志摩市阿児町国府(あごちょうこう)は志摩半島の東部、太平洋に面した町。海岸には3㎞に及ぶ美しい国府の白浜(こうのしらはま)が広がっている。
奈良時代に志摩国の国府(今でいう県庁所在地)が置かれ、志摩半島では珍しく碁盤の目状に町割りがされている。
海風が強い地域であり、町割りには防風防砂に防火の効果のある槇垣が連なっており、整然とした景観が作られている。
今回は美しい白浜と槇垣の風情ある町並みが魅力の志摩国府を巡ってみた。
志摩国府の面白いポイント
- 碁盤の目状の町並みを可能にしたのは白浜のおかげ?
- 槇垣は町にどんな利点をもたらした?
- 戦国時代に志摩国府に流れ着いた三浦一族とは何者?
近鉄鵜方駅
今回は志摩半島を自転車で一周しようと伊勢志摩に向かった。志摩国府はその中で筆者が取り上げようと思った町の一つ。
伊勢志摩へは近鉄からお得な切符が発売されており、今回は伊勢神宮参拝きっぷ使った。
行き帰りの特急券が付いていて、更に松阪~賢島間が3日間乗り放題という神のような切符。
近鉄京都駅から乗り換えなしで鵜方まで直通する特急を狙って乗車。
大和八木駅では直通特急でしか経験出来ない新ノ口連絡線を通り、これから伊勢に行く気分が盛り上がった。
約2時間45分で鵜方駅に到着。賢島まで行く人よりも鵜方で降りる人の方が多いようだった。
鵜方駅のバス乗り場には長蛇の列が出来ていた。
えっ?!志摩国府ってそんなに人気やったかな?と驚いていたが、そんなわけがあるかい。
これは志摩スペイン村に行くバスの列であった。
志摩国府の様なマイナーところに行こうとするのは、筆者の様な物好きだけである。
志摩スペイン村に行く人の方が多いからこそ、スペイン村が安定した収益を得て、地元や近鉄が潤うのである。
筆者が志摩半島で悠々自適な旅が出来るのも彼らのおかげなのである。
彼らに感謝をしながら、数名の地元の人を載せたバスに乗り込んだ。
国府の白浜(こうのしらはま)
約15分ほどバスにゆられ、志摩半島で唯一、白浜が広がる町、志摩国府に到着した。
国府の白浜は緩やかな弧を描く遠浅の海岸で全長3㎞に及ぶ。
モコモコ、ギザギザのリアス式海岸が特徴の志摩半島の中では非常に珍しい。
サーフィンのメッカらしくサーファーと思われる人もちらほら。
北側は海食崖となっており、安乗崎へ伸びる海岸段丘になっている。
町並みも海岸段丘になる辺りが北限で、ここからガラッと雰囲気が変わるのが面白いところ。
堤防を境に緑の芝生が広がっており、公園になっている。
南の方に行くと芝生部分が広くなり、ゴルフ場になっている。
緑で覆われているが全て砂が堆積して出来た砂洲である。
左側が海で、砂は海側から溜まっていくので少し高っており、砂洲の典型的な地形になっている。
砂浜に向かう道も、先が少し上り坂になっている。町自体が砂洲の上に造られている。
志摩半島一の広大な砂洲が形成されたことにより、平らで広い土地が現れた。
そのため、碁盤の目状の町並みを造ることが出来たのだった。
志摩国府の周辺ガイド。3方向を台地に囲まれた平地に、碁盤の目状の町割りが出来ている。
国府とは奈良時代の県庁所在地で、ここが志摩国の中心都市であった。国府がそのまま現在の地名になっている。
奈良時代は国を挙げての中国かぶれで、長安や洛陽の様な碁盤の目状の町を全国に造ろうとした。
志摩半島の様な平地が少ないところでも、目ざとく条里制が可能な土地を探し出している。
国府神社(こうじんじゃ)
国府には現在の県庁所在地の様に国衙(こくが)と呼ばれる役所が置かれていた。
その役所の近くには、総社と呼ばれるその土地の神社の集合体みたいなものを設けていた。
下記で紹介する志摩国分寺のお坊さんのお話では、現在の国府神社が志摩の総社で、国衙もこの付近にあったと言われているとのこと。
律令制の崩壊後は、徐々に国府や国衙のことは忘れ去られていった。
国府神社となったのは明治時代で、それ以前は八王子社と呼ばれていた。
国府の名残を感じるものとして、拝殿から一直線に道が続いている。
この道が平安京で言う朱雀大路で、国衙の正門から伸びるメインストリート。
左右対称の碁盤の目状の区画になっており、赴任した国司は「ほ~ら、わが町の美しい幾何学模様が出来ているだろう~?」とか言って悦に浸っていたかもしれない。
槇垣の町並み
幾何学模様以上に、志摩国府で最も印象的な特徴が町中に植えられている槇垣。
志摩国府の槇垣は鉄壁の守り…。風や砂や火など、いかなる攻撃からも住居を守っている。
槇垣の利点は鉄壁の守りだけでなく、地震が起こってもブロック塀の様に崩れたりしないので、避難の邪魔になることがない。
江戸末期に起こった安政東海地震では、槇垣は津波を防ぎ避難経路を確保した。
そのおかげで死者が出なかったと言われている。
正に鉄壁の守り。
平安時代の国司は、ここの槇垣を知る由もなかった。
現在も残る町割りと槇垣を造ったのは、道念和尚と言う戦国時代の坊さんだったからだ。
一体、何者?
源慶寺(げんきょうじ)
道念和尚は浄土真宗の坊さんで、布教のため志摩を訪れ源慶寺を建立した。
当時の坊さんは知識人で、古くは空海や行基を始め社会公共事業を手掛けた僧侶が数多くいた。
蓮如以降の浄土真宗は町づくりに定評があり、寺内町という自治集落を発明している。
大阪や金沢の原型は浄土真宗の寺内町から始まった。
宗教にはあまり興味は無いが、町マニアの歴史好きとしては浄土真宗はかなり面白い。
信長の野望でも本願寺家は結構好き。
正面に向かって広くなだらかな瓦屋根の本堂。
寺が町の中心に位置しているのが浄土真宗といった感じ。
志摩国分寺
国分寺とは東大寺建立で有名な聖武天皇が、仏教を国教とするために全国に建立していったミニ東大寺の様な寺。
国府神社から北へ行った台地の上で、志摩の国分寺はここにあったと言われている。
奈良時代の国分寺の建立地選びのポイントは
- 水害の心配がない。
- 南向きの土地。
- 国府から近い。
となっており、あと家賃が安ければいう事なしやな。
オリジナルの国分寺は応仁の乱で焼失し。現在の寺は江戸末期に再建したもの。
本尊は室町時代に造られた木造薬師如来坐像で、20年に一度御開帳される秘仏となっている。
筆者が訪れた時はその年ではなかったが、お寺の方のご厚意で少しだけ坐像の御姿を見せて頂けた。
2m近くある立派な薬師如来坐像で、寺のこじんまりとした感じから想定外でかなり驚いた。
寺の方には国府や国分寺に関することも教えてもらい、楽しい時間を過ごさせてもらった。
国府城
戦国前期マニアの皆様、お待たせしました(そんなコアなマニアがどこにいるw)。志摩国府巡りのトリを務めるのは国府城跡。
築城者は北畠氏の家臣、三浦新介。名前だけ聞いても誰か全く分からなかったが、実は意外なところから志摩半島へはるばるやってきた人物だった。
ちょっと後半が読めないが、三浦新介は北条早雲に滅ぼされた相模(神奈川県)三浦氏の最後の当主、三浦義同(三浦道寸)の末子だったのだ。
更に遡れば鎌倉殿の13人の三浦義村にたどり着く。
三浦半島を追い出されても、よく似た感じのする志摩半島で再起を果たしていた。
鎌倉だろうと戦国だろうと北条氏に何度やられても、意外にも生き残っている三浦一族。
歴史旅行で楽しい瞬間の一つが、自分の知っている歴史上の人物やその関係者に、意外な場所で出会える時だ。
個人的に三浦道寸の辞世の句が結構好きで、印象に残っている人物。
討つものも 討たるるものも 土器(かわらけ)よ
砕けて後は もとの土塊(つちくれ)
勝とうが負けようが死ねば誰だろうと土に還るだけって言う、戦国乱世を生きた人の死生観が伝わってくる。
当時の石垣だろうか。左側に上り口があり、そこを登ってみると
石垣の上には広い空間が。ここが国府城跡の最高地点で、おそらく本丸跡だと思う。
本丸跡を下りてきて、少し奥へ行くと伏見稲荷を悲しくしたような連続鳥居が。
三浦一族は代々稲荷大明神を祀っていたみたいで、調べたところ三浦半島にはかなり多くの稲荷神社があった。
逆に志摩半島にはあまり見当たらない。稲荷は文字通り稲の神様なので、漁業が基本の志摩半島では少ないのも当然と言えば当然かもしれない。
三浦新介はその後、志摩半島には侵攻してきた九鬼嘉隆に抗ったが敗北してしまった。
九鬼氏の配下になるのを嫌って飛騨へ逃れたとも、伊勢に侵攻してきた織田信長を頼ったとも言われている。
しかしその後の消息は判明していない。
もとの土塊に戻ってしまった三浦氏を偲びながら、志摩国府を後にし大王町波切の方へ向かった。
長文でしたが最後までお読みいただきありがとうございました!
志摩国府 全体マップ
志摩国府へのアクセス
公共交通機関🚃
近鉄鵜方駅から「志島循環線」又は「安乗線」で約15分「国府」下車。
三重交通公式ホームページへ
車🚗
第二伊勢道路白木ICから約30分
コメント
コメント一覧 (1件)
[…] 志摩国府歴史観光 美しい白浜と風情溢れる槇垣の町並みを巡る […]