正明寺
次は日野の中心部から離れ少し北の山裾にある正明寺に行ってみた。この寺は日野の町より歴史が古く、なんと聖徳太子が創建したと言われている。実は滋賀県は聖徳太子が創建した寺が最も多い県なのだ。理由は今の所分かっていないようである。
写真の本堂は、江戸時代に後水尾天皇から京都御所の清涼殿を下賜され移築したもので重要文化財となっている。
今の清涼殿よりかなり小さく、今の清涼殿自体も平安時代のより小さくなっていると読んだことがある。
清涼殿はブチ切れた菅原道真に雷を落とされたり、火災で焼失したりと色々とあったので大きさも変わってきたのだろうか。
堂内にはこれまた重要文化財である「木造千手観音像」と脇侍の「不動明王像」と「毘沙門天像」が祀られている。
秘仏の為、普段は見られないのだが、筆者が訪れた日は聖徳太子薨去1400年と言う事で特別公開されていた。
寺の方に確認したが、秘仏の為、写真撮影はご遠慮願いますとのこと。普通にパシャパシャ撮っていた人がいたが、ちょっと神経を疑ってしまう。
本堂の横には水路があり、経堂(右)と開山堂(左)がある。
経堂がある段差の上からの本堂とその横にある放生池の眺め。周りの瓦屋根に対して、本堂のみが檜皮葺でこの寺に古くからいる長老の様な存在に見える。
山門。この日は特別大開帳の初日だったためか、かなりの参拝客で溢れていた。
近江牛 レストラン岡﨑
そろそろ昼ご飯しようと思い、日野で有名なレストラン岡﨑に行ってみた。ここは近くにある直営の牧場で近江牛を育てており、その岡﨑牧場は飼育農家として6代の歴史を持っている。
近江牛の歴史は450年前にさかのぼる。その誕生は実は日野の英雄、蒲生氏郷公に関係している。
1590年(天正18年)蒲生氏郷が豊臣秀吉の小田原城攻めに参加した時、同僚であるキリシタン大名の高山右近から牛肉を振る舞われことがきっかけで日野で食用牛の畜産を開始した事が始まり。
牛の畜産は東近江全体に広がり、彦根藩では牛肉の味噌漬けが名物で、将軍や有力大名に送っていたらしい。
牛肉が好きな方には蒲生氏郷が治めた近江、松阪、会津にはある一つの共通点があることに気付かれたと思う。
三ヶ所とも有名ブランド牛の産地なのである。氏郷はかなりの牛肉好きだったのかも。
シンプルに牛丼を頼んでみた。何度か近江牛は食べているが、どこもそんなに高くないのにめっちゃ旨い!
レジの下には近江牛グランプリのグランドチャンピオンに輝いた記念の額縁が飾られていた。
日野町かど感応館(旧正野玄三薬店)
日野のメインストリート日野商人街道には近江日野商人館で紹介した、日野を薬の町にした正野玄三の薬店がある。
玄三が開発した感応丸は万病に効くと評判になり万病感応丸として大ヒットした。正野玄三が興した製薬業は明治維新後も続き、昭和には日野薬品工業となり、現在も続いている。万病感応丸は今も日野薬品工業から販売されている。
現在は薬店ではなく観光拠点施設となっており、お土産が売られている。
当時の帳場がそのまま残されている。
隣の蔵は喫茶軽食コーナーになっている様だった。
日野守貞
旧正野玄三薬店から少し東へ進んだところまで昔ながらの町並みが続いている。その並びに日野守貞がある。
ここは明治の近江商人屋敷をリノベーションし、蕎麦屋、喫茶店、ギャラリーが集結した複合施設。来年には旅館もオープンする予定とのこと。元々どういう近江商人が暮らしていたのか、調べたが全く分からなかった。お店の人に聞いておけばよかった。
食事は近江牛を食べたので見学だけ出来ないかと思っていたところ、隣の駐車場からも入ることが出来る様になっていた。
入口横の案内図。近江商人の屋敷の造りに「八幡表に、日野裏」と言うのがあり、近江八幡の商人は玄関に財をつぎ込み、日野商人は奥座敷に財をつぎ込むと言う意味。
この屋敷は正にその通りになっている。最初、街道沿いの入口は普通だと思ったが、横の駐車場から見ると奥の広さに驚いた。地図を見ると更にその奥まであったという。日野商人の奥の深さは計り知れない。
蕎麦屋の前の庭園。
カフェは狭い路地を抜け小さな橋を渡った奥にある。隠れ家的な雰囲気。
カフェの前にも庭園。
シックな雰囲気のギャラリーは蔵を改造して作られている。蔵を利用した施設ってどこもお洒落な気がする。
信楽院(しんぎょういん)
読み方が非常に難しい寺、信楽院。信楽とあれば信楽焼で有名な「しがらき」と読むと思っていたが、ここの信楽「しんぎょう」は仏教用語らしい。ただ信楽(しがらき)とも無関係ではなく元々は信楽(しがらき)にあったそう。訳が分からなくなってきた。
ともかく日野には室町時代に移ってきた。移転後は日野の領主・蒲生家の菩提寺となり、蒲生氏郷公の遺髪塔が建立されている。
蒲生氏郷の遺髪塔は境内隣の墓地の最奥にあった。氏郷のお墓は会津若松と松阪にもあるそう。関ヶ原の戦いが起こる数年前、40歳と言うこれからと言う年で亡くなってしまった。
ここは筆者の余談が過ぎたので読み飛ばしていってもらって大丈夫です💦
氏郷がもし秀吉の死後も生きていたら、家康の天下取りはどの様に進んだのと想像が膨らむ。
秀吉が氏郷を会津に転封させた時、蒲生家は92万石で徳川家康、毛利輝元に次ぐ第三位であり伊達政宗の抑えの為だと言われている。秀吉にとって外様以外で大封を与えている人物は氏郷しかいないので、おそらく五大老の一人に選ばれていた可能性が高い。
そうなると史実での家康とっての仮想敵であった毛利、前田、上杉に蒲生も加わることになる。おそらくは前田利家の死後、前田家を屈服させるところまでは史実と変わらなかったと思う(若い前田利長では家康に対抗できないし、金沢と会津では遠すぎて連携が取れない)。
家康が次に喧嘩を吹っ掛かけるのは上杉だが、氏郷が存命で会津が領地(上杉家の領地は越後のままと思われる)だと、上杉家と蒲生家は越後と会津で隣接しており、家康にとってかなり難しい情勢になっている。
ここからは筆者のチープな想像力では予想が出来ない。確実なのは蒲生氏郷はそれほど歴史に影響を及ぼす重要な人物だったということである。
信楽院には必見の価値ありの芸術品がこの本堂にあるのでそれを忘れずに見に行く。
この時点ではまだその情報を知らなくて、仏壇が金ぴかでゴージャスな感じであまり好みはなく、他に特に何もなさそうなので一旦、本堂の外へ出た。
一応、ウィキペディアで見逃したものはないかと確認したら、完全に盲点である場所にそれはあった。
なんと天井に荒れ狂う龍の姿が描かれていた。こんな雄大な作品に目が入らず、何かないかと物色していた筆者の姿は天井の雲龍からはどの様に映ったのか。
雲龍の左右にも水墨画が描かれており、力強い画力に圧倒される。
日野出身の画家・高田敬輔(たかだけいほ)によって1743年(寛永3年)に描かれた。特に雲龍図は最大の傑作と言われているそうだ。
コメント