文禄堤1

白井家邸宅前で街道は再び直角に曲がります。守口宿の桝形は2つの曲がり角の区間が長め。
道は少し坂になっていて、高札場がこのあたりにあったことから札場坂といい、地名も札ノ町でした。
ここから街道は文禄堤の上を行くことになります。
そもそも文禄堤とは何なのか?

伏見と大坂に城を築き拠点とした豊臣秀吉は、二つの町を繋げるには淀川を利用するのが最適だと考えました。秀吉は諸大名に命じ、淀川左岸を拡幅し直線状にして堤防を築きました。大阪の長柄から枚方まで27㎞に及ぶ、政府主導の超巨大プロジェクトでした。
堤防の上には街道が通され、淀川の氾濫から河内平野を守る役目も果たしました。流通と生産を守るために造られた豊臣政権最大の広域インフラです。
当時は河内堤と呼ばれていましたが、いつのころからか文禄年間に建設工事が行われたので文禄堤と呼ばれるようになりました。
現在は淀川の度重なる河川改修工事で、文禄堤はほとんど姿を消しましたが、唯一残っているのが守口宿なんです。400年以上前の堤防とはどんなものか? その姿を見にいきましょう。
来迎坂

文禄堤に上がると、両サイドとは高低差が生じるので、脇道は全て坂や階段になっています。
特にこの来迎坂は、昔の雰囲気が残されています。

来迎坂にある石碑。坂を下ると先ほどの難宗寺の守口街道に通じています。厳密には守口街道の起点はここになります。
「のざきみち」は古堤街道の別名で、大阪の京橋から奈良の生駒を結ぶ大和街道の一つです。今の府道8号線に相当します。途中にある「野崎観音 慈眼寺」は奈良時代からの名刹で、江戸時代には野崎詣りで多くの参拝客で賑わっていました。
なかなか雰囲気の好さそうなお寺なので、いつか行ってみたいですね。

石段を下りて見ると、文禄堤の高さがよく分かります。
石垣は当時のものではなく後世に補強されたものですが、高さの当時のままとのこと。この高さの堤防を延々27㎞も機械が無い時代に作り上げたのです。頭が下がりますね。
今は、堤防の下にも町が広がっていますが、当時は宿場町が文禄堤上に一直線に伸び、その周りは田園地帯でした。
大正時代、この付近を住居とした小説家がいました。江戸川乱歩です。
江戸川乱歩住居跡

このマンションが建っているところが乱歩の住居跡。1920(大正9)年、27才の時、大阪時事新報に就職した乱歩はここに移り住んできました。
乱歩は大の引っ越し狂で、1926(大正15)年に東京に移るまで、守口や門真を転々としました。1923(大正12)年に作家デビューし、初期の名作は守口と門真在住時に構想を練ったものと言われています。
ひょっとしたら、この坂がD坂殺人事件のモチーフになったのかもしれません。
京街道(文禄堤上)

来迎坂から先は古い町屋がちらほら残っていて、宿場の風情が感じられる区間です。道の両サイドが石畳、電柱には竹垣が巻かれています。
よく宿場町などの観光地では石畳にしてあるところが多いですが、実際の江戸時代の道の多くは土の道でした。砂利と砂を敷き詰めその上に土をかぶせて踏み固めたものです。
ヨーロッパなどでは昔から石畳に舗装されていましたが、これは広いヨーロッパでは馬車文化が発達しそれに耐えられる耐久性が重要だったからでした。
一方、山がちで狭い日本では馬車が発達せず徒歩移動が基本でした。砂利と砂を敷き詰めることでちょうど良いクッションとなり、歩きやすい工夫がされていました。宿場町や土道は徒歩文化の象徴と言えますね。

徳永家は江戸時代、河内木綿や菜種油を扱う商人で、問屋兼住居が残っています。明治後期の淀川の流路変更までは家のすぐ後ろを川が流れていて、川船が接岸出来る様になっていた様です。
厨子2階は袖うだつや虫籠窓があり白漆喰塗りになっています、1階には駒寄があり大坂の町屋って感じです。京町家と違い表間口が広くとられています。

徳永家住宅の隣にも古い町屋が並んでいます。
1947(昭和22)年創業のみよし写真館が、町屋を生かして営業中です。江戸時代に昭和っぽい雰囲気が足された感じが良いですね~。

ここは1926(大正15)年に建てられた元酒問屋でした。それがリノベーションされて喫茶店になっています。
本店は鹿児島の知覧にあって、本格的な英国のアフタヌーンティーを楽しめる店となっています。

札場坂にあった高札場が復元されています。これがあると江戸時代感がグッと増しますね。
高札とは幕府や藩が「法律、禁止事項、税」などを庶民に知らせる看板です。今で言うと政府や役所の公式ウェブサイトにあるお知らせ事項ってところ。

カラフルなタイル舗装がされた道が坂を下っています。
この道は中高野街道。高野山への参詣道の一つで、守口を起点とし河内長野で西高野街道、東高野街道と合流し、高野山へ至ります。
かつては、ここから大阪湾に浮かぶ月が見えたそうで、中秋の名月と並ぶ十三夜の名が冠せられました。
守口宿には守口街道(清滝街道、大和街道)、中高野街道の二つの街道の起点があり、意外な事に交通の要衝になっていました。
枚方宿のところでも書きましたが、京街道は淀川と並走しているため船での移動が便利。そのため徒歩旅が少なく宿泊客が少ないという泣き所がありました。それをどうやって補うかが京街道の宿場町の鍵となっていました。
特に守口宿は大坂から一つ目の宿場のため、宿泊客が少なくなりがちですが、奈良や高野山に向かう街道の起点となっているため、宿場としての需要がありました。
もう一つ守口宿を支えた主要産業がありました。それは後ほど紹介します。

文禄堤の上にあるマンションと下にある商店街。町が上下2段方式なっていて不思議な光景です。
ちなみに、このあたりには江戸川乱歩に引き続き、とある文豪が暮らしていました。
司馬遼太郎先生です。司馬さんキターーーーーー!。
詳しい期間は不明ですが、新聞記者時代~新婚時代あたりだと言われています。処女作である「梟の城」はここで執筆されたかもしれません。

街道に戻って先へ行くと、橋がありました。一見どこにでもある普通の橋ですが、その下に流れているのは…。

下は川ではなく、なんと道路が通っています!
淀川が遠ざけられ、宿場町の周りにも町が出来た時、文禄堤の両側を行き来出来るようにするため堤を掘割にして道路を通したのです。

掘割は2ヶ所あり、特にこの守居橋ではダイナミックな文禄堤の断面が見られます。

断面をみると高さもさることながら、横幅の長さも相当なものだったと分かります。

今更ですが文禄堤は淀川の堤防でした。当然その真横には淀川が流れていました。おそらく手前の信号の道あたりでしょうか。
守口で淀川は急激な蛇行をし、この辺りには幾つかの中州が出来ていました。今も守口市外島町、下島町、八島町など島が付く地名がたくさん残っています。
中州で出来た分流が目の前を流れており、さっきの本町橋あたりには船溜まりがあったようです。

そろそろ守口宿も終点に近づいてきました。
ポップなひらがなのお寺、義天寺は1896(明治29)年に建立されました。それ以前は茶店の丁子屋があり、この裏側には船着き場がありました。船待ち客を狙っての立地ですね。
丁子屋って全国的に見かける気がします。京都市内にも同名の居酒屋がありますし。
中でも有名なのが静岡の丸子宿にあるとろろ汁屋。文禄堤と同じ時代に創業し、今も名物のとろろ汁を提供し続けています。いつか食べに行きたいです。

この辺りが大坂方の入口で下見附がありました。右側には明治に書かれたと思われる守口宿の案内があります。
街道はここで坂を下っており現在の文禄堤はここまでですが、当時はこの先も堤の上を街道が通っていました。
最後にもう一つの守口宿の主要産業を紹介して守口宿巡りの締めとしたいと思います。
来迎坂の江戸川乱歩邸跡に戻ります。
