三国湊歴史観光 千年に渡る海運の富が築き上げた湊町三国を巡る

三国神社 龍翔館 エッセル突堤

福井県坂井市三国。福井県の湊と言えば敦賀湊を思い浮かべる人が多いと思う。しかし明治以前の三国湊は敦賀湊以上の繁栄を誇っていた

三国湊は福井平野を流れる大河・九頭竜川や福井市街を流れる足羽川の河口にあるため、古代から越前(福井)の物流を一手に担う湊であった。

江戸中期以降は北前船の発達により、三国湊は福井だけでなく良港に恵まれない金沢藩も三国湊を利用するようになった。

福井、金沢の産物は品質が良く中でも米は最大の商品であった。流通センターとしての賑わいは今の三国湊からは想像を絶するものがあった。

しかし明治になり鉄道の時代になると三国湊の輝きは失われていった。しかしそれ故にかつての繁栄の面影が数多く残されており、歴史情緒ある町並みが魅力となっている。今回はレトロな湊町三国を巡りかつての輝きの足跡を探って行く

三国湊の3つの魅力

  • 三国独自の建築様式、かぐら建ての町屋
  • 北前船が築いた繁栄の歴史
  • 廻船業から文学と水産の町へ。魅力の変遷
目次

えちぜん鉄道 三国駅

えちぜん鉄道 三国駅

京都から青春18切符を使って約3時間、北陸新幹線開業待ったなしの福井駅へ。

新幹線が開業したら北陸に18切符で行けなくなるということで、この冬は福井県に行きまくることにした。

(追記、2024年2月からハピラインふくい、IRいしかわ鉄道、あいの風とやま鉄道が全区間乗り放題の切符が発売されているので一安心。2800円で2日間有効なので使い方では18切符よりお得)

福井駅からえちぜん鉄道の乗り換えて、三国湊の中心駅、三国駅で下車。

一発目は三国神社に行く予定なので一駅前の三国神社で降りた方が近いのだが、町の中心駅は観光案内とか充実していることが多いので三国駅で降りた。

実際、下のマップが手に入った。

三国探索マップ

三国探索マップ パンフレット

三国神社

三国神社 鳥居

小高い丘の上にある三国神社は古くからの三国の守り神。祭神の継体天皇は古代、越前(福井)を治めていた皇族で、三国に水門を開いて港を築き治水事業により越前を日本有数の米どころに押し上げた

当時、大和(奈良)の天皇家に後継ぎがいなくなったため、大和政権は5世代前の天皇の子孫である継体天皇を大和に招き天皇にした。偶然とはいえ継体天皇は越前から出たおそらく唯一の天下人であった。

三国神社 楼門

かつての三国の繁栄を象徴しているかの様な巨大な楼門「随身門」。有形文化財で福井県随一の大きさを誇っている

三国神社 拝殿

現在の三国神社は江戸後期の天保飢饉の際、難民救済事業として三国の豪商が改築、整備したもので三国の民力が創り上げた神社である。

三国神社からの町並み

三国神社は小高い丘の上にあり、眼下には二つの川、手前が竹田川、奥が九頭竜川が見える。かつて川沿いには数多くの廻船問屋が並んでいた。

三国の地名は当時、大きな湖がありその入り口であったので水国(みくに)、それが変じて三国となってという説がある。

三国祭 山車蔵

町を散策しているとこの様な背の高い蔵を各地区で見つけた。これは北陸三大祭り(高岡の御車山祭、七尾の青柏祭)の一つである三国祭で巡行する山車の格納庫なのである。

ここの蔵はガラス張りになっており、中の山車を見ることが出来るようになっていた。

新選組の羽織が気になったのでネットで調べると、新選組の吉村貫一郎とあった。う~ん、新選組はそこまで詳しい訳ではないので、誰だか分からなかった。

引用元:三国祭公式ホームページより

三国祭は毎年5月19日~21日に行われる祭りで、歴史上の人物の巨大人形を載せた人形山車の巡行が最大の見どころとあった。

始まりは今から約300年前である江戸中期からで、明治には10m以上の山車があったらしい(今は6.5m)。巨大な山車を作れるということはそれだけの経済力があり、当時の三国の繁栄を物語っている。

三国祭公式ホームページへ

ちなみに写真の朝倉義景は越前の戦国大名・朝倉家の最後の当主。九頭竜川から分岐する足羽川を上流に行ったところにある一乗谷城を本拠地としていた。

戦国の城下町が復元されており、かなり素晴らしいところだったので、また記事にしたいと思う。

かぐら建ての町屋

三国湊には他では見られないユニークな町家が立ち並んでいる。パッと見たことろよくある平入りの町屋が並んでいる様に見える。

正面から見てみると、正面の瓦屋根の後ろに、ハの字に下がっている屋根がある。これだとちょっと分かりづらいので隣が空き地になっている家を見てもらいたい。

かぐら建て

正面玄関側に下がっている屋根(平入り)の後ろに、正面から見てハの字の屋根(妻入り)がドッキングした不思議な家屋となっているのが分かると思う。

筆者の拙い解説より後ほど紹介するみくに龍翔館に分かりやすい解説があった。この建築様式をかぐら建てと呼ばれている。

三国湊にはかぐら建てスタイルの家屋が至る所で見つけられた。

ネットで調べると豪雪地帯である北国は妻入りが多いらしい。平入りだと屋根に溜まった雪が玄関側に落ちてくるので、横へ流す妻入りが適しているとあった。しかし三国湊がかぐら建ての理由は分からなかった。

この家のかぐら建ては凄すぎる。家の裏手は川になっており(現在は間に道がある)、直接船から荷物の搬出入が出来るようになっていた。

三国湊きたまえ通り

三国湊きたまえ通り

江戸時代の三国湊のメインストリート・三国湊きたまえ通り

右サイドの家屋が川に面している側で、当時の豪商の家が多くみられる。

路地からは川が見え、道沿いには現代建築の家が立ち並ぶ。

しかし江戸時代には川に行く道はなく、川沿いの家はきたまえ通りから川まで伸びたウナギの寝床スタイルの細長い家が立ち並んでいた。

ちなみにこの場所は江戸時代、窮民の救済のため三国神社の造営整備事業を行った内田家の屋敷があったところである。角のタブノキは内田家の庭にあった木が今も残されている。

三国湊復元模型

またもや、みくに龍翔館に分かりやすいものが置いてあった。

川沿いの家は正面玄関側の屋根と後ろの屋根が見事にかぐら建てで統一されており、妻入りの箇所はめちゃくちゃ細長くなっている。そこに小さな庭の様な空間があるのが面白い。

三国湊復元模型 リバーサイド

川沿いには船着き場が造られ、おそらく米俵?の搬入が行われている。室町時代には三津七湊の一つに数えられた三国湊の物流規模の大きさがよく分かる。

旧森田銀行

旧森田銀行

かぐら建ての町屋が特色の三国の中に、意外にも西洋的な建築物がきたまえ通りの一角に鎮座している。

銀行の一階受付

江戸時代の三国湊には北前船の廻船業で莫大な利益を得た豪商が数多くいた。その内のひとつに森田家があった。

明治になり鉄道が登場した時。森田家は廻船業の衰退を予見し、銀行業へ業種転換を図った。銀行業は波に乗り1920年(大正9年)に新本店として新築され、福井県で最古のコンクリート製建築となっている。

内装はシックさと豪華さが兼ね備わった雰囲気。

2階 吹き抜け

1階と2階は吹き抜けとなっており、天井には細かな意匠が施されている。三国の文化レベルの高さに驚いてしまう。

2階 貴賓室

この貴賓室はVIPのお客だけが入ることを許された部屋。当然筆者は一歩たりとも足を踏み入れることは不可能である。

その後の森田銀行は福井銀行と合併し、福井銀行三国支店として営業していた。しかし老朽化に伴い町の所有財産となり、復元保存工事を行い文化遺産としてオープンした。

旧岸名家

三国の豪商のひとつ、材木商を営んでいた岸名家の町屋。江戸時代の三国の豪商の家屋を見学することが出来る。

旧岸名家 土間

土間に敷いてある石は笏谷石といい、福井県の足羽山のみで採石される福井の銘石である。福井県内のあちこちで見ることが出来るが、現在は様々な理由により採石は終了している。

笏谷石は水に濡れると深い青色に変化し越前青石もしくはふくいブルーと呼ばれている。現在は古民家などで放置された笏谷石を器などに再生し福井のブランド商品となっている。

笏谷石の加工会社「株式会社ふくいブルー」のホームページへ

旧岸名家 仏壇

仏壇に興味は無いが、その存在感の在り様から写真に収めたくなった。福井県には曹洞宗の本山・永平寺や戦国時代の浄土真宗・越前門徒があり、仏教に対する信仰心が厚い土地柄。

そのため仏具店も多く、京都や大阪との交流が盛んな三国は高い技術力による豪華な仏壇が伝統工芸品となっている

三国ゆかりの文人

二階には三国を訪れた文人の説明書きがあった。三国は商業の湊町だと思っていたら、それだけではなく文学の町と言う顔も持っているらしい。

「雨は蕭々と降っている」で知っている詩人・三好達治は「三国はわが心のふるさと」といっており、遠望する白山の姿に心を打たれ、三国の風景の生涯の心のふるさとだったとのこと。

良い事を教えてもらった。あとで白山の姿を拝みに行こう。

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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