守口宿歴史観光 町の中に高低差が!文禄堤と生きる町を歩く

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守口大根

乱歩の住居跡の前には、奇妙な十字路があります。十字路の部分だけ少し高くなっています。

道のつなぎ目に後で継ぎ足したような不自然さがあります。

この道にかつての守口宿の産業にとって無くてはならないものが隠されています。道を辿って行くとその答えがありました。

どこかに名残が無いか注意して探していると、これまた不思議な事に気が付きました。

この道には建物の入口が一つも見当たらないのです。裏口は幾つかありましたが、全ての建物がそっぽを向いてしまっています。相当この道は嫌われているようです。

一般的な町割りでは、建物の裏口を背中合わせにし正面玄関を前の道に向けて建っています。裏側同士が背中合わせにすることでプライバシーの保護を確保し、区画を整然と並べやすくなるからです。

入口のない裏側を通る道。一体何のために存在しているのでしょう?

不思議な道を進んで行くと、広い場所に出てきました。正面にあるのは先ほど通った文禄堤です。ここでも建物は裏側だらけです。

正面の壁の下に何か書いてある石板を発見しました。謎を解くキーアイテムでしょうか(笑)。

淀川用水樋門跡

完全には読み解けませんが「淀川用水樋門跡 五ヶ荘」とあります。

この道はかつてあった五ヶ荘用水路を暗渠化したものだったのです。明治以前は文禄堤の横に淀川が流れており、ここに川から取水するための樋門がありました。

田園には水の供給が必須です。しかし守口の地下水は金気が多く、飲み水にも農業用水にも適していませんでした。そこで淀川から水を引き入れる用水路が作られました。

今の守口からは想像も出来ないですが、守口宿の主要産業とは農業だったのです。

淀川用水樋門跡

近くには石材群が放置されていました。おそらく、樋門に使われていた石材だったと思います。

用水路はここで2方向に分かれていました。

用水路は縦横無尽に張り巡らされ、河内平野全体を潤していました。しかし、東洋のマンチェスターと呼ばれるようになった大阪の工業化により、郊外の農地は宅地化され多くの用水路は暗渠になったり埋め立てられたりしました。

面白いことに用水路の名前には西三荘(京阪の駅名にもなっている)、六郷井路、八箇荘水路、二十箇用水路など、その多くには数字が付けられています。これはその用水路を使用していた荘や村の数を表しています。

荘は村より古い言葉で、平安時代の歴史で習う荘園です。荘園とは貴族や寺社が私有地化した土地のことです。幾つかの荘園がまとまり、時代を経て一つの地域名「五ヶ荘」などと呼ばれるようになりました。

引用元:守口市ホームページより

特に守口の名産品となっていたのが、長大根でした。豊臣秀吉が守口村で休息をとった時、大根の漬物が献上されました。秀吉は漬物の風味を賞賛して守口漬と命名し、大根も守口大根と呼ばれるようになりました。

筆者は守口漬と守口大根をずっと大阪の守口の名物だと思っていました。それが名古屋に行ったとき、老舗の雰囲気漂う守口漬けの店を発見し入って見ると、名古屋の名産品とされていたのです。名前が守口なので、勝手に大阪の守口だと早合点していたと思ってしまいました。

真実は二転三転し、筆者が思っていた通り守口漬は大阪の守口発祥だったのです。それが明治以降、住宅地化が進み守口での栽培は消滅してしまいました。現在、守口大根は愛知県の扶桑町が日本一の生産地となり、守口漬はきしめんと海老せんべいに並ぶ名古屋の名物になっています。

やはり私は間違ってなかった…が…ま…

最後までお読みいただきありがとうございました。

守口宿巡り Googleマップ

守口宿へのアクセス

公共交通機関🚃🚌
京阪守口市駅下車。

車🚗
阪神高速12号守口線「守口出入口」から約5分。

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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