伊勢神宮歴史観光1 新たな魅力を再発見!江戸時代のお伊勢参りを辿る(外宮編)

目次

外宮周辺

外宮の門前町 山田

伊勢市駅前

帰りは流石に面倒くさいので電車で戻って来た。

駅前からは門前町の山田があり、外宮まで旅館、食堂、土産物屋が並ぶ参道が続いている

内宮の門前町・宇治おはらい町に行ったことがある人は筆者と同じ感想抱くと思うのだが、おはらい町に比べると観光地として物足りない感じがするのだ。

神宮自体も外宮より内宮の方が参拝客が多くなっている。しかし昔は外宮の方が参拝客数は多かったのである。2つの門前町の歴史を調べてみると何故それが逆転したのかが分かった。

外宮参道

冒頭でも少し触れたが、元々、伊勢神宮の運営資金は朝廷が担っていた

しかし戦乱によりそれが失われ、外宮と内宮は資金調達のため御師と呼ばれる神職が各地を回る伊勢神宮宣伝活動を開始した。この時から外宮・山田と内宮・宇治の発展に差が出始めた。発展が上回ったのは港が近く地理的に優位な山田であった

山田はその優位性を利用して山田と宇治の間に番所を設置し、宇治に物資や参拝客が流れない様にする妨害工作にでた。

これに対してブチ切れた宇治は伊勢守護の北畠氏を味方につけ、山田に攻め寄せた。この戦いでは山田の町や外宮御正殿が焼失するという被害が出ている。

3年後、今度は北畠氏を味方につけて調子に乗っている宇治に対して山田は周辺の兵力をかき集め、大軍で宇治に攻め寄せた。戦火は内宮にも及び幾つかの社が焼け落ちた。

神の前で行われた山田と宇治の仁義なき戦いは200年ほど続いた。全ては自らの神宮の優位性を示し、より多くの参拝客を獲得するためであった。

外宮参道

戦いが収まるのは豊臣秀吉が天下統一し全ての戦争行為を禁止してからである。この時、それぞれの神職らは秀吉との交渉で本州で唯一検地を行わないという権利を勝ち取った

それは江戸幕府にも引き継がれ、宇治と山田は幕府の直轄領となり政務はそれぞれの町民の自治に任された。

平和な世の中になったことで、御師がより精力的に各地を巡り伊勢神宮の宣伝活動を続け、外宮、内宮共に参拝客はうなぎ登りに増え始めた。

冒頭でも少し触れた庶民によるおかげ参りの大流行である。争いを辞め平和的な宣伝活動の結果、両宮とも大成功を収めたのであった

外宮参道

明治時代となり宇治と山田は呉越同舟で宇治山田町となった。鉄道が通り現在の伊勢市駅が開業と言う事もあり、昭和中頃までは地理的に有利な外宮の方が参拝客が多かった。

しかし第二次世界大戦での宇治山田空襲により町の6割が焼失した。復興が中々進まず、被害が少なく風光明媚な二見浦や鳥羽に宿泊客を奪われてしまった

そこで宇治山田町改め伊勢市の山田地域は伊勢志摩最大の町である事を生かし、観光ではなく商工業都市にシフトし現代に至っている。それに対して宇治地域はどの様に活路を見出したかは内宮編のおはらい町で。

山田館

山田館

戦前、駅前から外宮までの参道には数多く旅館が並んでいたが、その全てが焼失してしまった。しかし奇跡的に唯一焼失から逃がれ現在も営業続けている旅館が山田館である。

山田館は大正時代に建てられたもので、当時はこの旅館の様な木造三階楼の建物が参道をひしめき合っていた。当時の写真が山田館のホームページで見ることが出来る。

公式ホームページへ

伊勢神宮外宮(豊受大神宮)

火除橋
豊受大神宮(外宮)案内パンフレット

伊勢神宮外宮に到着。正式名称は豊受大神宮(とようけだいじんぐう)といって豊受大御神を祀っている

防火の為に造られた堀にかかる火除橋を渡り、神域に足を踏み入れる。外宮の特徴は御正殿を含む外宮の神域は城郭の様に堀や池に囲まれた位置にある。

手水舎

手水舎で手と口を清めたらまずは御正殿を目指す。

正面の塀が御正宮

脇目も振らず御正殿に向かう。御正宮を最初に参拝してから、別宮を巡っていくのが正式順路。

外宮御正宮

御正宮には豊受大御神が祀られている。太陽の力で作物を育てている天照大御神に対して、豊受大御神はその天照大御神の食事を受け持っている神様。古代の人々が食を得ると言うことがいか大切と考えていたことが良く分かる。

ここより先は写真撮影は禁止となっている。

古殿地

御正殿の隣には大きな空間が広がっている。ここは古殿地といって式年遷宮の時、新しく社殿を建てる場所で、20年ごとに社殿の左右の位置が変わることになる。

伊勢神宮には古殿地が設けられている社殿が数多くあり、式年遷宮は御正殿だけではなく別宮も建て替えられる。実はこの時初めて知った。何度も来ているのにまだまだ知らないことばかりだとつくづく実感した。

多賀宮への階段

次は別宮を巡っていく。別宮は外宮内に3ヶ所あり、何故か全て外宮を囲った堀の外にある。まずは外宮第一の別宮、多賀宮へ向かう。外宮は背後にある高倉山の麓に位置しているが、多賀宮のみ高倉山を登った他の社殿より高い場所にある。

多賀宮

多賀宮は御正殿についでに重要な神社で豊受大御神の荒御霊を祀っている。何故かここだけ鳥居がない、高い場所にあるなど他とは違う特徴を持っている

多賀宮の参拝を終えたら次は山を下りて土宮に向かうのだが、江戸時代以前はその前に多くの人が向かっていた名所があった

多賀宮の奥から高倉山に登る道があり(明治以降封鎖され入山禁止)、そこには高倉山古墳と言う三重県で一二を争う巨大な古墳がある

古墳には大きな石室があり江戸時代以前は多くの参拝客が訪れ近くに茶屋や休憩所まであったらしい

それが何故か明治以降立ち入り禁止となり、更に奇妙なことに別宮エリアに来るときに渡った亀石は元々石室にあったもので、それを橋の代わりにして踏み歩くという意味深な仕打ちとなっている。

土宮

ここ土宮も他と違う特徴を持っている。それは外宮内の社殿はすべてほぼ南向き建っているが、土宮のみ東向きに建っている

その理由は外宮が鎮座する前からあった神社で、古代のこの付近・山田原は宮川のデルタ地帯になっており、土宮は宮川の洪水から山田原を守る土地の神様として崇められてたと言われている。

外宮を囲っている池や堀は昔の宮川の名残と言われているくらい近くを流れていた。

風宮

風宮は農作物の育成に重要な雨風を操る神様を祀っている。

亀石

これが高倉山古墳の石室にあったと言われる亀石。誰の墓なのか分からないが、古墳の石を知らないうちに踏まされていた。

忌火屋殿

他にも様々な施設があるが別宮と並んで重要なのが忌火屋殿天照大御神の食事を作る台所。前夜から籠った神職が毎日、早朝の決まった時間に伝統的な火起こしで火を起こすところから料理の工程が始まる。

完成した神饌(神様への供える食事)は御正殿の後ろにある御饌殿に運ばれお祈りがされるとのこと。

せんぐう館と奉納舞台

手水舎まで戻ってきたら、その隣には2013年(平成25年)に建てられたせんぐう館がある。ここは以前一度拝観したことがあったので今回は立ち寄らなかった。

今も覚えているのが外宮御正殿が原寸大の再現。御正殿は間近で見ることが出来ないので、それだけでも一見の価値があると思う。写真はせんぐう館から見える勾玉池と奉納舞台。

公式ホームページへ

地図 外宮周辺

次はいよいよ伊勢神宮の元祖と言える、内宮へ向かう。

伊勢神宮歴史散歩 新たな魅力を再発見!江戸時代のお伊勢参りを巡る2(内宮編)へ。

伊勢へのアクセス

鉄道🚃 
・JR参宮線伊勢市駅下車。
・近鉄山田線伊勢市駅もしくは宇治山田駅下車。

🚙
・伊勢自動車道・伊勢西IC下車。約5分

長文でしたが最後までお読みいただきありがとうございました!

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この記事を書いた人

著者;どらきち。平安京在住の地理、歴史マニア。 畿内、及びその近辺が主な活動範囲。たまに遠出もする。ブラタモリや司馬遼太郎の「街道をゆく」みたいな旅ブログを目指して奮闘中。

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