朽木歴史観光 鯖街道が通る谷間の宿場町、朽木宿を散策する

朽木宿 興聖寺 朽木陣屋跡

京都と福井県の小浜を結ぶ街道の一つ若狭街道小浜で水揚げされた魚介類はこの道を通り京都へ運ばれていた。その中でも最も輸送頻度が高ったのが鯖であったため別名鯖街道と呼ばれている。

明治以前は行商人が徒歩で輸送しており、いくつかの宿場町が点在している。滋賀県高島市にある朽木宿(くつきしゅく)はその中の一つで、この辺りは地殻変動で作り出された南北20キロに及ぶ一直線の渓谷があり朽木谷と呼ばれている。

その歴史は古く鎌倉時代から朽木氏が治め、室町時代には幕府の奉公衆を務め、京を落ち延びた足利将軍を匿ったこともあった。

また戦で負けた織田信長がこの朽木谷を通り京へ帰還しようとした時、朽木氏は信長を助けその領土を安堵されている。

朽木宿は地図を一見すると滋賀県のメイン交通網から外れた場所に見えるが、多くの歴史有名人が足跡を残したように、街道の重要な中継地だったのである。今回は隠れ里の様でありながら歴史の重要場面に登場する不思議な宿場町、朽木宿を紹介しよう。

朽木宿の魅力、3つのおススメポイント

  • 今も残るかつて栄えた宿場町の雰囲気
  • 歴史があり落ち着いた風情の名刹
  • 山あり、川あり、鯖街道ありで味わえる多様な食材
目次

鯖街道と朽木宿の位置

Aが福井県小浜市にある鯖街道の起点。Bが京都の出町柳駅にある鯖街道口の碑。赤いマークが朽木宿

鯖街道は山の中を越えていく街道にもかかわらず京都から朽木までほぼ一直線で突っ切っている。これは花折断層という断層のずれによって出来た断層谷で京都から朽木まで約50㎞続いている。

更に朽木の北には直角に左へ曲がる箇所があり、そこからは再び一直線に小浜に向かっている。ここも断層によって出来た谷で熊川断層が小浜まで通っている。鯖街道は縦と横の二つの断層によって出来ているのである。

川の浸食によって出来た谷はグネグネしているが、断層谷は直線になっているのが特徴。京都と小浜の間は丹波山地で隔てられているが、この断層谷のおかげで山登りを繰り返したりせずに、ほぼ最短ルートで結ばれているのである。

鯖街道の京都側の起点、出町柳駅から旅が始まった。

出町柳駅

出町柳駅から橋を渡った対岸にある鯖街道口の碑

この付近は出町といい、江戸時代では京都の東北側(大原口)の入口にあたる町であった。

街道沿いで取れた野菜などを売りに来る人が集まり、江戸時代から様々な店が立ち並んでいた。

現在は商店街(出町桝形商店街)になっていて、その歴史が引き継がれている。

朽木宿は大原を越えて滋賀県にあるのだが、なんと京阪出町柳駅から朽木行きのバスが発着している。

途中の人気観光地である大原まではかなりのバスが走っているが、朽木行きの時刻表が衝撃だった。

出町柳 京都バス 時刻表

真ん中あたりにある10系統、朽木学校前行きがそのバスである。

バスは土日に一度来る♪俺らこんな村いやだ~♪

これを逃すとまた来週になってしまう。そのレア度ぶりに一度乗ってみたかった。

驚いたことに乗り場にはかなりの待ち客で賑わっていた。そこにいたほぼ全員が乗り込み、定刻通り出発。

大原で降車客がいると思いきや誰も降りず、ずっと立ちっぱなしで滋賀県に突入した。

バス停の名前を忘れたが、かなりの降車客があってようやく席に座れた。

出町柳駅から約1時間15分かけて終点の朽木学校前に到着した。

朽木宿の町並み

朽木宿入り口

まずは朽木宿の入り口が見たくて、朽木宿の北の入り口から観光を始めることにした。

朽木宿の北の入り口で右が昔の鯖街道、左は現代の367号線。小浜から朽木宿まで約30㎞。

朽木宿から京都までは難所の花折峠と途中峠が立ちはだかっており、小浜と朽木の間には水坂峠がある。どちらから来た人も朽木宿は峠を越えて一息ついた宿場だった。

江戸時代には人々の往来も増し、より一層発展していった。商人町の朽木市場は山間の町とは思えない程、賑わっていたと言われている。

朽木宿 鍵の手

宿場町には必ず言っていいほどある鍵の手。鍵の手とは街道がクランク状に折れ曲がった部分のことで、見通しを悪くすることで、敵に攻められたとき一気になだれ込んで来るのを防ぐ為に設けられている。

昔ながらの民家がかなり残っており、街道沿いには水路が流れている。水路は雨や雪解け水の排水の為の他、生活用水としても利用されていた。

丸八百貨店

丸八百貨店

朽木宿の一角に宿場町には珍しい西洋建築風の建物がある。丸八百貨店と言う商店で、朽木で下駄屋を営んでいた大鉢捨松が西洋建築に憧れ、1933年(昭和8年)によって建てられたものである。

店内では雑誌、下駄、呉服、化粧品などが売られており、当時の朽木には旅館、呉服屋等が立ち並びなんと映画館まであったとのことで、かなり盛況だった言われている。テナントも入る様になったが、平成に入り借り手がいなくなったため閉店することとなった

しかし1995年(平成7年)にリニューアルオープンし無料休憩所や喫茶店、観光案内所、地元の特産品の販売などが行われ、国の有形登録文化財に登録された。2023年(令和5年)には更なるリニューアルがされ、地元食材を使ったオシャレなランチを楽しめるようになった(丸八喫茶メニューへ)

昭和に建てられて以来、町のシンボルとしての役目を担ってきた丸八百貨店は、地元住民の憩いの場でもあり、観光客にとっては地元グルメに出逢える場所となっている。

公式ホームページへ

道の駅 くつき新本陣

道の駅 くつき新本陣は鯖街道唯一の道の駅で、日曜日には日曜朝市が開催されている。

隣の鯖街道交流館には食事処や無料休憩所があって、現代人にとっても朽木は一息つける宿場町となっている。

引用元:びわ湖高島観光ガイド

店内の様子。筆者が行ったときは人で混雑しており写真が撮れなかったので、びわ湖高島観光ガイドさんから引用させて頂いた。

引用元:道の駅 くつき新本陣

鯖街道と言えばやっぱり鯖寿司。鯖街道のルート上の町はどこも鯖寿司が名物となっていた。その中で一つ違いを見つけたのが、焼き鯖寿司。

京都も鯖寿司が名物で、筆者が子供頃にはハレの日に食卓に出ていたので馴染みがあるのだが、焼き鯖寿司は見た事がなかった。調べてみると焼き鯖寿司は意外にも新しいお寿司で、2000年(平成12年)に福井県の「越前三国湊屋」が生み出したそう。

くつき新本陣でも売られていたが、京都には今だに伝播していないようである。意外なことに遠く離れた羽田空港で売られており、飛行機内で食べる空弁として大人気を博し、焼き鯖寿司はなんと5年連続売上1位を獲得したとのこと。

引用元:道の駅 くつき新本陣

この時、筆者が購入したのが写真のとちもち。鯖寿司は京都で食べれるので、あまり馴染みがないし朽木の名物ということもあり栃餅に興味が惹かれた。

漫画の美味しんぼに登場(20巻)していて、米があまり取れない山間の村で食べられているもので、原料の栃の実は強いアクがあるため相当の時間と手間を使ってアク抜きをする様子が描かれていた。

実際食べてみると、普通の餅より粘り気が少なくて独特の風味があって滋味あふれる感じだった。

美味しんぼで栃餅を作った料理人のセリフ「一見地味で不細工なトチ餅だが、ここに自然と格闘してきた人間の英知と、美味しいものを人に食べさせてやりたいという、愛情にあふれている」が思い出された。

朽木陣屋跡

朽木陣屋跡

古くから朽木を治めている朽木氏は、近江発祥の佐々木源氏の分流で鎌倉幕府から朽木荘の地頭職を与えられたのが始まり

室町時代には室町幕府の奉公衆として仕え、戦国期には京都から追われた足利義晴、義輝親子を朽木でかくまった。幕府衰退後は信長、秀吉に仕えた。

関ヶ原の戦いでは当初は西軍(石田三成側)に与していたが小早川秀秋の裏切りを機に東軍(徳川家康側)に寝返り本領の朽木荘を安堵された上に徳川家の譜代大名格の待遇を受けた。

鎌倉から明治まで一貫して同じ領地を治め続けた大名は非常に少なく、それも薩摩の島津氏や対馬の宗氏の様な中央から遠い大名に限られる。京都から近隣の土地を長きに渡り治め続けた朽木氏は限りなく稀有な大名なのである。

朽木谷は京都と結びつきが強い土地柄のため情報が手に入りやすい。しかしその反面、鯖街道は東海道の様な日本のメインルートではなく、山間の宿場町である為、他郷の者にとって盲点の土地であることが朽木氏の長い治世に繋がったのではないかと思う。

写真は江戸時代、朽木氏が安曇川と北川が合流する河岸段丘の上に設けた陣屋跡陣屋とは一定以下の石高しか持たない大名は大きな城の築城は禁止されていたため、必要最低限の行政機能を持った官舎を藩庁として設置したもの。

しかし朽木陣屋は陣屋と言えども、譜代大名格であったためか広大な敷地内に本丸・二ノ丸・三ノ丸まであり、御殿・馬場・倉庫等が建っていたと言われている。明治になった時、全て建物が取り壊された。現在は塀、土塁、一部の石垣、井戸が残るのみである。

朽木で長い歴史を誇った大名家の遺構が、明治になったとたんきれいさっぱり取り壊されたのは非常に残念に思う。

朽木陣屋内の茅葺屋根の家

陣屋跡敷地内には木造茅葺屋敷があり、茅葺屋根の陣屋とは珍しいなと思ったが、朽木の一般民家から移築したものと説明書きがされていた。

瓦屋根と茅葺屋根の違い

  • 茅葺屋根のメリットは、雨や雪の遮断性があり、断熱保温性に優れているという点があるため、雪国では茅葺屋根を用いられる事が多いようである。
    デメリットは耐火性が悪いため火事に非常に弱いと言う点がある。
  • 瓦屋根のメリットは、耐久性が高くメンテナンスがほぼ不要、仮に1,2枚割れてもそこだけ取り換えれば良いのでコストパフォーマンスが良い、断熱性と遮音性が高い事が挙げられる。
    デメリットは重いため耐震性に難がある。製造産地が限られている(日本三大瓦が愛知の三州瓦、淡路島の淡路瓦、島根の石州瓦)ので昔は輸送コストがかかった。

朽木宿は標高700m~1000mの高さにあり、滋賀県の北陸と言えるので茅葺屋根が適していたと思われる。陣屋等の行政施設は一般的に瓦屋根が主流だったので(瓦屋根には権威の象徴と意味があった為)、本来の朽木陣屋は瓦屋根だった様だ。

朽木資料館

敷地内には朽木資料館があり、ここで朽木陣屋の再現模型が見られるのだが、入り口に

当館の見学には、事前予約が必要です。見学を希望される場合は、遅くとも一週間前までに下記へお申し込みください。
事前予約連絡⇒高島歴史民俗資料館 0740-36-1553まで

とあり、あらかじめネットで確認していなかった筆者が悪いのだが、一週間前って…

ネットによると館内には陣屋に関することの他、織田信長の朽木越えや朽木氏について、朽木で使われていた民芸品等が展示されている模様。

織田信長の朽木越えコーナーでは、当時の朽木の領主・朽木元網が信長を助けたことで、信長から革袴と銀製の箸を拝領したと朽木家家臣の書物に記されており、その複製(実物は安土城考古資料館に収蔵されている)が展示されている。

この時、朽木家の選択として信長ではなく浅井・朝倉連合軍に付くと言う可能性もあった。時の将軍・足利義昭による信長包囲網が出来ており情勢的には反信長勢の方が有利だったにもかかわらず、ここで何故朽木元網が信長を選んだのか疑問だった。

諸説あるが朽木氏と浅井氏の不仲が原因と言われている朽木と言う山間の宿場町が日本の運命を左右する状況に立ち、そこで勝ちの目を選んだと言うのは歴史の可笑しみを感じると同時に、際どいバランスで成り立っているものだと実感させられる。

びわ湖高島観光ガイド 朽木陣屋跡のページへ

山神社

山神社

朽木陣屋跡の隣には山神社と言う神社があった。由緒等の説明が無かったのではっきりとしたことは不明だが、全国各地ある山神社はその名の通り、山に関連した神社となっている。

朽木は山間の谷間にあり平地が少ないため、農業に適した土地ではなかった、しかしその代わり豊かな森林資源に恵まれており「朽木の杣(そま)」と呼ばれ京都への重要な木材の供給源であった。その為、林業に携わる者にとって信仰心が篤い山神社が建立されたと思われる。

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

コメント

コメント一覧 (1件)

  • ・通覧させていただきました。クルマで探訪されているようですね。
    ・小生も「関西」の「平地」限定で、独行を月に1回ほど行っておりますが、膝・腰の問題など年齢的に・体力的に限界があり、それ以上は無理のようです。
    ・最近、「朽木宿・朽木市場」を安曇川駅経由で訪ねました。いずれ、ブログに探訪録を搭載する予定です。今までのものは、次記のURLを瞥見してください。だいぶん貯まっています:
    URL:http://19481941.blog.fc2.com/blog-entry-XXX-html
    (XXX⇒687、686、489、688、455、673、674、662、などを通覧してみてください)
    <関心があれば、小生主宰の「関西地理の会」を覗いてみてください>

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