康は全国から職人や商人を呼び寄せ、同業者を同じ町内に住まわせた。碁盤の目状のそれぞれの町には、住んでいる職業に由来する町名がつけられ「駿府九十六ヶ町」と呼ばれた。
この時、駿府の人口は10万~12万人に達した。これは当時の人口ランキング一位の京都30万~40万、二位の大坂20万、三位の江戸15万の次にランクインする人口規模で、三都を除けば駿府は日本最大の都市にまで発展した。
この時につけられた町名は今も半分ほど残っており、後世に伝えるためそれぞれの町に町名碑が設置されている。その中で幾つか印象に残った町の紹介をしよう。
札之辻町
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札之辻町は駿府城大手門から出て七間町通りを進んだ先にあった。駿府の町の中心で、高札が立てられていた。札之辻の地名は全国で見られ高札が立てられた場所を札之辻と呼ぶ。高札とは幕府や藩の法令や政策、禁制を一般庶民に知らせるための掲示板の様なものだ。
また七間町通り沿いに北上した東海道はここで呉服町通りを東に曲がっていた。札之辻町は現在は呉服町と七間町に吸収されなくなっている。しかし近くの店の名前(セブンイレブン札の辻店等)で残っている。
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この札ノ辻と駿府城の間には静岡市役所があり、江戸時代には奉行所が置かれていた。市役所の前には奉行所址の碑や静岡の由来、江戸時代の用水路の説明がある。
県庁や裁判所、学校なども城の近くにあり、藩の城跡の近くに行政施設が集中しているというのは、多くの街と共通する点だ。
駿府の町は江戸時代の同業種集中区画政策により他と比べても行政施設の集中度合いが高く、見事に城の周りを官公庁・学校等が取り囲んでいる。
城の前の碁盤の目の町には商店街・飲食店等が立ち並んでいる。江戸時代からの整理された区画にはある種の緊張感があり美しさを感させる。(下部の地図参照)
両替町
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京都にも同名の通りがあり、東京にもかつて新両替町があり、現在の銀座に位置していた。これらの全ての場所には共通点があり金や銀を鋳造する施設、金座と銀座(今でいう造幣局)があった。
その近くには金銀の売買や預金、貸付、為替取引を行う両替商が店舗を出していたことから両替町とつけられた。云わば江戸時代の金融街といえる。
徳川家康によって最初の銀座が設立されたのは京都伏見だ。その後現在の中京区両替町通御池に移転した。2番目に設立されたのがここ駿府の両替町である。
多くの両替商でひしめき合っていたが、数年後江戸の将軍に政権を統一されるため駿府の銀座は江戸に移転された。それが今の銀座にあたる。すなわち東京の銀座のルーツは静岡の両替町にあるということである。
紺屋町(こうやまち)
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紺屋とは元々、紺に染める藍染職人の事を指しており、駿府九十六ヶ町でも特に古く今川氏時代から形成されていた。江戸時代には染物屋全般を総称する呼び方となり、染物屋が集まった町だった。
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写真は江戸時代、紺屋町にあった代官屋敷で、明治時代には静岡藩の勘定組頭となった渋沢栄一によって商法会所になった。商法会所は常平倉と名を変え、近くの教覚寺に移転した。
その後、静岡で隠居していた最後の将軍、徳川慶喜の屋敷となった。慶喜は庭師を呼び寄せ、池泉回遊式庭園である浮月楼庭園を作庭させた。現在は庭園の魅力を生かした料亭・レストラン・結婚式場「浮月楼」となっている。
上魚町(かみうおちょう)
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この町は読んで字のごとく魚屋が数多くあった町だったので上魚町と命名された。更にもう一つこの町の重要なスポットが金貨の鋳造を行っていた駿河小判座(金座)である。銀座と同じくしばらく後、江戸に移設された。
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駿河小判座が設立されたと同時に建立された金座稲荷神社。金座はなくなったが、神社は今も金運の神様として鎮座している。しかし上魚町は昭和の時に金座町に改称されたので、むしろ金座のイメージが強くなり上魚町は碑に残るだけとなった。
茶町
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徳川家康はお茶を非常に好み、お茶取引専門店を集めた町「茶町」を誕生させた。お茶の町静岡の始まりは静岡出身の僧侶、聖一国師(1202~1280)が宋からお茶を持ち帰り、現葵区足久保に種をまいたことから端を発している。
足久保は上質なお茶を生み出し、徳川家康も深い味わいの足久保のお茶を愛飲し後に御用茶となった。足久保を含む安倍川、藁科川流域は今も高級煎茶を生産し続けており、静岡本山茶と呼ばれている。町名碑がある茶町通りには今も多くのお茶問屋が軒を連ねている。
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安西町
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安西の由来は文字通り、かつては安倍川の西側にあったことによる。安倍川は徳川家康の天下普請以前、現在よりも東寄りを流れていた。それを町の安全確保の為に町の西側を流れるように変更したのである。
安西町の東端は材木町に近く、安倍川がその付近を流れていた頃は、安倍奥の山々で切り出した材木を安倍川に筏で流し材木町で水揚げしていた。そのため、安西町にも木工関係の職人が多く住んでいた。
また茶町も近く安西町にも多くのお茶問屋が集まっていた。川は近代以前の流通の大動脈であったので川に近い町には多くの問屋や倉庫が集まり易くなる。
地図
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安西町の北側には、安倍川の西にあるはずの安西町が安倍川の東に移らせた巨大な土木工事の痕跡、「駿府御囲堤(通称薩摩土手)」が鎮座している。駿府繁栄の秘密を探る旅最後のスポット、薩摩土手に移動しよう。
薩摩土手
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安倍川の流路を変更し駿府の町を守っているのが、家康による安倍川最大の洪水対策事業「薩摩土手」だ。
現在は途中で合流している安倍川と藁科川(わらしながわ)は、戦国時代以前は別々のまま海に注いでいた。
安倍川の方は駿府城と安西町の間を流れており、一度洪水が起こると駿府の城下町に甚大な被害をもたらす。そこで徳川家康は安倍川の流れを西へ遷し藁科川に合流させるための堤防普請を全国の大名に命じた。
完成した築堤は薩摩藩主・島津忠恒によって運び込まれた石材や木材によって造られたと地元で伝わり薩摩土手と呼ばれた。しかし実際のところ薩摩藩がどの程度関わったかは不明の様だ。
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薩摩土手は賎機山西側の井宮妙見神社から南西方向へ伸び、現在の駿河区中野新田まで続いていたと言われている。新田という地名は江戸時代に新しく開発された田畑というのが由来のため、安倍川の治水工事によって中野新田にも新しく田畑を作れるようになったのだと思う。
現在は上流区間のみが残っており、予備的な堤防として機能している様だ。下流区間にはさつま通りという道があり、そこがかつての薩摩土手で言われている。
薩摩土手には3つの取水口が造られており、そこから駿府の城下町へ用水路を通した。安倍川は清流として名高くそれを町中の隅々まで張り巡らさた駿府用水は駿府の名物であった。
用水は様々な事に利用され、汚したものには厳しい処罰が課され官民一体となってその美しさを守り続けていた。清流の都と言うべき駿府の町は、家康が計算し尽くした都市計画の最高傑作と言えるだろう。
駿府 全体マップ
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駿府へのアクセス
鉄道🚃
・JR東海道線静岡駅下車。
・東海道新幹線静岡駅下車。
車🚙
・東名高速道路・静岡IC下車。約10分
長文でしたが最後までお読みいただきありがとうございました!
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