静岡県庁 展望ロビー
駿府城の南にある静岡県庁には無料で観覧が出来る21階の展望ロビーがあり、駿府の町を一望出来る。
駿府城の外郭南側に建っているため、駿府城全体見るのにも抜群のスポットでもある。
写真は桝形虎口を上から見たところで、侵入者を囲い込むように櫓が配置されている様子がよく分かる。
中心に本丸御殿があり、天守閣は城の左上の茶色の部分がそうで、上から見るとかなりの巨大さであったことが分かる。
次は静岡平野全体を見てみる。
右側から伸びてきている手前の山が賎機山(しずはたやま)で、途中で尻すぼみの様に低くなり無くなっている変わった山並みである。
その先端には家康公が元服式をあげた静岡浅間神社が鎮座しており、何とも意味ありげな位置にある。
これは行ってみる必要がある。
写真には見えないが賎機山とその向こうの山の間に安倍川が流れている。
南西方向に目を転じると、駿府の城下町が広がっており、東海道本線と新幹線が静岡市と焼津市の間に立ちはだかる満観峰に向かって伸びている。
家康公はもし敵が攻めてくるとしたら西国大名が西から攻めてくると想定していた。この山と安倍川が西から攻めてくる敵に対しての防御線になっているのである。
東側は広い平野と小高い丘があり、遠くには海が広がっている。東は幕府のお膝元・江戸があるので、西側程は攻められる可能性は低い。
海が見えるところには静岡の外港、清水港と三保松原で有名な三保半島がある。静岡付近には入り江が全くなく港を造ることが難しい。しかし程よい距離に天然の良港の清水港がある。
攻められる可能性がある西側の防御力は高く、可能性の低い東側は広い平野と港がある。正に理想的な地形となっている。
次は賎機山の先端にある静岡で最も古い神社、静岡浅間神社に行ってみよう。
静岡浅間神社(しずおかせんげんじんじゃ)
県庁を出て、西へ進むと静岡浅間神社の門前町、浅間通り商店街が神社の前まで伸びている。
浅間通りを進むと正面に赤い鳥居、静岡浅間神社が見えてくる。
静岡浅間神社はメインとなる3つの神社、神部神社・浅間神社・大歳御祖神社から構成されている。
まずは家康公が元服式をあげた一番豪華な社殿もつ神部神社・浅間神社に行ってみる。
横が工事中なのが残念だが、日光東照宮の様な超豪華な楼門。
江戸時代後期の1816年(文化13年)に建てられたもので、神部神社・浅間神社の入り口にある。楼門は一般的には寺の入り口にある門で、神社には非常に珍しい様式。
これは明治以前は神仏習合と言って、神社と寺が同じ敷地内にあることは普通のことであった。今もその名残が残っている。
平成の大改修により楼門は鮮やかやな姿に生まれ変わり、江戸時代から続く宮大工・立川流による彫刻が随所に施されており、その数なんと111にものぼる。
注連縄や門の両端の木鼻(柱が突き出た部分)には獅子、その上には力神、獅子の間には虎の彫刻があり「虎の子渡し」を描いている。
「虎の子渡し」とは中国の故事で、虎が子供を三匹産むと、必ず豹が一匹まじり、親虎が目を離すと他の二匹を食べようとする。その為、川を渡るとき小虎と豹だけにしない様に、親虎は運び方を計算する必要がある(親虎は一匹ずつしか運べない)。右側の虎が親で豹を運んでおり、左側で二匹の小虎が待っている。この後、どうすれば無事三匹とも対岸に運べだろうか?
神部神社・浅間神社
またまた豪華なこの建物は珍しいことに神部神社と浅間神社の2つ大拝殿となっている。この後ろに両神社の本殿がある。
この大拝殿は神社建築の高さ全国第二位の出雲大社本殿の24mより1m高く、日本一の社殿となっている。
近年の調査によると建立当時は出雲大社が日本一の高さを誇る社殿だった様だ。
神部神社
神部神社は静岡県で最も古い神社で約2100年前(弥生時代)に鎮座されたとされている。
静岡駅から少し南に行ったところにある登呂遺跡の頃からあったことになり、当時の人々にとってもこの場所は重要な場所だったと思われる。
浅間神社
総称の名前にもなっている浅間神社は三社の中でも新しく、平安中期の901年に全国の浅間神社の本宮である富士山本宮大社から勧請された。
家康公が元服式をあげたのがこの浅間神社で、14歳のとき、今川義元から元の字をもらい竹千代から松平元康と改めた。
その後も徳川家にとって大切な神社で、現在の姿になったのは一度火事で焼失した後、徳川幕府が巨費と投じて再建してからである。
立川流を始め多くの職人は造営に尽力し、様々な模型、漆器などの工芸品も手掛けるようになる。
その結果、駿河漆器や駿河指物といった伝統工芸品を生み出し、職人の技術は現在に受け継がれタミヤ模型を始めとしたプラモデル産業に繋がり発展し、静岡は日本一のプラモデルの生産量を誇る聖地となっている。
大歳御祖神社(おおとしみおやじんじゃ)
大歳御祖神社は応神天皇の時代、約1700年前に鎮座された神社で、当時は近くに流れる安倍川の河畔に市が開かれており、農・漁・工・商業の繁栄の神様として祀られている。
静岡県庁から見たように静岡浅間神社の三社は富士山塊から南へ伸びる賎機山(しずはたやま)の南端に位置している。富士山塊を手のひらとすると賎機山はその指先にあたる。
その中でもこの大歳御祖神社その指先に向かって真正面に鎮座している。この付近の地名を宮ヶ崎町といい、古代の人々は岬のような先っぽを神が宿る土地と考えていた。この賎機山は神奈備山として信仰の対象であったと思う。
更に面白いことに大歳御祖神社の後ろには古墳(後述で紹介)、神社の前には参道があり山、古墳、神社、参道が一直線に配置されている(下の地図参照)。その参道は駿府城の南、江戸時代に整備された駿府の中心地に続いている。
安倍川は賎機山の西にあり、それは正に絶妙な位置で、安倍川が氾濫したときに山の東側を洪水から守ってくれているのだ。駿府は賎機山という自然堤防に守られている土地なのである。
静岡浅間神社付近の地図
賎機山古墳(しずはたやまこふん)
賎機山古墳は大歳御祖神社の本殿裏側にあり、参拝するときは本殿と共に手を合わせることになる様に配置されている。
古墳の築造時期は6世紀後半とされているので、大歳御祖神社より少し後に造られたことになる。当時、既に神社があった聖地に古墳を築造するということは、かなりの有力豪族の王の墓だったのではないかと思う。
石室内は既に盗掘に荒らされていた様だが、土器・武具・装身具・馬具などの多くの副葬品が出土した様だ。
土器はこの時代の主流でした土師器(素焼きの土器)とこの時代から主流となり始めた須恵器(窯で高温焼成した土器)の両方が出土し、金属製の装身具や馬具も出土したとのこと。
古墳というものはどこも大きくその全体像が把握しにくいのだが、ここには分かりやすい模型が置いてあった。断面が見えるように作られているため、内部の様子も非常に分かりやすくなっている。さすが模型大国静岡。
賎機山と安倍川こそが静岡平野に安定した農業開発をもたらした。
そこで家康公は駿府城と城下町の洪水のリスクをより減らすために巨大な土木工事を行った。
次はそれを見に行こう。
薩摩土手
現在は途中で合流している安倍川と藁科川(わらしながわ)は、戦国時代以前は別々のまま海に注いでいた。
安倍川の方は駿府城と安西町の間を流れており、一度洪水が起こると駿府の城下町に甚大な被害をもたらしていた。そこで家康は安倍川の流れを西へ遷し藁科川に合流させるための堤防普請を全国の大名に命じた。
賎機山の先端から現在の安倍川の沿って駿府の町を守る様に造られたのが、安倍川最大の洪水対策設備「駿府御囲堤(通称薩摩土手)」だ。
完成した築堤は薩摩藩主・島津忠恒によって運び込まれた石材や木材によって造られたと地元で伝わり薩摩土手と呼ばれた。しかし実際のところ薩摩藩がどの程度関わったかは不明の様だ。
薩摩土手は賎機山西側の井宮妙見神社から南西方向へ伸び、現在の駿河区中野新田まで続いていたと言われている。
新田という地名は江戸時代に新しく開発された田畑というのが由来のため、安倍川の治水工事によって中野新田にも新しく田畑を作れるようになったのだと思う。
現在は上流区間のみが残っており、予備的な堤防として機能している。下流区間にはさつま通りという道があり、そこがかつての薩摩土手で言われている。
ここが安倍川との合流地点。
安倍川の河川敷までやってきたが、川が見えないくらい広い堤防となっている。今も水かさが増した時の為に、川幅を広くしているのである。
理想的な地形である駿府に人の手を加えることで、より生産性の高い土地にした家康公。
青春期、壮年期、老年期と長い間、駿府で暮らし土地を知り尽くしていたからこぞ、出来たことであった。
最後に家康公が今も眠っておられる久能山東照宮に行って、旅を締めくくろうと思う。
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