静岡歴史観光 古代から現代まで駿府が静岡の中心であり続ける秘密

駿府城 登呂遺跡 静岡浅間神社

駿府(すんぷ)は現在の静岡県静岡市の旧名で、奈良時代に国府が置かれ駿河の首府で駿府と呼ばれていた。

それ以来、駿府は室町~戦国の今川氏、江戸時代の徳川氏と領主が移り変わっても駿河の中心地であり続け、現在も静岡県の県庁所在地として繁栄を続けている。

多くの国府は、社会形態が大きく変化した室町~戦国時代に新たな中心都市が作られたことにより国府としての地位を失った。現在は府中市や国府町といった地名で残っているが、所在不明となってる国府もある。

駿府は奈良時代の国府が現在も地域の中心となっている数少ない都市の一つでなのである現在に至るまで駿河の中心地であり続ける秘密は静岡市の地勢にあった。

今回は駿府の長期繁栄をテーマに静岡の街の歴史スポットを紹介していくそこで今回は古い時代から時間を進みながら紹介していくので、まずは弥生時代の登呂遺跡から今回の旅を始めたいと思う。

静岡の長期繁栄の秘密 3つのポイント

  • 静岡平野に恵みをもたらす安倍川
  • 洪水から町を守っている賎機山
  • 徳川家康による緻密な都市計画
目次

登呂遺跡(とろいせき)

登呂遺跡 全景

静岡駅からバスで南に数分行ったのところに弥生時代の集落跡、登呂遺跡がある。登呂遺跡は第二次世界大戦中、軍需工場建設の際に偶然発見され、日本で初めて確認された弥生遺跡だ。

登呂遺跡は弥生時代後期(約2000年前)の遺跡と推定されており、弥生後期はそれ以前の湿田稲作(湿地に稲を植える)から収穫量がより高い乾田稲作(水を張った田んぼに稲を植える)に進歩した時代であった。乾田稲作は川から田んぼに水を引き込む水路を造る必要があるため、人々は比較的川の近くに住むようになった。

この地域は安倍川の支流が流れており、それによって形成された微高地に多くの集落が作られていた。それらの一つが登呂遺跡で当時の姿が復元されている。写真の奥側が居住域、手前が水田で右手前の方にも広がっている。

5月下旬~6月上旬の田植えの時期には田植え体験が出来る様になっており、筆者が訪れたのは7月下旬で植えられている稲が順調に育っていた。

この登呂遺跡の近くに流れる安倍川はかなりの暴れ川で、当時は支流が網の目の様になっていた。一度川が氾濫すると周囲に甚大な被害をもたらした。

実際2回の洪水に見舞われており、1度目は同じ場所に再建したようだが、2度目の時には登呂を捨て離れた場所に移住したそうだ。今後この安倍川の攻略こそが駿府繁栄のキモとなるわけだ

当時は川に囲まれていた集落が現在は近代建築に囲まれており、なんとも不思議な感じがする。ここだけが別世界で今にも弥生人が家からひょっこり現れてくれそうだ。

平地式住居

登呂遺跡は安倍川の扇状地である湿地帯にあったため、この時代の一般的な竪穴式住居(地面を掘って床にし中心に柱を立て屋根を取り付けた住居)は不向きだった。

そこで地面を掘らずに住居の周囲を盛土にして壁を作り、外周には排水溝を設け水の侵入を防ぐ平地式住居が作られていた。

屋内

住居の内部は見学可能で、屋内は意外に広く屋根も高くて十分なゆとりがある空間だった。天井から吊るされた棚には食材を置き、下のかまどに火をくべて燻製にしていたらしい。

静岡市立登呂遺跡博物館

静岡市立登呂遺跡博物館

登呂遺跡の敷地内には博物館があり、登呂遺跡で発掘された出土品の展示がされている。また当時の登呂遺跡での生活を実感できる参加体験型の展示室もあり、かなり楽しい博物館だった。

米作りは現代では機械化されているだけで、基本はこの時代からあった技術の延長線上にあり、当時の技術の高度さに驚いた。

シアターでは実際に弥生時代の米作りがどの様なものであったかを現代人が体験している様子が映し出され、その時代の農業の大変さを思い知った。

何故、何千年も続いてきた狩猟採集(縄文時代)から当時の技術では大変な農業を始めたのか、それは気候変動により気温が下がり食料の安定供給が不安定になったことが原因だ。

それを解決するために食料を探すのではなく自ら作り出すことで生き残りをはかろうとしたエポックメイキングな出来事だった。しかしこの時から人間と川との戦いは切っても切り離せないものとなってしまった。

それでは次の時代、古墳~平安時代へ移動しよう。

静岡浅間神社(しずおかせんげんじんじゃ)

神部神社・浅間神社の楼門

静岡浅間神社は神部神社・浅間神社・大歳御祖神社の三社からなる神社の総称で、それぞれ別々の祭りが行われ創建年代も違う独立した神社となっている。

写真の楼門は江戸時代後期の1816年(文化13年)に建てられたもので、神部神社・浅間神社の入り口にある。楼門は一般的には寺の入り口にある門で、神社には非常に珍しい様式だ。

これは明治以前の神仏習合の思想で造れられているため。明治以前は神社と寺が同じ敷地内にあることは普通のことであり、今もその名残が残っている寺社は数多くある。

平成の大改修により楼門は鮮やかやな姿に生まれ変わり、江戸時代から続く宮大工・立川流による彫刻が随所に施されており、その数なんと111にものぼる

注連縄や門の両端の木鼻(柱が突き出た部分)には獅子、その上には力神、獅子の間には虎の彫刻があり「虎の子渡し」を描いている。

虎の子渡しとは中国の故事で、虎が子供を三匹産むと、必ず豹が一匹まじり、親虎が目を離すと他の二匹を食べようとする。その為、川を渡るとき小虎と豹だけにしない様に、親虎は運び方を計算する必要がある(親虎は一匹ずつしか運べない)。右側の虎が親で豹を運んでおり、左側で二匹の小虎が待っている。この後、どうすれば無事三匹とも対岸に運べだろうか?

神部神社・浅間神社

大拝殿

写真は神部神社と浅間神社の大拝殿で、この後ろに両神社の本殿がある。この大拝殿は神社建築の高さ全国第二位の出雲大社本殿の24mより1m高く、日本一の社殿となっている近年の調査によると建立当時は出雲大社が日本一の高さを誇る社殿だった様だ。

神部神社
神部神社は静岡県で最も古い神社で約2100年前(弥生時代)に鎮座されたとされている。登呂遺跡の頃からあったことになるので、静岡の歴史の長さのほどがうかがえる。

浅間神社
総称の名前にもなっている浅間神社は三社の中でも新しく、平安中期の901年に全国の浅間神社の本宮である富士山本宮大社から勧請された。

この神社の社殿は全て極彩色に彩られており、日光東照宮や久能山東照宮を思わせる。駿河を治めた徳川家にとって大切な神社で、現在の姿になったのは一度火事で焼失した後、徳川幕府が巨費と投じて再建してからである。

立川流を始め多くの職人は造営に尽力し、様々な模型、漆器などの工芸品も手掛けるようになる。

その結果、駿河漆器や駿河指物といった伝統工芸品を生み出し、職人の技術は現在に受け継がれタミヤ模型を始めとしたプラモデル産業に繋がり発展し、静岡は日本一のプラモデルの生産量を誇る聖地となっている

大歳御祖神社(おおとしみおやじんじゃ)

大歳御祖神社

大歳御祖神社は応神天皇の時代、約1700年前に鎮座された神社で、当時は近くに流れる安倍川の河畔に市が開かれており、農・漁・工・商業の繁栄の神様として祀られている。

地図で見たときこの神社が特に印象的で、静岡浅間神社の三社は富士山塊から南へ伸びる賎機山(しずはたやま)の南端に位置している富士山塊を手のひらとすると賎機山はその指先にあたる。

その中でもこの大歳御祖神社その指先に向かって真正面に鎮座している。この付近の地名を宮ヶ崎町といい、古代の人々は岬のような先っぽを神が宿る土地と考えていた。この賎機山も神奈備山として信仰の対象であったと思う。

更に面白いことに大歳御祖神社の後ろには古墳(後述で紹介)、神社の前には参道があり山、古墳、神社、参道が一直線に配置されている(下の図1参照)。その参道は駿府城の南、江戸時代に整備された駿府の中心地に続いている。

安倍川は賎機山の西にあり、それは正に絶妙な位置で、安倍川が氾濫したときに山の東側を洪水から守ってくれている駿府は賎機山という自然堤防に守られている土地だったのだ。

図1

賎機山古墳(しずはたやまこふん)

賎機山古墳

賎機山古墳は大歳御祖神社の本殿裏側にあり、参拝するときは本殿と共に手を合わせることになる様に配置されている

古墳の築造時期は6世紀後半とされているので、大歳御祖神社より少し後に造られたことになる。当時、既に神社があった聖地に古墳を築造するということは、かなりの有力豪族の王の墓だったのではないかと思う。

古墳の説明

石室内は既に盗掘に荒らされていた様だが、土器・武具・装身具・馬具などの多くの副葬品が出土した様だ。

土器はこの時代の主流でした土師器(素焼きの土器)とこの時代から主流となり始めた須恵器(窯で高温焼成した土器)の両方が出土し、金属製の装身具や馬具も出土したとのこと。

出土品の年代が6世紀後半から7世紀前半に及んでいるため、埋葬は数回にわたって行われたものとされている。

古墳の模型

古墳というものはどこも大きくその全体像が把握しにくいのだが、ここには分かりやすい模型が置いてあった。断面が見えるように作られているため、内部の様子も非常に分かりやすくなっている。さすが模型大国静岡。

玄室の天井にある大きな岩は重さが14トンもあり、その重い岩をここから南に10㎞行ったところの大崩海岸から運んできたと言われている。岩と岩の間は粘土で防水されている。

玄室内の棺は石で出来ており、伊豆で産出された凝灰岩をくり抜いて作られている。蓋の形から家形石棺と呼ばれており、東日本ではあまり見かけない形の様だ。

古墳築造には当時の最新技術が使われているのだが、特に玄室内の技術の高さや、遠く離れた場所に適切な岩があるという知識にも驚いた。

では時を進めて次は戦国時代に移動しましょう。

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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