大野・金石歴史観光2 金沢の美食と経済を支え続けた北前船の湊町、大野・金石を散策(金石編)

目次

銭五の館

銭屋五兵衛の館

こっちが移築した銭屋五兵衛の屋敷跡。おそらくこれの何十倍のデカい屋敷だったんだろうと思う。

船の旗印。左側の旗は浮世絵が描かれている。カッコイイ。

柱時計は数字は江戸時代の日本にはなかったはずのアラビア数字になっている。海外貿易で手に入れたものだろうか。

銭屋五兵衛の小さな銅像があった。大きな銅像が銭五公園にあるのだが、そちらは行くのを忘れてしまった。

手前の穴は地下の物置らしい。

床の間

赤い壁って遊郭や花街のイメージがあったが、金沢では一般の武家屋敷や町屋でも使われていたらしい。

でもどうしても茶屋街的な雰囲気を連想してしまう。

床の間の天井

天井を見上げると、なんと左右で作りが違っていた。左が格式の高い折り上げ格天井、右が一般的な棹縁天井(さおぶちてんじょう)というらしい。

何故二種類の天井が組み合わさっているのかは分からなかった。

掛け軸

あと掛け軸をよく見ると、茶碗の絵と解説?が書かれていた。えっと…、掛け軸に茶碗の解説ってどういう事?

床の間の反対側にある展示品。こちらの掛け軸も茶碗の解説が書かれている。

自身で描いたものらしく、解説と言うよりメモ書きのような感じ。めちゃくちゃ詳細に書かれていて茶碗マニアとしか思えない。

2階に上がってきた。奥は倉庫蔵になっている。江戸時代は商人屋敷に2階を設ける事は許されなかったはずだが、ここは良いのだろうか。

やはり多額の御用金により特権が許されていたってとこかな。

2階の床の間

2階の壁の色は緑になっている。緑なのはこの部屋の隣には茶室があって、お茶の色を表現しているそう。

4畳の細長い茶室。炉が見当たらなかったり、左側の床の間が簡素だったりと何となく茶室っぽくない。

一階の掛け軸といい、五兵衛はかなり風変わりな人だった気がする。

一階の蔵にある銭屋の家系図

銭屋の祖先は、なんと越前の戦国大名朝倉家だったとある。滅んだ戦国大名が職を変えて生き残ってるってたまに見かける。

加賀藩によって家系が途絶えてしまった思っていたが、現当主清水五兵衛とあり名前を変えて今も続いているようだ。

家系図を見るといつもコブクロのバトンを思い出してしまう。

その命が走り出す為に 数えきれない程の
走者達が繋いできてくれた 一本のバトン

朝倉家から繋いできたバトンは、落とすことなく今も誰かの手の中にある。

銭屋五兵衛記念館公式ホームページへ

次は屏風に描いてあった大野湊神社に行ってみる。

大野湊神社

大野湊神社 随神門

大野湊神社は銭屋五兵衛記念館の隣にある。雪がかなり強く降ってきたが、むしろ雪が降りしきる神社って北陸っぽくて味わい深い感じになった。

大野湊神社の由緒

大野湊神社は奈良時代からあるらしく、その時から湊の守護神として大野湊神社と称されるようになったとある。

と言うことは大野湊自体が奈良時代あり、その時代には影も形もない金沢よりも古い歴史を持つ町なのである

拝殿前の鳥居
拝殿

初めて見た時は驚いたが、雪が降る時期の北陸の神社は本殿を覆っている覆屋をよく見かける。

4月頃には取り外されるみたいだが、文化財を守るため毎年付け外ししなければならない雪国の苦労を感じさせる。

大野湊神社公式ホームページへ

次は銭屋五兵衛のお墓がある本龍寺に行ってみる。

本龍寺

本堂

本龍寺は江戸初期に富山県砺波市から金石に移ってきた。

ここの見どころが本堂にある富山県の伝統工芸・井波彫刻であるそう。

本龍寺の元となっているのが富山県南砺市にある瑞泉寺。

江戸中期に火災で焼失したが、再建時に技巧を凝らした彫刻が散りばめられ井波彫刻が始まったと言われている。

井波彫刻

本龍寺の建立は瑞泉寺再建に携わった柴田清右衛門と言う大工によって建てられた。

しかし堂内を見学するには事前予約が必要みたいで、中には入れなかった。

本堂の外側にも彫刻があった。これは虎?ライオン?とにかく躍動感あってこれだけでも技巧の凄さが分かる気がする。

屋根の軒下

軒下にも凝った彫刻がしてある。網で少し見にくいが松の木が形作られている。

銭屋五兵衛のお墓

ここが銭屋五兵衛のお墓。静かにご冥福をお祈りいたしました。

安宅弥吉の墓

五兵衛のお墓の隣にも、もう一つお墓があった。

松の木のうねり具合が凄すぎて誰の墓なのか見えなくなってしまっているが、解説によると安宅弥吉という人の墓とあった。

金石の人で銭屋五兵衛に憧れて貿易商の道を進み、日本十大総合商社(三井、三菱、住友等)の一つ安宅産業の創始者

銭屋五兵衛と同じく自分が儲けるだけでなく、学校に寄付をする等多くの社会貢献に力を注いだ人であったそう。

命のバトンは血のつながりだけでなく、志のつながりによっても受け継がれていくものだと思う。

志を同じくした師弟関係の様な二人が隣り合って眠っていて、天国では貿易業と地元金石の話に花が咲いているに違いない。

松尾芭蕉の歌碑

寺内には松尾芭蕉の歌碑があった。金石で連句指導の依頼があって立ち寄った時の句とある。

小鯛さす 柳すずしや 海士が軒

本龍寺公式ホームページへ

最後に今の金石港はどうなっているか見に行って、旅を締めくくりたいと思う。

金石港

金石港

川の横に入り江の様な水たまりがあり、多数の漁船が停泊している。ここが現在の金石港で海から犀川を少し遡ったところに造られている。

いつからあるのか調べたがよく分からなかったが、国土地理院地図によると明治時代には存在していなかった。

ここに銭屋五兵衛博物館の屏風に描いてあった宮腰(金石)港があった。

今は何もない広大な川を一艘の船が日本海へ向かって航行していた。

筆者はこの後、金沢に戻って安くて美味しい北陸の魚をたらふく食べたのであった。ごちそうさまでした。

金石 全体マップ

長文でしたが最後までお読みいただきありがとうございました!

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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