中之島に残る明治の建築物
明治時代になると諸藩の蔵屋敷は廃止され、跡地には官公庁や企業、銀行が進出しました。淀屋橋から北浜の界隈には今も明治に建てられた建築物が残っています。代表的な建物を幾つか紹介します。
三井住友銀行本店

淀屋橋から土佐堀川を少し西へ行った南側に重厚で渋い薄黄色の建物が堂々と建っています。大阪を代表する財閥、旧住友財閥の拠点。
入口にはギリシャ建築の様な柱に英文で社名「SUMITOMO MITSUI BANKING CORPORATION」が掲げられています。何故か三井と住友が逆になっている。
日本銀行大阪支店

今の大阪のメインストリート・御堂筋を淀屋橋を渡ったところに、堂々と構えているのが日本銀行大阪支店。1903年(明治36年)の建築で、設計者は東京駅の設計で有名な辰野金吾。
こちらにも三井住友銀行と同じくギリシャ風の柱があり、屋根がドーム状になっていて三井住友銀行以上に重厚なヨーロッパ建築を思わせます。
大阪府立中之島図書館

日銀大阪支店から御堂筋を渡り、みおつくしプロムナードを進んだ先には、マジで古代ギリシャに迷い込んだ様な建物が待ち構えています。
1904年(明治37年)に完成した大阪府中之島図書館。建築資金を出したのは国でも大阪府でもなく、住友家の寄付によって建設されました。
入口の横には住友に勤めた歌人・川田順の歌碑があります。
難波津の まなかに植えし 知慧の木は
50年(いそとせ)を経て 大樹となりぬ
正に大阪のアカデメイアといったところ。
大阪市中央公会堂

中之島の図書館の隣には赤レンガが印象的なヨーロッパ建築、大阪市中央公会堂があります。この建物は驚いたことに、たった一人の株式仲買人の寄付によって建てられました。
その人物は岩本栄之助、「義侠の相場師」「北浜の風雲児」と呼ばれ一代の巨万の富を築き上げた人物です。

栄之助は今の資産価値でいう数十億円を大阪市に寄付し、中央公会堂の建設が着工した。毎日の様に大阪天満宮に通い工事の成功を祈るほど完成を心待ちにしていたが、相場の失敗で大損失をしてしまう。
周囲は寄付したお金を返してもらう様に勧めたが「大阪人の恥」として完成目前に拳銃自殺をし果てた。享年39歳であった。中央公会堂はその2年後の1918年(大正7年)に完成。
北浜レトロビルヂング

京阪北浜駅からすぐ近くには、古風で可愛い北浜レトロビルヂングが現代建築に挟まれています。
1912年(明治45年)の建設で、現在は1階が英国雑貨やケーキ、紅茶ショップ、2階が純英国式のティーサロンとなっています。
難波橋

難波橋は数少ない公儀橋(幕府が架橋した橋)で、浪花三大橋の一つでした。ここら辺から中之島は細くなるので、堂島川と土佐堀川にまとめて架かっています。
現在の中之島の東端は天神橋付近であるが、江戸時代は実は違っていました。下の絵を見ると…

これが江戸時代の難波橋。中之島はここで終わっていたのでした。しかし江戸初期は、もっと西へ引っ込んでおり、今の中央公会堂辺りが東端でした。
中央公会堂辺りには備中成羽藩の山崎家の蔵屋敷があったので山崎の鼻と呼んでいました。それが土砂が貯まり江戸中期に難波橋まで伸びことで、風邪ひき新地と呼ばれました。
山崎の鼻が風邪をひいて鼻水を出したというシャレからきています。

難波橋と言えばライオン像。何故ライオン像が設置されているのかは色々調べても分からなかった。
八軒屋浜船着場

現在の中之島の東端までやった来ましたが、中之島が大阪の繁栄にとって重要な場所である2つ目の理由がこの元船着場にあります。
この船着場は安治川からきた船が着く場所ではありません。大川(旧淀川)の上流には当時の首都である京都があり、八軒屋と京都伏見を結ぶ定期便(三十石船)が運航されていました。

京都から大阪が6時間、大阪から京都は川を遡るため12時間もかかりましたが、深夜便もあったので今の夜行バスの様に寝ている間に着きました。大阪は京都にとって川で繋がっている外港だったのです。

明治時代にも続いていたが明治中頃になると鉄道が開通し、三十石船は姿を消しました

実際の江戸時代の八軒屋浜は、少し陸に入った京阪天満橋駅の南側にありました。すなわち、現在の天満橋駅の場所はかつては川だったのです。

船着場は平安時代からあり渡辺津と呼ばれていました。解説によると、渡辺津から熊野街道が和歌山の熊野三山まで通っており、平安時代後期に熊野詣が盛んになり賑わっていたらしい。
最後に大阪港から中之島の発展3つ目の理由を見に行くため、南港にある大阪府庁咲洲庁舎の展望台に上ってみることにしました。
中之島歴史スポット Googleマップ
大阪府庁咲洲庁舎(さきしまコスモタワー)

南港の咲洲地区にある大阪府咲洲庁舎(別名さきしまコスモタワー)は高さ256m、地上55階、地下3階の超高層ビル。
大阪市街地や瀬戸内海を見渡せる絶好の位置に立っており、大阪と海との繋がりを360℃のパノラマで実感することが出来ます。

大阪湾から外側を見てみる。ここに中之島の発展の3つ目の理由があります。新しい埋立地、夢洲の向こうには神戸があり、海は瀬戸内海と繋がっています。
江戸時代、海運は内海である瀬戸内海と夏は穏やかな日本海が発展していたため、京都ー大阪ー瀬戸内海ー日本海というのは重要な海運ルートでした。その中継地点にある大阪・中之島は物資の集散地として非常に便利な立地となっています。

大阪湾から安治川へ、遠くには中之島のビル群が見えます。

夜景を見るため、暗くなるまで待ってみた。
対岸の街のあかりは遥か西の方から大阪に至るまで続いています。

夜になると街全体が輝きだし、人々が活動し経済が躍動している感じが視覚として実感できます。
江戸時代、天下の台所と呼ばれた大阪。今は日本中の物資が大阪に集まるということはありませんが、江戸時代に培われた商売の街としての顔は、今も西日本最大の街として経済を牽引し続けています。
最後までお読みいただきありがとうございました!

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