大津京歴史観光 幻の都・大津京と天智天皇の足跡を辿る

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近江神宮

近江神宮・楼門

今回の旅の締めくくりとなる近江神宮は、今回のテーマである天智天皇を御祭神とした神社である。大津宮に遷都された4月20日には毎年、近江神宮の例祭「近江まつり」が行われる。

しかし歴史としては意外に浅く1940年(昭和15年)の建立である。明治になったとき、大津市民から天智天皇をお祀りする神社を熱望する声が上がったことで、創建される運びとなった。大津と天智天皇の結びつきを感じさせられる創建秘話である。

拝殿前

楼門をくぐった先には玉砂利が美しく敷かれた空間が広がっていた。現在の大津一の大社にふさわしく楼門と左右に広がる建物は鮮やかな朱塗りになっていて壮麗な感じになっている。。

拝殿前

楼門の正面には拝殿が鎮座している。外拝殿の奥には内拝殿が鎮座している。

本殿

ここで本殿に向かって参拝をする。これ以上は奥には行けないため、本殿の全容を見ることは難しい。

拝殿全体は長等神社と同じく木の色そのままになっている。しかし長等神社の様な不自然さを感じさせず、拝殿は外拝殿、内拝殿、本殿が2つの回廊で繋がっており、巨大な木造建築にただ圧倒されるだけであった。

水時計

外拝殿前には漏刻(水時計)があり、これは天智天皇が日本で初めて作られた水時計を再現している。その為、天智天皇は時計の始祖として崇められ、時刻を制定した671年4月25日(現在の6月10日)を時の記念日とされている。近江神宮内には天智天皇のちなみ、時計博物館が設けられている。

近江勧学館

百人一首の第一番、天智天皇の歌

「秋の田の仮庵(かりほ)の庵(いお)の苫をあらみ
  わが衣手は露にぬれつつ」

この歌が第一番に選出された縁で、近江神宮はかるたの聖地と言われている。この近江勧学館で全国高校かるた選手権や競技かるた名人・クイーン戦が行われる。

館内には競技かるたの隆盛に大きな影響を与えた大ヒット漫画「ちはやふる」の関連のグッズが設置されていた。

映画版ちはやふるで使われたセットが展示されていた。トロフィーは主人公の高校が全国かるた選手権東京都大会で優勝した時のもので、解説によると映画の為に制作会社が実物を元に造った一品とのこと。

近江神宮公式ホームページへ

唐崎神社

唐崎神社

今度は大津京の北側へ行ってみる。唐崎神社は大津京から北へ3㎞ほど行った場所にある神社で、697年に創建され、坂本にある日吉大社の摂社である。

柿本人麻呂の歌
「さざなみの 志賀の辛崎 幸くあれど
  大宮人の 船待ちかねつ」

とある様に大津京の時代には港が存在し、大津宮の人々で賑わっていた様子が詠まれている天智天皇は大津京が敵から攻められた時には、この唐崎から琵琶湖へ撤退すると言う逃走経路を想定していたそうだ。

当時は韓崎、辛崎とも書かれ、ここにも大陸や半島の影響が感じられる。

唐崎神社

社殿の後ろには松があり、その向こうには湖が広がっている。この唐崎神社には多くの松が植わっており、その松に夜雨が降り注ぐ情景を描いた近江八景の一つ「唐崎の夜雨」が有名である。

霊松・唐崎の松

この柵に囲まれた場所の松が近江八景で描かれた霊松で、現在は3代目となっている。初代は1581年(天正9年)に大嵐で倒れ、2代目は1921年(大正10年)に枯れてしまった。今の3代目は2代目の実生で、その遺伝子は受け継がれている。

しかし3代目も樹齢100年以上の老齢化で風雨に耐えられなくなってきている様で、近年多くの枝が切断されたらしい。万が一に備えて4代目の育成をしているとのこと。

ちなみに3代目の松には同じ2代目から実生された兄弟がおり、金沢の兼六園に植えられている。

唐崎神社からの琵琶湖の眺め

志賀の唐崎は歌枕としても有名で、松尾芭蕉も野ざらし紀行でここを訪れ一句詠んだ

「唐崎の 松は花より 朧にて」

湖面に霞がかかっており、朧に見える唐崎の松は桜よりも趣があると詠んでいる。

近江八景の碑と近江富士

近江八景「唐崎の夜雨」の碑。対岸には滋賀県のランドマーク「近江富士(三上山)」が見える。

唐崎神社公式ホームページへ

百穴古墳群

大津京の北には朝鮮式古墳が数多くあり、百穴古墳群はその中の一つだ。旧山中越(志賀の山越え)の麓にあり、6世紀後半頃の築造とされており他では見られない特徴を持っているとのこと。おそらく大津京に亡命してきた多くの百済遺民の墓であると思われる。

上の写真の古墳内部

百穴と言う名だけあって、山の斜面のいたるところに古墳が発掘されていた。しかし分かりづらいものも多く、ここではその中でも古墳の雰囲気をよく残しているものを写真にあげた。

百穴古墳群・案内板

志賀の大仏

志賀の大仏

旧山中越え(志賀の山越え)を更に山に分け入り進むと、小屋の様なお堂が見えてくる。その中にはひと気のない山道には不釣り合いな大きめの石仏が鎮座していた。

地元では「おぼとけさん」と親しまれてる志賀の大仏だ。大きな花崗岩に彫られた阿弥陀如来像は鎌倉時代の作で高さが3.2mはある道祖神である。

志賀の大仏の案内板

天智天皇の時代より後年、大津京より比叡山系を隔てた西側の盆地に新たな都、平安京が築かれる。その平安京と大津間の間道として開通したのが旧山中越えだ。

現在の山中越えはここより少し南側の近江神宮の近くにあり、戦国時代後期に開通したと言われている。それまではこの志賀の大仏を通るルートが元々の山中越えだった新ルート開通以前は多くの旅人や物の往来があり、旅の安全を祈る為に祀られた様だ。

今となっては、ひと気のない山道に忽然と座っており、知らずに通りがかると不気味に感じてしまうなと思う。しかしよくお顔を見るとゆるキャラの様に優しいお顔をしておられ、当時の人もほっこりして旅の疲れが和らいだかもしれない。

崇福寺跡

崇福寺跡の碑

平城京に東大寺、平安京に東寺がある様に、大津京にも崇福寺と言う都を鎮護するための寺があった

天智天皇が大津京造営と同時に建立した崇福寺は志賀の大仏を更に進んだ山の中腹にあり、今は石碑だけが佇んでいる。当時は金堂、講堂、三重塔があった大伽藍だった様だ。

崇福寺跡の案内板

平安時代に度重なる失火や延暦寺と三井寺との抗争に巻き込まれ、焼失し再興されずそのまま幻の寺と化してしまった。

崇福寺跡から旧山中越えを戻る時には、遠くに琵琶湖が見渡すことが出来た。ここからも近江富士(三上山)が目に入ってくる。

こう言う風景を見ていると、大津遷都は単に政治的理由だけで遷都したわけではなく、天智天皇が琵琶湖の美しさに惹かれてのことだった、という想像が膨らんでいく。

大津京 全体マップ

左上の旅猫の左の→をクリックしますと、番号に対応した歴史スポットが表示されます。散策の際はご活用いただければ幸いです。

近江大津京へのアクセス

鉄道🚃 
JR湖西線大津京駅で下車。大津市内の移動は京阪電車が便利。一日乗車券も発売中。

車🚙
名神高速道路・京都東IC下車。大津京駅まで約10分

長文でしたが最後までお読みいただきありがとうございました!

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近江神宮 三井寺 唐崎神社

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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