金沢と言えば誰もが知る日本屈指の観光都市。あまりにも見るところが多過ぎて、旅のテーマを絞るのにかなり悩んだ。
そこで初金沢ということで、百万石と言うワードに注目してみた。
百万石とは江戸時代の藩の経済力を表している。江戸時代は税金を米で徴収しており、1石とは大人一人が一年間で食べる米の量。
つまり加賀百万石(実は120万石あった)は100万人を一年間養える米を収穫できるということである。
大量の米を売ることでお金に換金して藩の財政にあてる。豊かな経済力は金箔や加賀友禅など数々のブランド品を創り出し富だけでなく北陸の文化の中心地となった。
江戸時代、金沢はなんと名古屋と並ぶ日本第4位の都市であった。江戸時代の政治経済学者・荻生徂徠は「加賀に乞食なし、真の仁政」と褒め称えた。
高い経済力によって藩士の給与も他藩とは比べ物にならないくらい高給で、一番身分の低い足軽でも庭付き一戸建てに住むことが出来ていた。
加賀八家と呼ばれる加賀藩トップ8ともなると、そこらの小藩の殿様を凌ぐ領地と屋敷を持っていた。
そこで今回のテーマは日本一の金持ち藩、加賀藩の武士の暮らしに焦点を当て、様々な武家屋敷を巡ってみた。
金沢の武家屋敷、3つのポイント
- 日本で数少ない現存足軽屋敷
- 今も現役で住まわれている武家屋敷街
- ミシュラングリーンガイドで紹介された超美麗な庭園
金沢駅
連続北陸旅行第3弾は金沢にやってきた。
今回は新幹線開業でサンダーバードが金沢まで来なくなるので、乗り納めってことでサンダーバードでやってきた。
金沢は観光地がコンパクトに固まっているので折り畳み自転車で散策するのにピッタリの街。
早速、武家屋敷が沢山残っている長町武家屋敷跡に向かった。
足軽資料館
金沢駅から自転車で10分くらいで長町武家屋敷跡に到着。
身分が上がるごとに徐々に屋敷のランクが良くなっていくのが感じられて面白かったので、武士階級で一番低い身分のある足軽屋敷から順番に紹介して行こう。
長町武家屋敷跡の一角に足軽の清水家と高西家がある。
ごくありふれた家に見えるが、他藩の足軽は長屋(今の社宅アパートの様な感じ)に住んでいたので、一戸建てであるだけでもかなりの待遇。
意外に部屋数が多く、全部で4間とキッチンとダイニングまであった。4ⅮKといったところ。
説明によると足軽屋敷は平屋が原則で、2階は物置としての利用だったらしい。
おそらく足軽風情が2階から上級武士を見下ろすことが無いようにするためだと思う。
はしごが使用不可だったので手を伸ばし背伸びして撮影してみた(笑)。窓が一切無く2階は存在しないような造りになっている。
そもそも足軽とは何かというと、軍隊における歩兵の一種で最下級兵士のこと。戦国時代には多くの兵士が必要になり、足軽の数が勝敗に直結する様になった。
だが平和な江戸時代になるとそこまで多くの兵士を必要としなくなったため、多くの藩では足軽をクビにせざるを得ないくなった。
足軽の多くは仲間(武家の使用人)となったり、帰農し苗字帯刀が許された農民になったりした。
しかし日本一の金持ち藩・加賀藩では「一人たりとも解雇をしない」とまではいかないが、約5000家以上の足軽が武士階級として維持されていた。
内職や読書をする部屋。普段一番よく過ごす部屋だったと思う。
座敷は接客用の部屋で、雨戸を開け放つと小さいながらも庭が眺められるようになっていた。
武士の中で一番身分の低い足軽ですら、庭付き一戸建てに住んでいた。
足軽の年収、20俵~35俵は8石~10石くらい。
これを現在の年収に換算するのは年代や地域によって違うので一口に言えないが、一般的に1石が約10万円と言われている。
つまり足軽の年収は100万円くらいってところか。これで家族持ちとなると無理があるので、家庭菜園や内職をしていたらしい。
こちらは高西家。2軒とも元々は犀川付近にあったもので、なんと平成まで子孫の方が受け継ぎ住居として使われていた。
当時の足軽の家が2軒も残っていること自体が、加賀藩と他藩の足軽の待遇の違いを物語っていると思う。
葛西家と似たような間取り。
当時の足軽屋敷の家並み。現代のニュータウンの様に同じ形の家が建ち並んでいる。
こういう住宅街をよそ者がうろつくと自分がどこにいるのかよく分からなくなるので困ってしまう。昔からあったのかーとしみじみ思った。
次は一旦長町武家屋敷跡から離れ、中級藩士 寺島蔵人邸を紹介しよう。
寺島蔵人邸(てらしまくらんどてい)
寺島蔵人邸は長町武家屋敷以外で唯一残っている武家屋敷。実はこの寺島蔵人邸が金沢で一番多くの箇所が残っている武家屋敷なのだ。
寺島蔵人は450石取りの中級藩士。年収換算ととんでもない額になる。本当に中級藩士か?
13畳もある座敷。床の間の掛け軸は寺島蔵人自身で描いたものらしく、画家としても名を馳せた人だったそう。
座敷に隣接して造られた庭園。どう見ても上級藩士の屋敷としか思えない。
庭園も現存武家屋敷で随一の広さ。これでもかなり削られている。
現在残っている寺島蔵人邸は当時の4分の1になっているらしい。広すぎる。
画家であり琴の演奏家であった浦上玉堂を自邸に招き、琴の演奏の為にこの部屋を改装したらしい。部屋には玉琴の扁額が付けられている。
天井を見ると手前と奥とで造りが違っている。屋敷の方の解説によると琴の音色がより良く響く様に天井を造り替えたとのこと。そこまでやるかー。
好きなことには金と労力を惜しまないオタク気質なのかも。
座敷の隣にある茶室。茶室の躙り口(入り口)は狭くなっているイメージだが、ここは普通の大きさになっている。
扁額の「黄松琴処」は琴を弾く場所って意味で浦上玉堂自身の筆によるもの。大ファンのミュージシャンに、家で演奏してもらった上にサインまでもらうなんて、羨ましい。
茶室は結構広めで庭が眺められる様になっている。
寺島蔵人を解説した新聞記事が張られていた。どうもオタクもとい芸術家としてだけでなく、行政官としても有能で藩政改革を成し遂げようとした気骨ある人だった様だ。
しかし改革者の常で、旧守派に疎まれ能登島に流されてそこで亡くなったとある。
金沢の家族に送ったたくさんの手紙残されており、家族への愛情や民衆の為に藩政改革を訴える思いに溢れているそう。
展示室には寺島蔵人の所縁の品が展示されていた。特に心に残ったのが、
寺島蔵人が養子の息子に宛てた手紙。これでは全く読めないので解説があった。
漢文はあまり好きではなかったのでこれでも読みづらいが、家族や家臣に対する愛情と最後に会うことも出来ない寂しさが伝わってくる。
長町武家屋敷跡
長町武家屋敷跡の町並み
再び長町武家屋敷に戻り、町並みを歩いてみる。足軽資料館以外にも沢山の武家屋敷が残されているが、実際に見学できる屋敷はごく僅か。
ほとんどの武家屋敷は今も住居として住まわれている。観光客はいわば他人の家を覗き見て歩いているのである(笑)。
この雰囲気、どこも豪邸だらけで高級住宅地に見えるが、これでも中級藩士の屋敷街なのである。
敵の侵入ふせぐため、クランク状やカーブを描いている道が多い。
S字状のクランクを鍵の手といって、宿場町や武家町によく見られる。
クランクの角には鏑木商舗と言う九谷焼ショップ兼カフェがあった。ここも元々は武家屋敷であったとお店の方に伺った。
ここはどのくらいのクラスの武家だったのだろうか。中の写真撮影はご遠慮下さいとのことだった。
かなりの門構えの屋敷があった。付近を案内していたガイドさんに伺うと、誰もが知る凄い人の屋敷であった。
人様の家の表札を勝手に撮って申し訳ないのだが、あくまで長町武家屋敷跡を観光しているだけなのだ(笑)。
表札には元谷外志雄と書かれており、ここはなんとアパグループ会長の屋敷で奥さんはあのアパホテル社長である元谷芙美子氏なのである。
こちら側が正面玄関。正面の屋敷が全てアパ武家屋敷で400坪あるそう。本宅は東京にあり、こちらは別荘となっているらしい。
元谷外志雄氏は石川県小松市の出身で、広大な別荘を金沢に持つことで多大な税金を地元石川県に払っているそうだ。
ここはどなた様の屋敷は分からないが、今もお武家様の子孫の方が住んでおられるのだろうか。
長町武家屋敷跡と言うが、ほとんどが今も住んでおられる屋敷と思われるので、跡ではなく現在進行中の武家屋敷なのである。
高田家屋敷跡
次は中級武士の高田家にお邪魔してみた。ただここは屋敷は残っておらず、当時の長屋門(長屋が付いたの表門)と庭園が復元されていた。
長屋門とは門番や仲間(武家奉公人のこと)の部屋が併設された表門のこと。
高田家は中級武士で家禄が550石。この家禄でも加賀藩では中級に属し長屋門を建てることが出来たのである。
長屋門に併設されている住み込みで働く仲間の部屋。門そのものに警備員の住まいを設けるって、セキュリティーの高さが期待できそう(笑)。
仲間(ちゅうげん)の説明があった。仲間は武士最下位である足軽の下にあたるため、平民に属するらしい。
足軽とその下にいる小者の中間に位置するため、中間=仲間と呼ぶようになったとある。
クビになった足軽の再就職先の一つであった。
入り口の反対側は厩になっていた。ここで2頭の馬を飼っていたらしい。足軽とは違い中級武士ともなればマイホースを持つことが出来た。
説明パネルで面白かったのが、江戸時代の金沢城周辺マップ。金沢の面白いところが江戸時代と現在の街割りがほとんど変わっていないところ。
それというのも第二次世界大戦時の空襲が無かったため、古い街並みを残すことが出来た稀有な城下町となっている。
次はいよいよ上級武士。長町武家屋敷で最高クラスの武家屋敷、野村家に行ってみよう。
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