邇々杵神社(ににぎじんじゃ)
朽木宿は鯖街道が安曇川(あどがわ)の西岸にある為、西側が栄えている。しかし東側にも見どころがあるので安曇川を渡り東岸に向かってみる。
安曇川の上流ということもあり、この辺りでは水量は少ないように見える。しかしかなりの豪雪地帯であるので、琵琶湖に流れる川の中では一番の水量がある様だ。
朽木谷はほぼ一直線のため、流れはカーブが少なく穏やかだ。しかし朽木から下流の高島へ流れ落ちる区間は険しい峡谷となっているので蛇行が激しくなり、峡谷を抜けると安曇川が作り出した高島の扇状地へ出、琵琶湖に注がれる。
安曇川東岸の河岸段丘を少し上がったところに、平安時代創建と伝わる邇々杵神社が鎮座している。
邇々杵尊(ににぎのみこと)を祀った神社で、毎年5月10日には「邇々杵神社渡し祭り」と言う祭りが行われる。この祭りは古くからの貴重な伝統神事で高島市の指定無形民俗文化財に選定されている。
拝殿の後ろには2棟の社があり手前が邇々杵神社の本殿、奥が境内社の河内神社となっている。江戸時代以前は河内神社(別名、大宮大明神)がメインの神社で邇々杵神社が境内社となっていたらしい。
多くの河内神社は荒れ狂う濁流を鎮め、五穀豊穣を願う神様を祀っているので、昔は安曇川も荒れ狂ったことがあるのだろうか。
邇々杵神社には立派な多宝塔があり、かつては神仏習合で朽木大宮大権現と呼ばれた名残をとどめている。内部には鎌倉時代初期に造られた木造釈迦如来像と23体の薬師如来像が安置されている。
かの有名な石山寺の多宝塔に引けを取らないくらい立派で美しい多宝塔だと感じた。手前の岩が良い味を出している。
志子淵神社
再び西岸に戻って来た。
朽木の様な山間の町では、古来から林業が栄えてきた。木材の運搬の運搬には川が不可欠だが、この地域には安曇川の水運があり、琵琶湖に出れば淀川や木津川で京都や奈良、大坂の方にまで運ぶことが出来た。
しかし川の流れが速い上流部では木材を筏で運ぶことは危険が伴っていた。
そのため、事故が無いように安全を願って水害を引き起こす河童を払う「シコブチ神」が、安曇川流域に祀られるようになった。
安曇川流域には7社の志子淵神社があり、地図で見てみると、見事に安曇川沿いに数珠つなぎの様に鎮座している事がよく分かる。
7つのシコブチ神社
左上の旅猫の左の→をクリックしますと、番号に対応したシコブチ神社が表示されます。⑥がここで紹介した志子淵神社。
奈良時代から安曇川の杣の筏流しを見守っているといわれる志子淵神社。この神社は安曇川流域の固有の神であり、他の土地で見ることは出来ない。
朽木杣は古来から朽木の名産品で、多くの歌にも詠まれている。
「春来ては 花かとみえん おのずから
朽木の杣に 降れる白雪」 源実朝
興聖寺
西岸の河岸段丘を少し上がったところに朽木の名刹、興聖寺がある。
鎌倉時代、近江守護佐々木信綱が一族の供養のため曹洞宗の開祖道元禅師を朽木に招いた際、道元禅師は朽木の風光明媚な様子が京都深草の興聖寺(現在は宇治に移転)と似ていると感激され当地に建立を勧められた。
以後佐々木家の分流である朽木家の菩提寺となった。元々は安曇川の対岸にあった様で江戸時代の中頃に現在地に移転した。
室町時代には京都を追われた室町将軍・足利義晴が朽木氏を頼って朽木に逃れてきた際、岩神館(現興聖寺)が建てられた。
義晴の息子の義輝も家臣細川藤孝と共に訪れ、親子合わせて計8年間、朽木に滞在し政務を行った。この間は朽木に将軍がおり、幕府運営を行ったので朽木幕府が開かれたと言ってもよいのである。
興聖寺には国の名勝指定に選ばれている旧秀隣寺庭園(足利庭園)がある。この庭園は足利義晴が興聖寺に滞在していた時、時の管領・細川高国が将軍を慰めるため、京都銀閣寺の庭園を元に作庭したといわれている。
遠くに見える比良山系を借景とし、庭園は石の配置を巧みにカーブをさせた池を創っており、それを被せる様に青紅葉が彩りを与えている。
随筆家・白洲正子もここを訪れており「安曇川の渓流をへだてて、比良山系を眺められる。今は少々荒れているが妙に手の込んだ庭園より、石組も自然で気持ちがいい」と述べている。
東屋から見た庭園。東屋の枠が額縁の様に見えて、絵が飾ってあるかの様。
東屋の周りには青紅葉が広がっている。その向こうには庭園、そのバックには比良山系と微妙に色が違う緑が折り重なっていて、自然が作り出す繊細な色使いが素晴らしかった。
本堂に入ると、先客がおられ寺の方が解説をしておられた。解説が終わると、筆者一人の為に今一度丁寧な解説をして頂けた。
寺の方の解説によると本尊の釈迦如来坐像は、平安時代後期、後一条天皇の皇子が幼少で亡くなりその供養の為、関白・藤原頼道が彫らせた三仏のうちの一体。作者は不明だが、ヒノキで造られており重要文化財に指定されているとのこと。
楠木正成の念持仏といわれる、縛り不動明王坐像。解説によると鎌倉時代、朽木時経が時の執権・北条高時の命で楠木正成の千早城をを攻めたとき、楠木正成の念仏寺に戦火が及びそうになっていた為、持ち帰ったと言われている。
縛りというのは、ある時盗賊が寺に侵入し持ち去ろうとした際、金縛りにあって動けなくなった事からきているそう。
なんとあの細川護熙元首相も興聖寺を訪れていた。と言うのも、上の解説で登場した細川高国や細川藤孝は細川元首相のご先祖様なのである。
特に細川藤孝の嫡男・細川忠興は後に肥後熊本藩主となり直系のご先祖である。興聖寺は細川家と縁の深いお寺と言う事で訪れられたとのこと。
田園の中を一本の鯖街道が走っている。田んぼの横には安曇川が並行して流れている。朽木谷はこのまま真っすぐ南へ延びており、道と川もそれに沿って京都方面に向かっている。
谷が尽きる頃には安曇川は山に分け入り、滋賀県から京都府へ県境を越えたあたりが源流となる。鯖街道はひたすら南下し途中峠を越えて京都の最初の町、大原に到達する。
大原は夏が暑い京都の避暑地として、平安時代から愛された長閑な集落。現在も癒しスポットとして人気が高い大原の魅力とは?
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朽木宿 全体マップ
左上の旅猫の左の→をクリックしますと、番号に対応した歴史スポットが表示されます。散策の際はご活用いただければ幸いです。
朽木宿へのアクセス
バス🚌
湖西側から
JR湖西線安曇川駅から江若交通バス(朽木方面行)乗車→朽木グランド前~朽木学校前下車(この間が朽木宿内)。約40分。
江若交通バス時刻表へ
京都側から
叡電出町柳駅前から京都バス10系統乗車→朽木学校前下車。約1時間20分。
本数が非常に少ないので下の時刻表を要参照。
京都バス時刻表へ
車🚗
福井方面から
国道303号から保坂交差点を367号(鯖街道)へ。
京都、大阪方面から
国道161号、真野IC下車→国道477号から国道367号(鯖街道)へ。
もしくは京都市内を抜け、花園橋交差点を国道367号(鯖街道)へ。
長文でしたが最後までお読みいただきありがとうございました!
コメント
コメント一覧 (1件)
・通覧させていただきました。クルマで探訪されているようですね。
・小生も「関西」の「平地」限定で、独行を月に1回ほど行っておりますが、膝・腰の問題など年齢的に・体力的に限界があり、それ以上は無理のようです。
・最近、「朽木宿・朽木市場」を安曇川駅経由で訪ねました。いずれ、ブログに探訪録を搭載する予定です。今までのものは、次記のURLを瞥見してください。だいぶん貯まっています:
URL:http://19481941.blog.fc2.com/blog-entry-XXX-html
(XXX⇒687、686、489、688、455、673、674、662、などを通覧してみてください)
<関心があれば、小生主宰の「関西地理の会」を覗いてみてください>