大和盆地は古くから日本の政治・文化の中心であった。その中でも特に古いのが現在の御所市の西側、葛城山麓に存在したと言われてる葛城王朝で、葛城氏や鴨氏が治め隆盛を極めていた。その古さは初代天皇の神武天皇が大和盆地にやって来る前から先住していたと言われており、驚くべき古さである。
金剛・葛城連山沿いには当時の主要道路であった葛城の道が南北に伸び、その道沿いには今もなお葛城の国つ神を祀った寺社が残されている。
今回はそんな神さびた雰囲気が残る御所の葛城の道をたどりながら、古代日本人の心や営みに触れる歴史スポットを紹介していく。
葛城古道の魅力、3つのおススメポイント
- 様々な神話の舞台となった古代が息づく神秘の里
- 道沿いに咲き乱れる彼岸花
- 奈良盆地や大和三山を見渡せる絶景スポット
旅は葛城王朝の匂いが色濃く残る葛城坐火雷神社から始める。
葛城坐火雷神社へは、近鉄御所駅もしくはJR和歌山線御所駅から奈良交通バス80又は88系統で小林口下車、路地を北へ歩いたところにある。本数が少ないので時刻表を要チェック。
奈良交通バス公式ホームページ時刻表へ(葛城ロープウェイ方面をクリック)
バス停から神社までは路地が入り組んでおり非常に分かりづらいので下図を参照。
葛城坐火雷神社(かつらきにいますほのいかづちじんじゃ)
葛城坐火雷神社は別名笛吹神社(ふえふきじんじゃ)とも言われている。この辺りの地名にもなっている笛吹とは、古代の祭や儀式において笛の演奏を担当した一族が由来となっている。
創建はあまりに古代過ぎていつから存在しているのか定かではないようだか、神社に伝わる旧記では崇神天皇(3世紀~4世紀と推定)には存在した伝えられている。
笛吹一族は崇神天皇から笛吹連(ふえふきのむらじ)の名を与えられ(連とは古代の氏族制度で神を司る氏族に与えられた)、この地に住む祖先神を祀る為、笛吹神社を建立したと伝えられている。
その時から続く笛吹連は現在もこの神社の神主を代々受け継ぐ持田家の先祖に当たるということで、今も葛城の国つ神がリアルに生きているのである。
元々は火雷大神を祀る火雷神社と笛吹連の祖神・天香山命を祀る笛吹神社の二社あったが、合祀され二神が主祭神となっている。
火雷大神は火を司る神様で両神様は全く関係が無いように思えるが、歴史小説家・司馬遼太郎が「街道をゆく1」で述べられてるように「笛吹は火吹が転訛したのだろうというのだが、どうも疑いを入れる余地がない」とすると、火と笛吹に繋がりが出てくる。
ひょっとすると笛吹一族は笛の演奏だけでなく、たたら製鉄なども担っていたのかもしれない。
本殿の近くには笛吹連が埋葬されていると思われる古墳がある。解説によると葛城山からこの辺りにかけて約80基からなる笛吹古墳群があったらしく、この笛吹神社古墳はその東端に位置するとのこと。
神社内にはさらに珍しいものがあった。日露戦争での戦利品であるロシア製大砲が据えられている。
なぜ何の関連性のないこの神社に大砲があるのかというと、当時、発展途上国であった日本が日清・日露戦争に勝ち、国難を脱した喜びを国民と分かち合う為に、兵器類を記念として民間に寄進したらしい。
寄進先は主に寺社仏閣、博物館、学校、役場等でしたが今はそのほとんどが姿を消しており、この大砲は現存する数少ない遺物の一つ。
地図
ここから西に見える葛城山の山裾にそって、古代葛城の道を辿って行く。
ルート上には迷わない様に道標が要所要所に設置されていたが、全ての曲がり角に完璧に設置されているわけではなかったので、葛城古道のルート地図をページの最後に載せておいた。ぜひご活用を。
実はこの葛城坐火雷神社は現在案内されている葛城古道のルート上からは外れているのである。しかしこの神社が葛城王朝と無関係とは思えないので、ここを出発地点にしてみた。
ここから南へ行ったところある、六地蔵石仏から現在案内されている葛城古道が始まる。六地蔵石仏まで徒歩で約25分。
六地蔵石仏
人の背丈ほどもある巨大な石仏が道の真ん中に鎮座しており、6体の地蔵が彫られている。日本中に六地蔵が祀られているところは数多くあるが、一つの岩に6体全てを彫ってあるのは初めて見た。6体になっているのは仏教における六道を表しているとされている。
この石仏は言い伝えによると、ここの地名である櫛羅(くじら)とはくずれるが語源(諸説あり)で、室町時代に大水害が発生し山崩れが起こった時、巨石がこの地に流れ着いた。そこで村人達は極楽浄土を願い、この巨石に6体の地蔵を彫ったと言われている。
地図
次の目的地、九品寺(くほんじ)までは徒歩で約16分。
六地蔵石仏の三叉路を南に進み、坂を下りたり上がったりして進むと次の目的地、九品寺が見えてくる。
九品寺(くほんじ)
九品寺は奈良時代の僧・行基によって開山された。行基は大陸からやってきた渡来人で、日本初の大僧正となり民衆のため様々な社会事業を手掛け、数多くの寺や橋、溜池、温泉などを造り上げた人物である。
九品寺の名前の由来は実は仏教用語であった上品・中品・下品から来ており、各品の中にも上中下があり全部で9つの品があるので九品寺と名付けられた。
本堂の裏の参道には石仏が並んでいる。参道と石仏は奥の方まで続いており、一体どれだけの石仏が並べられているのかと驚きながら、石仏に導かれ奥へ進んでいくとそこには圧巻の光景が広がっていた。
九品寺最大の見どころ、千体石仏である。
南北朝の動乱の際、御所の領主「楢原氏」は南朝側であった楠木正成の味方をするべく一族郎党を率いて参陣した。その際、地元の人々は身代わりのための石仏を彫り、九品寺に奉納した。身代わり石仏とも呼ばれ、現在ではその数、約1600~1700体もの石仏が並んでいる。
石仏をよく見ると一体一体違うデザインになっていて、身代わり石仏なので彫った人が誰を思って彫ったのかで違いが出てるのかなと、思ったりした。
九品寺には十徳園という庭園がある。この庭園は作庭家の森蘊(もりおさむ)によって1971年(昭和46年)に作庭された池泉回遊式庭園となっている。池の周りには観音様が安置されており、池を琵琶湖に見立て観音様を回ることで疑似的に西国三十三ヶ所めぐりが出来る様になっていた。
また九品寺は彼岸花でも有名で、著者が行った時期は見られなかったのだが、ネット情報によるとお寺の周りの空き地や野原、田畑のあぜ道に咲いており、9月下旬頃には一面が真紅の絨毯の様に咲き誇るとのこと。
是非とも花が咲き誇る頃にまた行きたいな思っていたが、観光客のマナーの悪化などによりトラブルの増加が問題になっているようだ。
九品寺の彼岸花の状況について次の記事に詳しく書かれていましたので、ここで紹介しておきます。筆者もまた訪れる際には気を付けたいと思いましたので、訪問される前に是非一読をお願いします。
地図
次の目的地、葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)までは徒歩で約16分。
九品寺を後にし、田んぼの脇道を進み坂を上がり、山裾に沿って伸びている道を進んでいく。左手には段々畑が広がり遠くには大和平野が見渡せる。
綏靖天皇葛城高丘宮跡近くであぜ道に入る。あぜ道を抜け民家が立ち並ぶくねくねした道を進むと、地元の人達から「いちごんさん」で親しまれている葛城一言主神社に到着する。
葛城一言主神社(かつらぎひとことぬしじんじゃ)
葛城一言主神社の主神「一言主」は、一言であればどんな願いも叶えて下さると言われている。
この一言主は時代によって描かれ方に差があり、奈良時代初期では21代目雄略天皇に深く信仰されていたと言われているが、それが時代が下るにつれて雄略天皇と対等の友人となり、ついには天皇の怒りに触れて土佐に流されたという風に威厳がなくなっていく。
実際に高知市にある土佐神社の神様は一言主となっている。これは葛城王朝の衰えによって、その神様の地位も低下してしまったと考えられる。しかし奈良時代後半、藤原仲麻呂の乱で功績があった鴨一族の高加茂田守が朝廷に働きかけ、一言主は葛城に戻る事を許された。
再び葛城の地に戻り引き続き現在に至るまで葛城の土着神として信仰を集めている。
案内板は難解な専門用語で書かれているので超訳すると
(当神社は雄略天皇の頃、「ワシはあかん事もええ事も一言で解決したる一言主やで」と言いこの世に現れた一言主を祀っています。
平安時代の始めには豊作を祈る祭りを行う神社に選ばれ、南北朝時代には後光厳天皇から神社ランク最高位を贈られました。
最澄が中国に留学する際も、お祈りして行った程、ご利益パワーが溢れている最古の神社です)
となる。
一番の見どころは御神木のイチョウの木で、樹齢はなんと1200年に達する。写真を拡大すると見えるのだが、幹に気根という乳房の様なものが垂れ下がっている為、乳イチョウと呼ばれている。それにあやかりこの木に祈願すると子が授かり母乳がよく出る様になるといわれている。
秋の紅葉シーズンには赤く染まった御神木を見に多数の観光客が訪れる様だが、筆者が訪れた6月は数名だけであった。しかし初夏の青紅葉も非常に美しく、となりのトトロのワンシーンを思い出した。
地図
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