今回は金石編。解説は大野編でしたので省略します。
大野・金石、それぞれの特徴
- 醤油の五大生産地の一つで、昔ながらの醤油蔵が立ち並ぶ大野
- 金沢藩の北前船交易の拠点、廻船問屋や豪商屋敷が残る金石
大野・金石の観光マップ
北前船の湊町、金石
金石の町並み
犀川の河口にある金石は古くは宮腰津と呼ばれ、日本海に面した川港が大いに賑わっていた。
そのため、大野の醤油蔵に対して、金石は廻船問屋や寺社仏閣が多く残っている。
大野地区と共に金沢市独自の重伝建地区「金沢こまちなみ保存地区」に選ばれている。
特に金石が発展するのは江戸時代以降、加賀藩が成立した時。加賀藩は自藩の米を関西で売るために宮腰(金石)を集積港とした。
廃船となった船板を使った船板塀は北前船の廻船問屋の特徴の一つ。釘跡が規則的に残って模様の見える。
長年、海水に浸かり塩分を含んだ船板塀は虫害、火事を防ぐ効果があるそう。
大野と比べ金石は、過度に観光地化せずに地元の人の生活を守ることを重視されている様に感じた。
宮腰(金石)から金沢市街地まで一直線に伸びる金石往還。加賀藩主3代目の前田利常が宮腰(金石)を年貢米の集積地とするため開削した。
当時から金沢城下町まで一直線に作られており、現在も道を拡幅して同じ場所を通っている。
専長寺
町を散策していると雰囲気の良い寺を見つけた。
門や塀の屋根は加賀独特の赤瓦。
塀の石垣は六角形の石が組み込まれ、色合いがカラフルで金沢城の石垣みたい。
門の様式は金沢では珍しい平唐門であると解説にあった。
門には専長寺の紋である牡丹の彫刻がされていた。
なんとも可愛い感じの牡丹が門の真ん中にデカデカとあって、思わず写真を撮ってみた。
どこから伸びているか分からないくらい長い枝のクロマツに覆われた参道。
専長寺は真宗大谷派(東本願寺)の寺院。
1400年代中頃に念仏道場として建立され、その後本願寺第八世蓮如上人によって「法運専ら長久なるべし」として専長寺の寺号を授けられた。
松の枝の間から緩やかな勾配を描く鮮やかな赤瓦があり、緑と赤の配色バランスが美しい。
町名の石碑
引用元:かないわおこし
金石町内にはあちこちに町名の石碑が立っていた。
金沢なのに上越前町とは福井県に侵略されたのだろうか。もちろんそうではなく、越前と取引する人が多く住んでいたことに由来するとのこと。
金石にはこの様な北前船交易の湊町を彷彿させる町名がたくさんあったのだが、一時期別の町名に変わっていたらしい。
1960年代に住居表示制度が採用され、全国的に町名や番地の整理が行われたためである。
分かりやすく便利になった反面、地名に込められた土地の歴史を失うことにもなった。
地名は住んでいる人の誇りにもなっており、実際、金石では旧町名復活の議論がされ金石の多くの町が旧町名に戻ることになった。
その結果、石碑が建てられ、かつて加賀地方有数の湊町だった記憶は町名の中に生き続けている。
写真を撮り忘れたが、どうしても紹介したいと思い、金石町商店協同組合のホームページ「かないわおこし」から引用させて頂いた。
引用元:かないわおこし
驚いたのがここ松前町。ひょっとして北海道の松前のこと?と思ったらその通りだった。
北海道松前と取引を行っていた人々が住んでいた町で、正に北前船交易の代表地名そのものが町名になっている素晴らしい町。
観田家住宅
ここは当時、町年寄(今の町長)を務めた湊屋左太郎が明治初期に建てた邸宅。湊屋左太郎は加賀笠を商う廻船問屋でもあった。
昭和に観田家に持ち主が変わり、今も住んでおられるため中の見学は出来ない様だった。
ここだけでなく、他の廻船問屋も今も住んでおられるところばかりで、観光のためにあるのではなく、日常の中に存在している。
現在も使用中の家に観光案内がかかっているって何とも不思議な感じ。
しかし中を拝見出来ないというのは、やはり物足りない。どこかないかとネットで探してみると、銭屋五兵衛記念館と言うのを見つけた。
銭屋五兵衛記念館と銭五の館
銭屋五兵衛とは金石で6代にわたって両替商や呉服商を営む商人だった。
5代目の時に海運業者を始め、6代目がわずか20年で保有船舶200艘以上の大企業に急成長させた。
加賀藩の経済を支えるまでとなり、海の百万石と呼ばれた人物。
その銭屋五兵衛の記念館と復元した屋敷があった。
北前型弁才船。弁才船とは江戸時代に広く普及していた貨物船のこと。
航海の雰囲気を味わえる面白い演出があった。
船内のスイッチを押すと当時の船員のやり取りが始まる。
嵐が迫ってくるという状況となり、波の轟音とともに船全体が少し震える様になっていた。結構臨場感があったので訪れた時には是非。
船の説明。積載量を増やすために甲板を設けないってヤバすぎる。
船員の命より利益を優先しているとしか思えない。船が沈めば荷物も台無しになるのに、リスクヘッジを考えてないのだろうか。
北前船の海運業の特徴は単に荷物を輸送するだけでなく、各寄港地で特産物を安く買って、それを高く売れる港で売りさばくことにあった。
銭屋は海運業として材木問屋として始め、青森方面のヒバ材の取引業務をしていた。そのために重要なのが各地の情報収集だった。
宮腰の本店を軸に全国に支店網を張り巡らして、各地の景気や品物の過不足の情報を便船や飛脚でやり取り出来るようにしていたとある。
江戸時代はそれ以前の様に公家や武家の様な官の時代ではなく、経済を握る一般人が国を動かす民の時代だと思った。
筆者はそんな江戸時代が一番好きで、現代と直接つながっている様な感じがして強い愛惜を感じてしまう。
驚いたのが鎖国下の当時に、なんとサンフランシスコやオーストラリアのタスマニアにまで行っていたらしい。
あくまで伝説らしいが、銭屋五兵衛の巨万の富はそうでもないと説明がつかないとある。
江戸時代に密貿易を行っていた商人は結構いたらしいが、外国へ行くのではなく、夜間に海上で行われるのが基本だった。
五兵衛は密貿易を儲けた利益を加賀藩に多額の献上金を納めており、加賀藩は黙認していたとある。
薩摩藩も藩ぐるみでやっており、ペリー来航を待たずして鎖国政策が時代に合わなくなっている。
しかし加賀藩の発展に貢献した五兵衛に対して、藩は恩を仇で返した。
五兵衛が河北潟埋め立て工事をしていた際、河北潟の魚を食べた者が中毒死する事件が起きた。
加賀藩は海外貿易が幕府に露見するのを恐れて、五兵衛が河北潟に毒を入れたとして一族を投獄した。五兵衛は獄死し、銭屋は財産没収、家名断絶とした。悲しい結末過ぎる…。
うまく幕府の目をやり過ごして持ちつ持たれつの関係を維持することは出来なかったのだろうか。
近くの寺に銭屋五兵衛のお墓があったので、この後で行ってみた。
同じく密貿易をして財政再建を成し遂げた薩摩藩との差を感じてしまう。幕末から明治に至るまでの加賀藩の行動は隔靴搔痒の感がある。
幕末の宮腰を描いた屛風が展示されていた。左上には帆船がたくさん停泊しており、そこが宮腰港だった。
現在は少し川を上流に行ったところに移転している。記念館を出た後、どの様になってるか見に行ってみた。
また河口には現在は無くなってしまっている冬瓜橋がかかっている。
江戸初期に前田利常によって開削された金石往還。金石から金沢城まで一直線に伸びている。
道沿いに松並木も植えられて、何もない田園地帯を一直線に伸びる道はなかなか壮観だったと思う。
金石往還から上に伸びる二筋の道には鳥居が描かれており、その奥の森が今もある大野湊神社。これも記念館の後で行ってみた。
次は記念館の横にある銭五の館に行ってみる。
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