武家屋敷跡 野村家
野村家は1200石を拝領し、11代にわたり加賀藩の重役を歴任した上級武士。
このクラスともなると敷地面積もなんと約1000坪の広さがあったという。もはや年収換算するのもアホらしくなってくる。
玄関を上がったすぐのところには先祖伝来っぽい甲冑が。説明には末森城の戦いで野村伝兵衛が着用していたとある。
末森城の戦いキター!末森城の戦いと言えば羽柴秀吉と徳川家康が対立している時、北陸方面で秀吉派の前田利家VS家康派の佐々成政とで起こった戦い。
前田側が兵力的に圧倒的に不利だったが、劣勢を跳ね返し勝利したという燃える展開で後の百万石に大きく近づいた。
この時、一番槍を果たしたのがこの甲冑を着た野村伝兵衛で、利家から千石の加増を得ることが出来た。ご先祖が出世を果たしたありがたい鎧。
屋敷内の襖には美しい絵が描かれており、欄間には凝った彫りがされている。
釘隠しや襖の取っ手にも凝ったデザインがされていた。それも全部同じデザインではなく何種類もあった。
案内の方に聞くと、なんと野村家の屋敷は残っておらず、日本一の富豪村・加賀橋立の豪商の久保彦兵衛の屋敷が移築されているということだった。えー、そんなん入るまで分からへんやん。
ただ野村家の遺産も残されているとのことなので、屋敷の紹介を続けていこう。
この部屋だけ一段高くなっており周りにはすだれの様なものがかかっている。
ここは殿さまと謁見する間で、段の上が殿さまが座られる部屋のため一段高くなっているのだ。
基本的に武家屋敷に謁見の間って無いはずである。どれだけ位の高い上級武士でも殿さまとは城で御目見えすると思う。
やはりこの屋敷は野村家の屋敷ではなく、商人の久保彦兵衛の屋敷なのである。実際、加賀橋立の船主屋敷には謁見の間があった。
商人は城に入ることが出来ないのでこの様な間が設けられているのだと思う。
立派な仏壇がある仏間。
加賀橋立の北前船船主屋敷にはかなり巨大な仏壇が置いてあったが、この仏壇は野村家か久保家のものかはよく分からなかった。
次は確実に野村家の時代からあったものである。
庭園は野村家初代、野村伝兵衛信貞の時代から受け継がれている由緒ある庭園となっている。
そこまでの広さは無いが石灯籠や多宝塔、御影石の橋がバランスよく配置されて少人数オーケストラの様な感じ。
特に驚いたのが、橋や石が配置されている左側と小さな池がある右側で、高低差を生じさせ人口の滝が造られている。
池にはセレブの代名詞、鯉が泳いでいる。滝の音がなんとも良い風情を醸し出していた。
この庭園はミシュラングリーンガイドで兼六園の3つ星に次ぐ、2つ星がつけられた。そのためか海外の観光客が非常に多かった。
伝統家屋と庭園の組み合わせは兼六園にはなく、野村家でこそ味わえる。
廊下の縁の下まで池が配置されているので、角に座ると池の上に浮かんでいる気分になれた。
庭園はL字型はなっており、ここは廊下の角を曲がったところ。滝の音が小さくなり、その代わりに竹の筒からチョボチョボと注がれる水音が良い感じ。
音の事も考えて配置しているとしか思えない。横の鎖樋は雨の日ならではの風情を生み出すものらしい。雨の日にはどんな流れで音を奏でるのだろうか。
聲桶(こうけい)。説明書きには鶯の鳥籠を桐箱に入れて、鳴き声を共鳴させて風情を楽しみますとあった。
出来たらCDの音声でも流して欲しかったなー。
庭園の奥にはなんとも風情のある石畳があり、正面の案内にお茶室へどうぞお上がりくださいとある。
驚いたことに石畳の先は階段になっていて、茶室は2階にある様だ。こんな配置、初めて見た。
数寄屋造りの2階には左右に二部屋あった。
左の部屋は控えの間らしい。何故個人宅の茶室に控えの間が必要なのだろうか?
床の間は段がなく床柱もないシンプルな造り。凄いのが床板で、説明によると樹齢千年の「紅葉」の一枚板らしい。
掛け軸には「真実不虚」の文字。簡単に言うと、ウソやないでホントやでってところか。別に疑ってへんで。
控えの間からの庭園の眺め。
野村伝兵衛は藩主前田利家が尾張(愛知県)にいた頃からの家臣で、尾張への郷愁から北陸では珍しい山桃の木を庭園に植えたらしい。
茶室の床の間は控えの間以上にシンプル。こういうスタイルを織部床と言うらしい。
漫画へうげもので有名な古田織部が考案したことから名がついた。
外の庭園が素晴らしいので床の間はシンプルな方が落ち着く気がする。あまり床の間が大層だと緊張してしまう。
一階には蔵を改装した資料館があるので、そっちにも行ってみる。
中には刀剣や掛け軸、書道具、煙管などがあった。その中で面白かったのが下の地理解説書。
なんと神武天皇の時代の日本地図が。
ほとんどの地名の漢字が違っている。今と同じなのは伊勢と出雲だけの気がする。
あと東北、北陸、九州はひとまとめになっている。越前とか越後の様に前や後がついているのは、元は大きな国で分けられてそうなったと聞いたことがある。
戦国時代の日本地図。信長の野望で親の顔より見たお馴染みのマップ。秀吉が天下統一に王手をかける直前といったところ。
外に出てきた。屋敷の隣には「茶菓工房たろう」という和菓子屋さんがあった。
店の方に伺ったところ、ここも野村家の敷地で間借りして営業されているそう。
次はいよいよ最高ランク、8人の選ばれし上級武士、加賀八家の中でも最強の本多家の屋敷跡に行ってみた。
加賀八家 加賀本多博物館
本多家は徳川家康の側近であった本多正信の次男、本多政重が前田家に仕えたのが始まり。驚きの石高はなんと5万石で屋敷の敷地面積は1万坪。
石高第2位の薩摩藩や第3位の仙台藩ですら5万石の家臣はいなかった。ということは家臣で5万石ってこの本多家が唯一の家なのである。
しかしそこら殿様並みの超豪華な本多家の屋敷を感じられるものはほとんど無くなっていた。
唯一、見れたのが屋敷の石垣。しかしここも能登の地震で影響で崩れかかっているらしく、入ることが出来なかった。
他で本多家の雰囲気を感じ取れるところが、屋敷跡に建てられた加賀本多博物館である。
赤レンガ倉庫が3棟ならんでいる。元々は明治から大正時代に建造された金沢陸軍の兵器庫だった。
一番右の倉庫が加賀本多博物館となっている。
左2棟は石川県立歴史博物館。こちらも拝観したがかなりのボリューム感と金のかかった展示で一日中いれるくらい楽しめた。
館内には初代の本多政重が使っていた武具や工芸品が展示されている。その中で写真撮影OKのものを紹介しよう。
政重は知略家の父正信や兄正純と違い豪胆で武勇に優れたタイプみたいで、かなり重そうな槍も使いこなしていた様だ。
しかし信長の野望での評価はいまいち。そもそも古い作品には登場しておらず、大志が初登場だったと思う。
本多政重は上杉家の直江兼続の婿養子になっていたことがあるらしく(知らんかった)、その時に着用していた鎧と説明にあった。
関ヶ原の戦い後の福島正則にも仕えていたことがあるらしく、徳川家にとって要注意の外様にばかり仕えている。
外様に対するスパイとして潜り込む仕事を専門としていたのだろうか。
馬具に関する品がたくさん展示されており、どれも綺麗な刺繡やデザインがしてある。
上の鎧を着て、長い槍を携えて、飾り付けられた馬に乗る姿をイメージすると、絵に描いたようなカッコイイ槍武者が浮かんでくる。
本多兄弟、対照的過ぎる…。
政重は最後に前田家に仕えることになるのだが、ちょっと不思議なことに、本多家は元徳川家の家臣なので前田家にとって外様になる。
にもかかわらず、譜代の家臣を押しのけて最高の石高を与えられているとはどういうことだろうか。
実は加賀藩二代目藩主の前田利長が自ら家康に、徳川家の家臣を前田家にもらい受けるように願ったらしいのである。
そうすることで幕府との交渉を有利に進めようと考えた。そのため、本多家には過剰な優遇をして幕府に悪印象を抱かれない様にしたのである。
実際、政重は前田家と幕府との間を奔走し関係強化に努めた。
この壺は越中に幕府か前田家がどちらの領地か不明な箇所があり、それを政重が解決をした時に拝領したもの。
最初、前田利長は政重を五万石を十万石に加増しようとしたが、逆に政重が遠慮したので、代わりにこの壺を与えたらしい。そのため、本多家では五万石の壺って呼ばれていた。
2倍はいくら何でもやりすぎやろ…。兄貴から前田家で調子乗ってるなとか思われそう。
政重を前田家にスカウト出来たことは、前田利家の奥さんの前田まつ(芳春院)が自ら徳川家の人質になりに行ったことと並ぶ、加賀藩100万石を維持出来た大きな一手だと思う。
前田家は元々、豊臣家では五大老の一つで徳川家と同列であった。それが豊臣秀吉亡き後の政権争いで家康には敵わないと判断し、徳川家に平身低頭する方針で前田家を存続させた。
前田家は武士としての意地やプライドや捨てたが、金沢の街や素晴らしい加賀の文化を作り上げ後世の私達に残してくれた。
文化の力で国を保つ、加賀藩はそれを成功させた稀有な大名であった。
金沢 武家屋敷マップ
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